朝8時過ぎ、雲仙温泉から山を下り、島原市内へと向かう。最初に寄ったのが道の駅「みずなし本陣」だ。ここは、雲仙普賢岳噴火による土石流災害の爪跡を保存した『土石流被災家屋保存公園』に隣接した道の駅である。入り口にある航空写真を見ると、土石流が流れた様子がよくわかる。
写真を見てから土石流被災家屋保存公園の中に入っていく。
この公園は土石流災害で被害に遭った家屋を後世に伝える為、保存・公開している施設で、当時、被害に遭った被災家屋11棟を当時の状況のまま保存(1棟は移築)しているそうだ。
この公園周辺は約2.8~3mほど土砂物で埋没したが、土砂物の流れてくるスピードが緩やかだった為、倒壊はせずそのまま土砂物に埋もれてしまっている。それにしても驚くべき土砂の量だ。
建物の中にも被災家屋が保存されており、自然がひとたび牙をむくと人間の力ではどうしようもないことがよくわかる。これらの家屋の住民は、事前に避難勧告が出ていたので、幸い全員無事だったという。
次に寄ったのは、島原城だ。ちょうど雨が酷くなってきたので、急いで城内の見学をすることにした。
島原城は江戸時代に松倉重政によって築かれた城である。天草四郎を総大将とするいわゆる「島原の乱」では一揆軍の攻撃を受けたが、現在は城跡公園として整備されている。1964年(昭和39年)に復元された天守は見事な層塔型天守で、最上階の廻縁からは有明海や雲仙岳を眺めることができる。
島原を出ると、そのまま福岡空港へ向かう予定だったが、時間に余裕があった事と、同行したKさん達のたっての希望で、福岡の太宰府天満宮まで足を延ばすことになった。車を近くの駐車場に止め、参道を歩いていく。
太宰府天満宮の入り口だ。
天満宮の入り口には、「使いの牛」がたたずんでいる。「使いの牛」とは、「神使(=神様の使者)の牛」という意味で、ご祭神菅原道真公のお使いと言われている。古くから、傷や病気の箇所をさすると回復するとの言い伝えがあるということで、牛の体をさする人が絶えない。
境内の梅がちょうど見ごろになっている。
これから本殿にお詣りだ。
天神さま(菅原道真公)をお祀りする全国約12,000社の総本宮だけに、大勢の人で賑わっている。
見事なしだれ梅。
太宰府天満宮の本殿の前には、紅梅と白梅が植えられている。このうち、向かって右側にある白梅が、「飛梅(とびうめ)」と名付けられた梅で、樹齢は1000年を超えるとされている。
菅原道真が左大臣藤原時平の讒言(ざんげん)によって大宰府に左遷されるとき、邸内の梅の木に「こち吹かば匂(にお)い起こせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」と詠んだので、その梅の木が天満宮に飛んだという伝説がある。
ついでに大宰府政庁跡まで足を延ばす。
ここは、平城京、平安京に次ぐ、外国との交渉の窓口となる役所(大宰府)の跡である。7世紀後半、大和朝廷は那の津の官家(みやけ)をここに移し、奈良・平安時代を通して、九州を治め、我が国の西の守り(防衛)、外国との交渉の窓口となる役所(大宰府)とした。その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなものであり、南北22条、東西24坊の都市計画があったという学説がある。万葉集には"遠の朝廷(みかど)"と詠まれ、その規模をしのばせる立派な礎石が残り、そこを中心に門や回廊、周辺の役所跡等が整備されて、現在は公園となっている。
その後は、そのまま福岡空港まで直行し、4日間の旅が無事終わった。4日間盛りだくさんのスケジュールだったが、無事こなすことができ大満足の旅だった。
写真を見てから土石流被災家屋保存公園の中に入っていく。
この公園は土石流災害で被害に遭った家屋を後世に伝える為、保存・公開している施設で、当時、被害に遭った被災家屋11棟を当時の状況のまま保存(1棟は移築)しているそうだ。
この公園周辺は約2.8~3mほど土砂物で埋没したが、土砂物の流れてくるスピードが緩やかだった為、倒壊はせずそのまま土砂物に埋もれてしまっている。それにしても驚くべき土砂の量だ。
建物の中にも被災家屋が保存されており、自然がひとたび牙をむくと人間の力ではどうしようもないことがよくわかる。これらの家屋の住民は、事前に避難勧告が出ていたので、幸い全員無事だったという。
次に寄ったのは、島原城だ。ちょうど雨が酷くなってきたので、急いで城内の見学をすることにした。
島原城は江戸時代に松倉重政によって築かれた城である。天草四郎を総大将とするいわゆる「島原の乱」では一揆軍の攻撃を受けたが、現在は城跡公園として整備されている。1964年(昭和39年)に復元された天守は見事な層塔型天守で、最上階の廻縁からは有明海や雲仙岳を眺めることができる。
島原を出ると、そのまま福岡空港へ向かう予定だったが、時間に余裕があった事と、同行したKさん達のたっての希望で、福岡の太宰府天満宮まで足を延ばすことになった。車を近くの駐車場に止め、参道を歩いていく。
太宰府天満宮の入り口だ。
天満宮の入り口には、「使いの牛」がたたずんでいる。「使いの牛」とは、「神使(=神様の使者)の牛」という意味で、ご祭神菅原道真公のお使いと言われている。古くから、傷や病気の箇所をさすると回復するとの言い伝えがあるということで、牛の体をさする人が絶えない。
境内の梅がちょうど見ごろになっている。
これから本殿にお詣りだ。
天神さま(菅原道真公)をお祀りする全国約12,000社の総本宮だけに、大勢の人で賑わっている。
見事なしだれ梅。
太宰府天満宮の本殿の前には、紅梅と白梅が植えられている。このうち、向かって右側にある白梅が、「飛梅(とびうめ)」と名付けられた梅で、樹齢は1000年を超えるとされている。
菅原道真が左大臣藤原時平の讒言(ざんげん)によって大宰府に左遷されるとき、邸内の梅の木に「こち吹かば匂(にお)い起こせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」と詠んだので、その梅の木が天満宮に飛んだという伝説がある。
ついでに大宰府政庁跡まで足を延ばす。
ここは、平城京、平安京に次ぐ、外国との交渉の窓口となる役所(大宰府)の跡である。7世紀後半、大和朝廷は那の津の官家(みやけ)をここに移し、奈良・平安時代を通して、九州を治め、我が国の西の守り(防衛)、外国との交渉の窓口となる役所(大宰府)とした。その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなものであり、南北22条、東西24坊の都市計画があったという学説がある。万葉集には"遠の朝廷(みかど)"と詠まれ、その規模をしのばせる立派な礎石が残り、そこを中心に門や回廊、周辺の役所跡等が整備されて、現在は公園となっている。
その後は、そのまま福岡空港まで直行し、4日間の旅が無事終わった。4日間盛りだくさんのスケジュールだったが、無事こなすことができ大満足の旅だった。