二上山を下山してから時間があったので、歴史上有名な場所に行こうということで大阪府になる隣町の太子町に向かった。太子町内には数多くの天皇・皇族クラスの古墳があり、『近つ飛鳥』、『王陵の谷』とも呼ばれ、その中心となるのが、梅鉢御陵と呼ばれる、敏達・用明・推古・孝徳の各天皇陵と聖徳太子御廟である。また、近くを通る「竹内街道」は、飛鳥時代に推古天皇によって作られた難波と飛鳥京を結ぶ日本最古の官道と言われており、今もなお昔の面影を残しているという。そんな訳で、歴史ロマンを感じる聖徳太子御廟のある叡福寺に行ってみることにした。
叡福寺は聖徳太子墓を守護するために、推古天皇によって建立された。奈良時代には聖武天皇が大伽藍を整備したと伝えられ、聖徳太子信仰の霊場として発展した。織田信長の兵火によって、一時は全山が焼失したが、豊臣秀頼の聖霊殿再建に始まり、順次伽藍が再興されている。
(叡福寺の「多宝塔」は重要文化財に指定されている。)
聖徳太子御廟は、聖徳太子自らが廟と決め、推古28年(620年)に墓所を造営。翌年、太子の母 、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后が死去したのでこの墓に葬り、更に推古30年(622年)には太子と妃の膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)とが同時期に亡くなり、この同じ墓に葬られ、三骨一廟とよばれており、横から見ると3段の廟になっているのがわかる。
(聖徳太子御廟)
この日は、丁度「太子まいり」と呼ばれる聖徳太子を偲んで行われる大乗会式に当っていたので、境内には露天も数多く並び、多くの参拝客で賑わっていた。そして、いいタイミングで高野山の僧侶たちによる柴灯護摩供養という行事を見ることができた。めったに見ることができない行事をたまたま居合わせてみることができてラッキーであった。以下の写真は柴灯護摩供養の様子である。
(聖徳太子御廟に山伏姿の僧侶が向かう)
(刀を振る)
(弓矢を射る)
(火をつける)
(法要を行う)
(風下の煙が凄い)
叡福寺は聖徳太子墓を守護するために、推古天皇によって建立された。奈良時代には聖武天皇が大伽藍を整備したと伝えられ、聖徳太子信仰の霊場として発展した。織田信長の兵火によって、一時は全山が焼失したが、豊臣秀頼の聖霊殿再建に始まり、順次伽藍が再興されている。
(叡福寺の「多宝塔」は重要文化財に指定されている。)
聖徳太子御廟は、聖徳太子自らが廟と決め、推古28年(620年)に墓所を造営。翌年、太子の母 、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后が死去したのでこの墓に葬り、更に推古30年(622年)には太子と妃の膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)とが同時期に亡くなり、この同じ墓に葬られ、三骨一廟とよばれており、横から見ると3段の廟になっているのがわかる。
(聖徳太子御廟)
この日は、丁度「太子まいり」と呼ばれる聖徳太子を偲んで行われる大乗会式に当っていたので、境内には露天も数多く並び、多くの参拝客で賑わっていた。そして、いいタイミングで高野山の僧侶たちによる柴灯護摩供養という行事を見ることができた。めったに見ることができない行事をたまたま居合わせてみることができてラッキーであった。以下の写真は柴灯護摩供養の様子である。
(聖徳太子御廟に山伏姿の僧侶が向かう)
(刀を振る)
(弓矢を射る)
(火をつける)
(法要を行う)
(風下の煙が凄い)