萌えてばかりもいられない!

そんなに色々なことにやたらと深い造詣などいだけないから適当に綴っていこうかしらん

男一匹一人旅 香港旅行記 2 1998年11月

2011-09-11 06:48:00 | 懐かしい思い出
『台北空港にて』

自分もそうなら皆もそうだろう?と高をくくっていたのだが、乗り継ぎをするという人達が小さな紙に書かれた「HONG KONG」という文字をもつ人の指示で誘導されていくのだが、トランジットの乗客は実はそう多くは無かった。

すると歩いている私に「Are you Japanese?」と声をかけてくる御婦人がいた。
「Yes、はい」と答えると、胸を撫で下ろしながら、「香港に行くのですか?私もです!」と英語で質問をされた。
「はい、私もgo to香港です。」と笑いながら答えると、また英語で「あなたの職業はなんですか?」と聞いてきた。
『うん?これはどういうことだろ?TOEICみたいだぞ』と訝しんでみるものの。。。日本語で「サラリーマンです」と答えると、変な顔をしだした。
『あぁやっぱり、日系人なんだ』と気付いて「enproee、work at planning division」と答え直した。

ロビーに着くと、ハワイに住む日系人だが、息子が転勤だかで香港で勤めているらしく、チケットを贈ってもらって乗り継ぎながら来ているものの、不安で仕方がないらしく、香港に行く人が周りにいないかと探していたのだと捲くし立てられた。

私はガイドブックを出し、「息子さんの住むのは香港島?それとも九龍半島の方ですか?」と聞いてみると九龍の方で勤めはいつも中環Central:香港島の方に行っているらしいと教えてくれた。本の巻頭についている折り畳みの地図が役に立った。

いきなりの英会話が始まってしまい、懸命な状態なのである程度聞き取ることはできるものの、伝えたいことは少ししか言葉にならないことがここでももどかしかった。

そうこうしているうちに、私は無性にタバコが吸いたくなった。
乗り換えたらまた禁煙の飛行機の中。
今なら考えられないが、当時の私はヘビースモーカーに超が付くくらいの量を吸っていたので耐え切れない状態に。隠れて高校生みたいにトイレの中で吸ってみたものの、余り美味しくはなかった。。。。

飛行機を待つ間、気付いたのがここはもう日本じゃないということ。
羽田では日本語と英語と中国語でのアナウンスを聞くことが出来たのだが、もう何も聞えてこないような状態になっていた。

飛行機に乗り込むと今度は窓際が2席、真ん中4席、の一列8人掛けの飛行機になっていた。ひと回り小さい飛行機に乗り込むのは極端に少ない人数。
飛び出すときのエンジンが頼りなく聞えてきて、『頑張れ』とエンジンの方に祈っていた。トランジットした時間はもう夕暮れよりも夜に近い空。機内の電気は一旦消されての離陸だったので、怖さが倍増した。

私の座った場所(左端の窓側)から前方に一人の僧侶が袈裟を着て座っていた。後は後方の随分と離れたところにハワイからのおばさまがいた。僧侶の方は特別食なのか、機内食をいきなりもらって食べ始めていた。

私は何を食べたのかまるで記憶がないが、トランジットだと2食食えて助かるなぁと思っていた。このときは北京語と広東語(だと思う。もしかしたら英語でも言われたかも)での質問だったので、何を言われても、meatと云おうと決めていたと思う。

夜の到着だったので、着陸時に見えた香港の夜景はどこがどこだかよくわからない。意外と電気がまばらだと思ったのは、もう空港そばの地域まで来ていたためであろう。あの離着陸の難しいと云われていた啓徳空港ではなく、操業を開始して間もない今の国際空港(ランタオ島(大嶼山) )の方に到着したのである。

荷物が出てくるところで、ハワイおばさんと一緒に待ったが、おばさんの方が先に出てきて、鼻に人差し指を当て、進行方向にその指を持っていき、そのジェスチャーで『先に行くね』と云われた。なので、軽く手を挙げてバイバイと振った。

出てきた荷物は軽く凍っていたようで、布地のバックからドライアイスのような湯気が出ていた。こんなになるなら預けなきゃよかったよ。。。。と初めて知った。だからみんなあの頑丈そうなスーツケースを持っているのね?と気がついた。

イミグレーション、入国検査のところに、「Foreigner」だったかな?と書かれた方に並び、目的は?的なことを聞かれたら「sightseeing」と答える儀式はすぐに済んだ。

入国審査を終えて一番に向かった先は喫煙所。もう3本くらい立て続けに吸い込んだ。

『バスでホテルに向かう』

尖沙咀(Tsim Sha Tsui、チムサーチョイ)、今日と明日はそこの彌敦道(Nathan Road、ネイザンロード)という大通りに面した帝国酒家というホテルに泊まることになっている。まずはそこを目指そうと、バスを探した。そしたら、もちろんだが、香港ドルが必要になり、慌てて空港内に戻って換金をした。

お釣りが出ないタイプだったと思うが、仕方がないとは思えず、バスの発着所の横に行き、もらった札束をさらにsmallにexchange!と伝えて小銭に替えてもらってピッタシ投入した。

バスの車窓は初めはいつまでも単なる高速でつまらない景色だったのだが、街に近付いていくとあのネオンサインが徐々に増えだし、『とうとう香港に来たのだ』という実感が沸いて来た。カラオケと思しき文字が見えたりもした。裃拉OKという文字のサインだったような気がする。

バス停の案内を注意深く聞き取り、尖沙咀の文字を確認して降りるボタンを押して降り立つと凄い人いきれに圧倒されながら、ホテルを探した。思ったよりも細長く、隙間に押し込められたような造りになっていた。入って名前を告げるとクレジットカードを出してデポジットを払えと云って来た。後の精算時になんとかなるだろうと思い、当時は余り信用出来なかったカード払いに応じた。

部屋に入るとビックリしたのが、窓がなかった。細長い造りの建物にある窓は貴重な部屋にしかないのだろう。
ガイドブックと財布とパスポートをリュックに詰めて、街に出ることにした。
機内食を2度食べて別段お腹は空いてはいないものの、何かを食べることと地図に書かれた街の広さを体感するために、彌敦道を徘徊してみようと思った。

『廟街を目指して』

エレベーターで「1」を押すとロビーでなく、Subway風のサンドウィッチレストランに出た。?あれ?ドアを閉め、今度は「G」を押してみる。そしたらロビーに着いた。
香港では「1」は日本の2階を指し、日本の1階は香港では「G」Ground Hallの意味であるこの記号の階にあたる。これを初めのうちはしょっちゅう間違えてばかりいた。
この表記はイギリス式のものだとのこと。

狭いロビーでルームキーを預けようと、ホテルマンが来るのを待っているとき、背後に香港内のツアーのパンフを立てかけている後ろに別のホテルマン(じゃないのかもしれない)が座ってニコニコとこっちを見ていた。2階建てのバスで巡る香港のツアーらしきものを紹介しているようだった。今思えば、効率よく「はとバス」みたいなもので主要箇所を巡ってしまうこともありだと思うが、当時は全ての乗り物は自分で乗り切り、滞在時間も自分で律するのだという想いが強く、それを利用することはなかった。『利用するつもりはないよ』と片手を顔の前に持ってきて頭を垂れてジェスチャーで伝えた。向こうも『いいよ』という感じでしきりに頷いていた。


彌敦道は、港方面の尖沙咀(Tsim Sha Tsui、チムサーチョイ)から佐敦(Jordan、ジョーダン)、油麻地 (Yau Ma Tei、ヤオ・マ・テイ)、旺角(Mong Kok、モンコック)、太子(Prince Edward)と続いており、真下にはそこまで導いてくれる地下鉄が走っているのだが、旺角(Mong Kok、モンコック)くらいまでは旅の最中、何度も何度も歩いて往来した。

着いたばかりの足で、油麻地の西側の「廟街」別名男人街(ナンニンガイ)、テンプル・ストリート呼ばれる毎晩開かれる屋台通りに行ってみようと試みる。後は重慶大厦(チョンキンマンション、じゅうけいたいか)という有名なバックパッカーの安宿(泊まる心算はないけど。。。)が集まっているという場所がどの程度のものかを見ておく心算だった。後は換金レートがどの程度違うのかという辺り。

重慶大厦はすぐに出てきた。帝国酒家の並びにあったのだが、通りの東側を歩いているとビルの名前が見れない。初めに出くわした両替屋さんのレートの看板でJPN→HKDを確認したのが重慶大厦の両替屋さんだったのだ。次から次へと見て周った両替屋、重慶大厦のレートを越えるところはついに現れなかった。

九龍公園が通りに西側の一段高い場所に木々が生い茂っていることから分かった。公園は少し階段を登ったところに広がっているようだ。
公園の一段低い通りに面した場所にはブティックが綺麗に並んでいた。公園の緑の下に並ぶ綺麗な店舗。確かに高級そうに見える佇まいだった。
通りの東側を佐敦(ジョーダン)の辺りまで来たときにマクドナルドが見えてきた!!
いきなりかい!というより香港の食事一発目をあろうことかマクドナルドに絞った。

『I need this oneを覚えたよ』

言葉の通じなさ、注文方法を体得し、『飢えないように』生きていくためにまずはファーストフードに行ってみることにしたのだ。

ちょうど列の前は外人が注文している。ドキドキしながら聞き耳を立てていたら、
「I need this one」(これ一つ下さい)と指差しでメニューを突いているのを確認した。
『おぉ、これでいいんか?』と納得した。自分の番が周ってくる。完全に舞い上がっている顔の私をみて店員の男の子は流暢な英語で話しかけてきた。多分『何にしますか?』と
聞いているのだと思い、「I need this one」と同じジェスチャーで指差しをした。
seeと応じたのを見届けてホッとしていると、また何か云っている・・・・!『さっきの外人にも何か云っていたのか?そうか納得している間に何かやり取りがあったんだな!』
とpardonと言い直しをお願いすると、「stay here or take out?」(店内ですか?お持ち帰りですか?)と聞いていただけだった。。。あんたら発音が良すぎるわい!

ポテトには必ずケチャップが付いてきて、それを塗りたくって頬張り、アイスコーヒーをすすりながらガイドブックを開けて廟街の位置を大きい地図と詳細な地図とで見比べていた。隣駅(佐敦)までがここまで近いとなるとその隣の油麻地もさらに近いぞと体感する。店を出て、通りを西側に渡り、沢山のお店の軒先を眺めていく。日本のどこかに似ているかと聞かれれば、、、、いやないですね。。。アーケードも有ったりするのでなんとなくどこかの街に似ている気もするけど、敢えて挙げるなら、大阪梅田や道頓堀?いやそれよりも密集の度合いが違うような気がする。

『廟街に圧倒される』

油麻地の辺りに近付き、チラチラと横を見るともうそこには通りにテントを出した歩行者天国のような街が広がっていた。これから毎晩通うことになる屋台テントの行列が延々と続く通りに立ち向かった。曲がった場所はまだそれほどの熱気を持っていない、何の気なしに夜まで開けていたと思われる店の中は子供とお年寄りがいて、ジュースを売っている程度だった。ぼんやりと灯る蛍光灯の明かりは少しまだ寂しいくらいだったが、その先には眩い電球(イカ釣り漁船みたい!)のテント街が広がっていた。

通りを曲がって、その先が見渡せないテントの山が道路の真ん中に左右2軒ずつ並び、
その端側にも店があって、その端のテントの向こうにも通りに面したお店があるという多重構造で通りを一遍一番奥に行って反対側のテントを見ようと折り返してきても見尽くすことができないのではないか?と思いたくなるくらいの店が並んでいたのだ。

食事を摂ることもできそうだが、ルールがまるで分からない。
途中に廟が出てきたのだが、文武なのか関羽のものだったかどうかなどまるで覚えていない。途中でキャラクターとともに小丸子という文字で書かれたちびまるこちゃんやドラえもんという文字を漢字で書いたTシャツを売っているお店があり、そこが一つの目印にはなったのだが、人の波と店の波に圧倒されていく。食材もアクセサリーも様々なものが売り買いされているのだが、欲しいものが分からない。まだ買い物が怖い状態だった。
多分イギリスの植民地だった場所なのである程度の人は英語を話すのだろうとは思っていたのだが、まだ様子が良く分からない。

今これを書いていて思い出すのは、香港の匂いだ。
街には匂いがあり、それは強烈に思い出す。
匂いを嗅げば、あぁと思い出す。

今の職場にも初めて来たときに思った匂いがあり、前の職場にもあったと思う。
鼻がそれほどいいわけではないが、匂いの記憶は多分一番覚えている記憶なのだろうと思うのだ。

『ホテルに帰る』

尖沙咀に戻り、ホテルの周辺を何遍か回り、コンビニで飲み物を買い込んでホテルに戻った。コンビニでは細かい硬貨までの値段設定とそれに忠実にお釣りを返す商習慣がある。他ではこんな細かい硬貨は使えそうにない。言葉を交わさずに買い物ができるのかという安堵もあったが、そればかりではつまらないとも思えた。

「エロ本」という変な看板も見付けた。日本語を見つけると少し安心するものだ。

翌日に再会するための姉妹との約束の電話をし、夜まで過ごすための計画をガイドブックを見ながら考える。
今もそうなのか分からないが、リコンファームという帰りの飛行機に搭乗することを確認する電話と翌々日には移らなければならない宿を探すことが、翌日のミッションでもあったのだ。



~つづく~
※これは1998年のことを書いた記事です。勘違いされませんように!
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