萌えてばかりもいられない!

そんなに色々なことにやたらと深い造詣などいだけないから適当に綴っていこうかしらん

香港旅行記5 最終章 1998年11月

2011-09-20 05:04:17 | 懐かしい思い出
さぁガイドブックの件とともに思い出しながら書き始めた13年も前の香港旅行記、これにて最終章になります。今を生きているはずなのに過去をたっぷり引きずっている。。。
人間誰しもそんなものだと思いますが、改めて『過去のドレイだ、生きた化石だ』と綴ったTOMOVSKYの歌詞が胸を打つのでございます。。。。


『センターは中心』

香港というか広東語というか(中国語というか)には、全ての表記を漢字にし尽くすことが常である。日本語のカタカナは曖昧に英語のものを混在させるのに便利だが、改めて漢字ばかりの表記を見ていて気付いたことがあった。
中心、これは英語のcenterを指している。世界貿易センターは世界貿易中心と書かれ、商業中心と書かれれば、商業センターねと。。。あぁなるほどと思うことがあった。
日本語の意味でセンターは、なんとなく「大きな建物」をイメージさせる。ショッピングセンターとかいう使い方だが、中心と書かれるとそういうことではないのかと気付かされるのだ。ここは中心なんですよ、みんながその件で集うところなんですよという、”象徴なのだ”という主張があって、例えば中央卸売センターという名前では、中央とセンターの意味が被っていて実はおかしいのではないかと思った次第だ。中心というのは当て字なのかもしれないがそう書かれていることで、本質を言い当てているのではないかと勘繰った。

その世界貿易中心の地下では様々な食材を扱うスーパーがあった。
セシリアさんがニュージーランドで見た様々な味の種類がある「出前一丁」がここでも多種売っていた。蝦味のものを複数購入し実はこれも抽選で渡したお土産8種の中に忍ばせていた。
「香港のお土産が出前一丁かい!」と当った友達は笑ってもらってくれた。そうだよ、あらよ出前一丁~♪


『発熱』

毎日を楽しく過ごしてはいたものの、少しハイペースな気もしていた。
あるときcat streetの帰りにレストランにより、食事の後に、『檸檬珈琲』なるものを頼んだら、予想外にアイスではなくてホットだったこともあり、飲み干すのが辛かったことがあったのだが、(まずいというより酸っぱいコーヒーになってしまっているだけな感じ。でも結局は味が融合せずに馴染んでいないものをまずいと感じるのかも?)そんなものを呑んだ直後に体に異変を感じた。
当時は常用していたバファリンを飲み、鎮静を待った。一晩で治ったがその後は港でポケっと過ごす時間とかも多くなった。港で対岸を眺めて過ごすことも。。。路面電車で終点まで行くとそこで腰掛けられる場所を探しては誰も来ないところでぼんやりと過ごすことも多くあった。

ハッピーバレー競馬場、開催されていない競馬場の周辺でも、街の一隅に腰掛けて、誰も来ない競馬場を眺めたりもした。大きな芝生を持つその競馬場の眺めは所狭しのこの国の中では、なんとなしに贅沢な印象があった。ここに来たのは初乗りで決ったお金を払えばどこまでも乗っていい路面電車(トラム)の終着駅だったからである。
当時はいつまでもポケッとしていられる最強のアイテム、煙草を常用していたのも大きかったかもと思う。腰掛けていつまでも誰もいない競馬場の周辺の景色を眺めていた。

ポケッと過ごすくらいなら澳門にでも渡ればと思われるだろう。。。でも私は澳門に渡ることはなかった。私は博打にとても縁がないと思ったのも一つの要因だ。また香港に宿を取っているのに澳門でも泊まろうと思った沢木耕太郎のことが頭に残っていて、高速船を使えばすぐなのかも知れないが、香港に宿があるのに少し離れた澳門まで行く勇気がなかったというか、またホテルを探すのかという面倒臭さというか、ある程度のお金さえ持ち合わせていればなんとでもなるのだろうが、この辺が私のビビリの限界だろう。。。やはりどこかまた別の世界を飲み込むには勇気が必要だったかも知れない。


『封印したビクトリア・ピーク』

私はあらかたの香港の観光地に足を運んだつもりだったが、一つだけ行かない場所を設けた。全て行き尽くしたなんて、ある意味絶対それはあろうはずがないが、決定的に有名な場所で一つ、ビクトリアピークという観光名所には登らないことにした。
香港島の中腹にあるケーブルカーで頂上に登って夜景を見たりするのが有名な観光スポットだ。そこからの景色は下界からそのケーブルカーを見る度に景色を想像することはあっても、実際の光景は知らないようにと決して登らないことにした。
またいつか香港に再訪することの楽しみにと封印することにしたのだ。


『普通の街もある』

様々な乗物に乗ったが、いかにも居住区なのだな?と思える場所も存在する。熱気を帯びている場所ばかりに人だかりするので、どこもかしこもお祭り騒ぎな印象があるが、落ち着いた居住区もあるものだ。ただ地下鉄の駅はとても便利なので、その近くは例え居住区であっても少しだけ密集感がある。


『迷い込んだマーケット』

実は二度とその場所には行けなかったのだが、廟街の裏手(西側)の方にある市場に迷い込んだことがあった。本当にそこでは香港の人たちだけしかいないような場所で売り買いされているものがとてもびっくりするようなものだった。
今でも鮮明に覚えているのは、網の中で蠢く蛙。一人の男が売っているものは新鮮な蛙だった。網から取り出しては皆の目の前で捌いていく。新鮮だろ?と云っているようで、生々しいその解体現場に出くわし、価値観の違いを感じ取った。これを食べるのか?という思いもあったが、それは食習慣の違いなだけだ。過去に親父に食べさせられたこともある。それよりも解体を見せつける価値観が大きく違う。
日本人は生で食を楽しむが、生体の解体現場を見せて、その新鮮さを味わうわけではない。活造りやマグロの解体ショーがそうだというかも知れないが魚類は言葉鳴き声を発しないし、マグロは活きがいいが生きているわけではない。一方中華料理では生の食べ物はない。どんなものにも火が入っている。やはりどこかに食習慣の違いはあるものだと思わざるを得ない。新鮮さを見せ付けてもそういう食べ方はしないところが備えている食材への価値観の違いを感じないわけにはいかない。
食というのは実は究極の分業が備わっていて、私達はある過程の部分から目を背けて生きているのだということを理解した。色々な命のやり取りがそこかしこで行われている。食材とは究極はそういうことだというのを目の当たりにしたのだ。そしてその衝撃をその場所を離れてからも何度も何度も反芻した。
実はその場所をもう一度探そうと彷徨ったのだが、記憶違いか思い込みが激しかったのか、改めてその市場に辿り着くことが出来なかった。二度と行けない、行かなかったわけではなく行こうとはしたのだ。もう一度現実をしっかりと目に焼き付けておこうと思ったのだ。けれど、幻の場所だったかのようにその場所には二度と辿り着けなかった。

他にも旺角モンコックの方で蛇に囲まれたお店があった。奥では座って黙々と箸を動かしている人が見えて料理店だということに気付いた。多分精力をつけるためにあれを捌いてもらって食材として食べさせる場所なのだろうと思う。店頭に立つ女主人の怖い顔を今でも思い出すことがある。後は棺桶屋さんを見かけることもあった。狭い世界では裏方のお仕事も全て剥き出しになっているようなイメージだった。他の国ではまた別の価値観があるのだろうし、街の構成もその国の持つ価値観が現れる。単に価値観の違いなだけかも知れないが、それをエネルギッシュに感じることが多かった。

『こっちも一緒だという両替所のインド人』

毎朝起きては早くから朝飯を食べに行き、朝食の帰りには朝から開いているお店を物色したりした。
スーツケースを購入したのも朝だった。それを売っていたのは、泊まっている美麗都大厦(ミラドマンション)だったか、重慶大厦(チョンキンマンション)だったか、またその近くだったか。。。
おはようは広東語でゾーサンという。ゾーサンゾーサン云いながらお店の人に声をかけていくおばさんの後ろを付いて行き、元気よく挨拶を返すお店で購入した。
そのスーツケースは布製だったのでかなり安かった。
またホテルで出かける支度を済ませて、街に出るとまず寄るのがいつもの両替所。
インド人が多く住む重慶大厦の両替所に並んでいると非常に混んでいる。。。そこにこっちに来てみろという男がいるのだが、この店のレートがいいことを知っているので断ったのだが、彼は通じないのか?と呆れている。そんなに云うならと列を離れてみた。レートが悪ければまた戻って並びなおせばいい。そうすると奥では同じお店の系列店があり、誰も並んでいなかった。そうだったのか。。。レートはまるで一緒で交換されたお札も別に怪しいものではない。疑って悪かったと、帰りがけに声を掛けてくれたおじさんにお礼をいい、非礼を詫びた。旅先では声を掛けられると身構えてしまうものだが、別に全部が全部騙そうと思っているわけではないのだと思うこともあった。ただ、声を掛けられるとやはり身構えちゃうけどね。


『旅の友、御小遣い帳』

実はこの香港の旅から確立した一人旅のアイテム、御小遣い帳というものがあって、全ての支出を書き込んであった。
夜や暇な時間はそれを眺めながら香港での出来事や思い出の一つ一つを思い出す。当時のメモ帳は今はもう存在しないがこの方法論はこの前の高山・岐阜・安土・京都の一人旅でも行われた。もちろんだがその遣り方(というか書き方)も進化している。(笑)
今はお金のかからなかったことも0円として書き込むのだ。そうすることで全ての出来事が記録されるようになる。
一人旅の時間も最後の方になると、独り言が出たり、テレビをみながら声を出して笑ったりすることが増えてくるような気がする。
5日目くらいには、英語で喋っている夢を見て目覚めたのだが、別に思考法が英語に慣れたとか云うわけではないことが分かった。単に色々と細かい部分や考え方というか気持ちまでも誰かに英語でもいいから伝えたいという気持ちが強くなっていってそういう夢を見たのだろう。即物的なことは表面の表現(ジェスチャー)でも伝わる。。。が、感じたことを伝えようにも相手がいないというのはとても辛い状態だった。当時ネットカフェがあり、ブログというものがもしも存在したのなら、私はこの前の旅のように途中途中でバシャバシャと書き殴っては次の日に向かうというような旅をしていたかもしれない。。。と思うこともある。


『香港藝術館』

この時、香港藝術館ではエジプト展が開かれていた。ツタンカーメンの幟が印象的でミイラとか棺とか色々なものを見た。常設展示の方では余りいい印象がない。中国返還後だったことも関係するのかも知れないが、アヘン戦争や第二次世界大戦での香港の歴史の展示がされていた。でも最後の方ではクイズのような子供向けの展示が待っていて、正解の戸板を押すとクルッと裏返って、BINGO!という文字が見える。不正解の場合はなんと書いてあったか。。。regret?一問も間違わなかったのかも?いや、覚えていないだけだ。


『廟街での大量買付け』

最後の晩は、友達と香港島の方で逢う約束になっているので、廟街へのお出かけはこれが最後だと帰国の前々日の晩に訪れた時のことである。
廟街の名前の由縁である廟の周りには鉄柵が施されていて、その柵に色々な小さな掛け軸のような上部に極彩的な色の画を持つ来年のカレンダーが飾られて売られていた。
それらはちょうど「全色揃いのクレヨンの入れ物」のような箱に入っていて、取り出す横の口のところに「Hanging Scroll」と書かれている。1個250円(?)くらいのものだった。
お土産にいいなと色々な種類の画のカレンダーを箱から取り出しながら見せてもらい、数種類を各々数個、中には一つしかないものもあったが、選んで買うことにした。
そこで、教わった広東語の数字を駆使して、計算結果を伝え合うやりとりをした。18HKDのものを13個くらい購入したのだ。
でも売っているおじさんとなかなか数字(計算結果)が合わない。むしろ向こうが少ない金額を云ったりしている。。。座り込んで「違う、違う」と身振り手振りでこちらの計算結果を伝えていると周りに人だかりが出来てしまった。
埒が明かないと一つずつ購入する掛け軸カレンダーの入った箱を積み上げながら、掛け算の計算結果を一つずつ伸ばしていく。
その人だかりの人達が銘々私と同じ計算結果を広東語でハモッていく。とうとう最後の一つをその場の全員でハモるとおじさんは納得してお金を受け取ってくれた。
その場のみんなにお礼を云って頭を下げ、みんなからの祝福の拍手でその場を去った。

気分が良くなった私はおでんのような物を売っている場所が何箇所かあるのだが、そのうちの一つで、タコのような切れ目を持つフランクフルト大の食材を求めた。
実は食べ方とか買い求め方とか一番分かりにくいその食べ物。現地の若者が店主に何事かを伝えて私の買い物の補助をしてくれる。その場で食べるのか持ち帰るのか?と聞かれたのか、それともソースを付けないのか?とか聞いているようだった。全て広東語だったので真相は一切分からないが、無事その串に刺さったフランクフルトを湯に潜らせてソースのようなものを付けたものを手渡された。
今思えば日本の即席フードでも注文時に色々と注文を添えたりする”あれ”のことだったのだろう。注文時に「葱多めで」とか、「麺固めで」と出来上がりに注文を付けるものもあれば、店側も「辛子つけてもいいですか?」と聞かれたりとか。餃子でさえお持ち帰りの時は生か焼いたものかをお客に聞いたり。。。と少し会話をしないと買えない物があるのが分かる。旅の途中で疑り深くなることもあったのだが、最後の方では何もかもが絶好調だった。

購入した掛け軸は、1999年 世紀末のカレンダーを持つものだが、日本のカレンダーではないため祝日が一切分からない代物だった。
友達の家で世紀末が過ぎてもトイレに飾ってあるのをみたときは驚いた。自分はもうその時は持っていなかったから。。。

『友達と逢う』

香港に赴任している大学時代の友達がいた。街の公衆電話から職場に掛けると、「本当に来たのか?」と応じてくれた。
事前にメールで香港に来ることを伝えてはあったのだが、迷惑がらずに逢おうと応じてくれたのは助かった。本格的に誰とも話さずにいるので、なんとなく頭が整理できずに澱んでいるような気分になっている。
最後の晩に銅鑼湾(Causeway Bay)で逢うことになった。彼は北京ダックを食べさせてくれるという。北京ダックはここではしっかりと丸ごと一羽分を出してくれるので、一人や二人では食べられないということで同僚も連れて来てくれた。
彼らは空調機を取り扱っていた。「ここ香港のエアコンはキンキンじゃなきゃ売れないんだよなぁ。。。」と云っていた。私も部屋のエアコンが寒いくらいに冷えるというと、「ほんのりとか微冷とか微風とかいう日本の価値観が通じない」と云っていた。クーラーはどれだけ早く急激に冷やすことが出来るかという価値観だけ、いや本来そういうものなのだが、本質をそのまま極大に求めていくのがここ香港だと云っていた。
私は香港で回った場所やら感じたことなどを喋り続けた。「そうそう」とも「えー」とも色々な感想を聞けたのだが、やはり日本語が喋れるというのはその時はとても嬉しかった。
初めて食べる北京ダックだが、包み方を教わり、美味しい美味しいとドンドン食べる。お肉の部分は余り美味しくないが持って帰るか?と聞かれたが、身の部分は油っ気がまるでなくてとても美味しくはないと味わってから理解したので辞退した。
なんとなく気後れして中環(Central)の中の西洋人のビジネスマンが集うようなバーやレストランには近付かなかったのだが、彼らが行こう行こうと誘ってくれた。地下鉄の駅で地上に上がる手前でゲリラ的にトランクを開けて商売しだす男が居て、彼らがそれを見て購入している。売人は英語でとても安い本物だと押し殺した声で喚いている。まぁ売っているのはパチモンの時計だった。
バーで二人は「これがカルバン・クラインの時計だよ。」「こっちはエルメスだって。」と私に買った時計を笑いながら見せてくれた。本物を知らない私はパチモンの精巧度合いさえも分からない。見た目は意外といい造りだけどすぐに止まっちゃいそうだな?と笑っていた。

終電近くに尖沙咀(Tsim Sha Tsui、チムサーチョイ)へ地下鉄で帰った。彼らは職場も住まいも香港島の方だった。


『さらば香港、Mr.Hanging Scroll!!』


旅程のどの辺りで行ったのか。。。。
九龍鉄道で沙田に行き、そこで沢木耕太郎のように、国境がみたいということで交通機関(バス)を探した。中国返還後なのだから国境はもうなかったのだが、old international borderにはどう行ったらいいのかと駅前のバス停で色々と聞き回ったのだが、もう国境はないと云われたり(知ってるって!)するばかりで、もどかしかったことなどもあった。結局断念した。

まぁ色々あったが最終日(出発の日)は昨日友達たちが喜んで買っていたパチモンを探したりしていた。これがG-SHOCKね。。。というC-SHOCKとかいう紛い物(まがいもの)を売っているお店などもあったりしたが、ああいう見た目重視のブランド系のパチモンはゲリラ的な商売をしている人だけが扱っているようで、店舗を構えるようなものはもっと奥の目に付かないような場所で商売しているのかもしれなかった。
冷静に立ち返って『俺は何を買おうとしているんだろう』と思い、乗り遅れが効かないfixedのチケットなので、そんな買い物は止めて早々と空港へ向かうバスの停留所を探した。

煙草は旅行の前日に買い込んだものと羽田の免税で買ったもので間に合ったので、香港では一箱も買わずに済んだ。


九龍公園で記念に撮った写真が下の写真だ。最終日の前日あたりで撮ったものだと思う。
タイマーが待ちきれずに立ち上がったピンボケの写真なので公開しましょう。
今より15kgくらい体重が少ない13年前の写真なので、随分違う。
周りでもヤッ・イーッ・サムッ!(1・2の3)で写真を撮っているグループが何人も居た。

フィルムで撮ったカメラは今だとトイカメラのように味のある写真になるんですね。。。

空港に向かうバスの車窓。まだ訪れていないと思われる街の数々。
全て行きつくしたと思っていたのは大きな間違いだった。

空港内での喫煙場所は少なく、チェックインが始まるまで空港の外で煙草ばかりを吸っていた。
チェックインの際、今度の飛行機はすべて通路側を押さえた。煙草を吸いながらメモを眺めたりして様々なことを思い出していた。
香港では運よくなのか一切の降雨に遭わなかったし、適度な気温で過ごすことができた。
出国検査を済ませ、中の免税店で煙草を買い込み、多くのお土産は現地で調達した布地のスーツケースに入れて、自分は大事なものだけを手に持って、うろついていた。
トイレを済ませて出ていこうとすると、トイレの入り口付近ですれ違いざまに、「Oh、Mr.Hanging Scroll! you did it?」と声を掛けられた。。。。誰だ?と訝しんでいたのだが、やっとのことで思い出した。Mr.Hanging Scroll?確かに私は手荷物に剥き出しで「掛け軸」を持ってうろついていたのだが。。。。
声を掛けてきた彼は上環の摩羅街(Upper Lascar Row)、別名(Cat Street)で私に掛け軸の講師をしてくれた高級骨董品店のあの若い店主だったのだ。あぁ。。。。!!と唸って思い出したと、トイレの外で彼を待った。そうなんだ。買えたんだよ。花ともう一つは鶴(わからないのでbird)!君はどこに行くの?と聞くと、彼はこれから買い付けに台湾に出かけるというのだ。掛け軸の購入成功おめでとう!と祝ってくれて、握手して別れた。
いきなり「掛け軸さん」と声を掛けられてびっくりしたのだが、香港を出る最後の時間に彼に再会出来たことで胸に残る思い出が出来たと嬉しかった。

羽田では大量に購入した掛け軸型のカレンダーのお土産を疑われて全部の荷物、クッキーの中身まで全部開けろとかいう事態にもなったが、何一つ変なものは持ち込んでいないので笑顔で応対した。

蒲田方面に出ていくバスで帰ってみることにする。帰りの飛行機も行きの飛行機も時間が決まっているものにはかなりビクついたが、もう時間に追われるようなものはない。家にさえ着ければいい。。。
香港で過ごした2畳の部屋。あれに比べれば随分と広いお城のような(嘘!1DK)我が家に帰還したのだった。


おしまい、多謝(ドーチェ)、再見(ジョイギン)


追記:
敬老の日の前々日、実家に帰り、ごそごそと戸棚を漁ると私の香港で購入した掛け軸が出てきたので、掛け替えて撮影してみました。
以下の写真がその掛け軸です。


コメント (4)