萌えてばかりもいられない!

そんなに色々なことにやたらと深い造詣などいだけないから適当に綴っていこうかしらん

男一匹一人旅の記録 1998年 11月 香港 ガイドブックは「地球の歩き方」

2011-09-06 04:44:25 | 懐かしい思い出
随分と前の記憶で、どこまで思い出せるか分からないですけど、書いてみようと思っています。

実は中村さんのブログにコメントを入れさせていただいたところ、「私のミシュラン・ガイドの使い方」なる記事でお答えを頂きまして、、、
※テレビのコメントの件は決して中村さんの意見に対してあるのではなく、最近のテレビの過剰演出を牽制する意味のコメントでして・・・・なんて言い訳ばかりではよくないので、、、、

私も自分の海外初挑戦の記憶と共に、自分の旅のことを書いておこうと思い立ってこれを書いています。実は当時は「地球の歩き方」をバイブルのようにして使っていました。他のトラベル指南書も存在したのですが、見易いページ配置と写真、巻末に経済・言語や通貨レート、行事カレンダーなども付いていたと記憶しています。(すいません、今手元には地球の歩き方は1冊も残っていません。)


私はといえば、30歳になるまで飛行機に乗ったこともなければ、海外にも行ったことがないという体たらくでして。。。
バブル期の大学卒業の癖に、当時は乗り物に乗ると「腹が痛い」とか言い出すパニック症候群チックな男子で、海外には一切出ず、結局各駅停車の東海道で静岡に駿府城の城跡を見に行ったのが、卒業旅行でございました。

そんなこんなで社会人になり、30歳という節目に旅行先を海外にしてみようと思い立って、色々な準備と挑戦項目を決めて、香港に旅行に行ったことがありました。

思い起こせばもう13年前にもなる。。。。のでございます。。。



『準備期間中のこと。』

どこに行こうかというのは日本からどれくらい離れてみるか?ということに近い。
なるべく近距離で楽しそうなところと思い、その前の年に中国に返還されて話題になった香港が今どうなっているのかを観に行ってみようと思った次第だ。
返還前の香港には随分と旅行客が流れ込んだと聞いたので、今は逆にホットでもなんでもない状況だ。それはそれで誰も注視していないということになる。

「たまたま香港に住む友人が日本に来ている」という会社の同期がいたので、その同期に彼女達を紹介してもらうことが出来た。
彼女らは姉妹で、流暢に英語を話し、自分の友達もペラペラと英語を話すのでかなり気後れしたのを覚えている。
どういう場所に行ったらいいか?とか、この時期(11月)どんな服装で行ったらいいか?とかをみんなに聞いてもらった。

「なんで香港なんだ」と聞かれたので、なんとなく深夜特急という小説でデリー(ニューデリー?)に行く前に、一番初めに沢木耕太郎が訪れたとても記憶に残る場所、(香港と澳門(マカオ)の両方)だということを伝えた。

そういえば、香港から日本の観光ガイドブックを彼女達は持ってきていた。おそらくミシュランのGreen Bookと思われる。船で九州に上陸したという彼女達は、そのまま九州観光をし、京都などを巡って東京に来ているとのことだった。見せてもらったガイドブックには大分や滋賀の名所が出ていたのだが、日本人の私達全員が、その名所のことを知らなかった。
彼女らは、この本にここがいいと出ていたから行ったのだと云っていたが、本人達が満足すればいいだけのことであって、それがガイドブックによって齎されたものだったとしても、満足できたかどうか、その尺度のみが重要なのであるような気がする。
ガイドブックに載っていた場所に行ったのだということもその満足を支える重要なポイントだったのだろうと、今では思う。
ただ、その時は日本人さえもが認知していない「観光名所だと書かれた場所に行ってしまった彼女達」を少し哀れんでいたような気がする。今でも海外に観光客の誘致を懸命に営業している観光地があることは想像できる。当地で有名な観光地と外国では有名な観光地が同国内で違うことも十二分に有り得る話ではあるのだ。


英語も広東語も話せない自分ではあったのだが、向こうでの再会を期して、自分が幼少(小学校高学年)の時に観に行った「Mr.BOO インベーダー作戦」のテーマソングを披露した。私は香港の曲が唄えると豪語して店の中で軽く歌い始めた。
サントラを持っていて、歌詞をカタカナでほとんど記憶するまで唄いこんだことがあるので、うろ覚えながらもその場でみんなの前で歌ってみせたのだ。
そしたら、彼女らが「歌詞の意味分かってるの?」と聞いてきた。もちろん「何にも分からない」と答えたら、腹を抱えて笑いまくっている。

賣身契 / Mr.Boo!インベーダー作戦 THE CONTRACT 賣身契


まぁいざとなればこれを唄って人に助けでも求めるかと決めていた。歌詞の意味は分からないが、人は変な曲を歌う人間がいると注視してくれることにはなるだろうとの期待だけはあった。

また、現地に勤めている会社の販売会社があったのと、大学時代のサークルの友達が私とは別の会社で香港に赴任しているので、そこいらの香港に纏わる電話番号やら住所やらを「地球の歩き方」の各所に書き込んで準備しておいた。

実家に電話をして香港に行くことを伝えると、「ちょうど新しい家を建てるので、床の間に飾る花の描かれた掛け軸を一本探して来て」とのミッションをもらった。



『出発の時のこと。』

行きと帰りの航空チケットと2泊分のホテルを押さえての出発だ。(7泊8日だった)
海外そのものが初めてで一人ということで、遅れないように慎重にというか、とてつもない前倒しが行われた。中華航空の羽田発→台北でトランジット→香港という珍しいチケットで行くことになった。余り日本-香港の距離でトランジットってのはいなそうだと思った。余った滓(カス)のようなチケットを繋ぎ合わせて販売していたのだろう。

今は知らないが、当時の中華航空の発着する場所は羽田の中でも少し離れていて、中華料理を出す売店の他はあまり見るものもなく、ノートにペンを走らせて一人で興奮していたと思う。当時「写るんです、ハイ」という商品が売れていて、それを大量に持たしてくれた友達がいた。もちろん簡易的なフィルムカメラは持っていたのだが、フィルムも誰かがくれたのを覚えている。

チェックインの時、実は運動部の人が持つようなものよりもさらに薄手のバックを一つと、小さなリュックを持っていたのだが、そのバックの方を預けてみた。スーツケースというものをそれまで持っていなかった。その程度の荷物ならば全て機内に持ち込むべきで、当時そんな程度の荷物しか持つことがないのか?と今では訝しくもあるが、着替えと本とお財布とカメラレベルで後は現地調達ということで旅立った気がする。

また、預けた荷物がなくなるとか、他の国に行っちゃうとかいうトラブルを聞いていたが着替えくらいしか入れていないバック。いざとなれば現地で服くらい買えるだろうと腹を括った。


『飛行機のこと。羽田-台北』

台北でのトランジットということもそうだった(行きも帰りも)のだが、飛行機にはハワイ方面からの乗客が乗り込んだまま、もしくはトランジット待機の人が大半だったと思う。羽田のロビーでは見なかった人達で機内は溢れかえっていた。
私は窓側の席を頼んだ。電車と同じように車窓を楽しむものだと思ったからだ。
3人掛けの椅子の奥に私、その隣にはビッグな体型のカップルが座った。

飛び立つ時、窓からこちらに向かって手を振る整備士の人たちが見えて、懸命にこっちも振ってみた。何故だか下手したら戻ってこれないとか事故に遭うとかいうのを堪えていたのかも知れない。彼らに手を振りながら涙が零れた。

羽田から南西に向かうはずの飛行機は、風の関係か何かでどうも真東を向いて飛び出した。今でも飛行機がエンジンの唸りを上げて滑走路の端に構えてガタガタガタと動き出すのを物凄い心拍数を伴う緊張感で迎える。毎日とか毎週とか、少なくとも毎月とか乗っているのであれば、そのうち寝て迎えることもできるのかもしれないが、いまだにこれには慣れというものが来ない。
上空に上がったかと思うと自分の座った窓の方に大きく傾いて旋回を始めた。真下に海と船が見えた。正直やばいのかとさえ思ったものだ。周囲がどの程度の動揺をもって事態を把握しているのかが、初体験の自分にはバロメータだった気がするが、周りは動揺しているような印象はまるでなく、少し拍子抜けしたかと思う。


安定飛行に移ると、雲が下に見え、気分がよくなった。
下に富士山が見えたとき、隣の外人に「あれがMt.Fujiだよ。綺麗でしょ?」と何度云おうかと迷っていたのだが、そのうち、「シールドを落として暗くしろ!」というのをジェスチャーで訴えられ、『飛行機では窓側なんかに座るもんじゃないんだな。』と理解し始めた。

機内食では、『海老にしますか?豚肉にしますか?』と英語で聞いて周っていた。シュリンプでお願いしますと頼んだ。

熱々のパッキングされた機内食と記憶している。あとミックスナッツのようなものが入っている袋を手渡された。お酒には当時それほどの価値観を見出せていない時分だったので、いらないというジェスチャーで断った。今だったら車の運転しないなら是非とも呑んでおこうとなってしまうはずである。

食事が終わると映画の時間なのだが、他のチャンネルの音に合わせて音楽を聴いていた。
隣の二人はトランプでソリティアを始めだした。

パソコンでは何度もやったことのあるそのゲームを実際のカードを使ってやっているのを初めて見た。(というか、自分の人生の中でいまだにその人たちだけしか見たことない。)ただ、トランプの一人遊びって色々有ったけど思い出せないなぁ。。。

前方に据えられた大型のモニター画面には飛び立った空港(日本・東京)の現地時間と到着する空港(香港)の現時間、いわゆる時差が表示され、高度がフィートとメートルで表記された。たまに窓を開けて雲海や下の地表やら海面を見たのだが、大半は雲海に覆われていて下の海面もしくは陸地と思しき(おぼしき)ものを見れたのはわずかだった。

もうすぐ台北に着くというアナウンスと共に、ベルトを再度締めて着陸を待った。一斉にどの窓もシールドが上げられ、みんなが窓から景色を見始めた。
この時には下にある街や車がよく見えた。

自分自身が上空から降下してくる大きな物体の中にいて、眼窩の人達から見上げられるあの飛行機に乗っているのだと思いもするが、下の世界では飛行機を無視して営みを続けているように感じられた。当然のことだと思う。誰しもが通り行く電車に手を振る子供のようにあるわけもなく、また墜落までもを考えていたり、空港の周りをビクビクしながら生活しているわけがなかった。1日に数機しか到着しないわけではないのだ。相手は国際空港なのである。


いわゆる自意識過剰というものにも近い感覚だったのだろう。
一人旅は、いつまでも脳内の自分との会話、いわゆる壮大な独り言の中にあるのだとの感覚が芽生えていった。


~つづく~
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