3か月ぶりに熊野古道ジャーニーマラニックを再開した。暑い夏場の時期を避け、秋からの再スタートだ。今回は、大阪の最南端阪南市山中渓から和歌山県御坊迄の約75キロを3日間で走破する。
9:50。山中渓駅で下車して紀州街道入り口に向かう。
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400mほど進むと、紀州街道の入り口だ。
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大阪市内から南下し、本市山中渓、雄ノ山峠を越え、和歌山へ抜ける道は、近世期以降に紀州藩の参勤交代のため整備され、「紀州街道」と呼ばれた歴史ある道だ。
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山中渓・田中家住宅(旧庄屋屋敷)。築後150年以上といわれる江戸時代の建物で、広大な敷地には勇壮な構えの屋敷や土蔵、広い庭園等があり、泉州路屈指の屋敷だという。
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山中渓駅前に再び戻る。工事中で味気ない。
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山中関所跡。南北朝時代の古文書によると山中の地に関所があったらしい。当時の関所は、通行する人馬や荷物から通行税を徴収していた。山中の地は熊野街道の要所で、関所を設けるのにふさわしい場所であったようだ。
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境橋まで来ると“日本最後の仇討ち場”という石碑がある。仇討ちとは、親兄弟などを殺した者を討ち取って恨みを晴らすことで、江戸時代、武士階級で慣習として認められていたが、国の近代化に伴い廃止されたわけだが、日本で最後にオフィシャルな「仇討ち」が為された場所が、ここである。
幕末の安政4年(1857)、土佐藩士・廣井大六は棚橋三郎との口論の末切られ、川に投げ込まれて命を落とした。三郎は藩を追放され、大六の一人息子・岩之助は、父の仇を討つため三郎を探す旅に出た。当時は既に仇討ち禁止令が出されていたが、岩之助の並々ならぬ決意におされ、翌年の安政5年(1858)、勝海舟の取り計らいによって「仇討ち免許状」が交付されたという。その後、三郎が加太に潜んでいることを知った岩之助は、紀州藩に仇討ちを願い出た。それをうけた奉行所が「三郎を国払いとし境橋より追放するので和泉側にて討つべし」としたため、和歌山と和泉(大阪府)の国境である紀州街道の境橋の北側で、岩之助は見事父の仇を討ったのだそうだ。時は文久3年(1863)、時代が江戸から明治へと移る5年前の出来事だった。こうして境橋は、日本で許された最後の仇討ちの場所となった。
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以後は、熊野古道だけあって王子社巡りの旅となる。最初は中山王子。
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雄ノ山峠の不動明王の祠。
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雄ノ山峠を越え集落が近くなったところにある山中王子跡。「紀の関守」を詠う万葉歌の歌碑がある。
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山口神社。熊野古道の側にあり、山口王子や白鳥神社等を合祀している。
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山口神社の鳥居。
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鳥居からすぐ先にコンビニがあり、駐車場の片隅でランチ休憩する。
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川辺王子旧跡。藤原定家の日記に出てくる王子で、祭神は力侍神社に遷座している。現在王子跡には小さな祠が祀られている。
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力侍(りきし)神社。熊野古道九十九王子社の一つ・川辺王子跡として史跡に指定されている。
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吐前(はんざき)王子跡。
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川端(かわばた)王子は布施屋駅の南西にある。近世には一帯の氏神であったが,明治末年に近隣の高積神社に合祀された。江戸時代の銘がある石灯籠2基がある。
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旧中筋家住宅。敷地の東側が熊野古道に面しており、江戸時代後期の和佐組大庄屋にふさわしい屋敷構えを残している。嘉永5年(1852)建築の主屋(おもや)は、三階の望山楼、二十畳敷きの大広間や広い接客空間などが特徴で、紀ノ川流域随一の大規模民家である。
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屋敷正面の表門は、東西が約30メートルある長屋門形式の門で、江戸時代後期の建築だ。中央の門構えは総ケヤキ造りで、表門東側の座敷3室は、大庄屋の役所として使っていた。特に上の間には、天井に柾目板を張るなど格式が高く、中筋家当主が執務した部屋と思われる。
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和佐王子を過ぎると、この日初めての山道となった。
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矢田峠には、倒木もありやや荒れている雰囲気だ。
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伊太祁曽(いたやそ)神社の入り口。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/bd/43896f35bfbef0fbe35e0c0b147c9be6.jpg)
伊太祁曽神社は我が国に樹木を植えて廻ったと『日本書紀』に記される「五十猛命(いたけるのみこと)」を祀る神社である。植樹神五十猛命は一般には「木の神様」として慕われている。そのため、全国の木材関係者のお詣りが多い神社だという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/ec/b2d7dfb8ae1e2c64628f2635c6e343c3.jpg)
四つ石地蔵。小さなお堂の回りにだいたい1.5メートル程の平たい4つの大きな石が置かれている。案内板によると、かつてここにあった三上院千光寺の礎石を集めたとある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/8a/b43c2eceb2802e901d01ca6f0bec7d88.jpg)
松坂王子を過ぎ、くも池の堤防の石畳を進むと汐見峠にさしかかる。古の都人が旅の途中で、憧れの海を見たのがここだったということで、汐見峠と名付けられたそうだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/f0/45f758ef047f912250d9995ac0084336.jpg)
峠には安政の大地震の時、人々を峠へ呼び上げて救ったといわれる「呼び上げ地蔵」が祀られている。大地震で、このあたりにも津波が押し寄せ、冬の夕闇が迫る中、村人たちが目指したのは汐見峠に差す不思議な光だった。「こっちへ来い」。峠から響く声を頼りに、多くの村人が坂道を駆け上がると、そこには地蔵の姿があった──。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/e0/df1afe0993a2f9f85cf47e2ca2d58ba4.jpg)
日方川にかかる春日橋の手前に松代王子の説明板があり、左手の春日神社への参道を上ると青石に刻まれた「松代王子碑」がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/cc/91c7e4fdd81b4cf000f81bb32e57041d.jpg)
菩提房王子を過ぎ、JRの線路を通り抜け、海南駅の西側に出る。1日目のゴールは、和歌浦の海に浮かぶリゾートアイランド「 和歌山マリーナシティ」にも近いホテルだ。この日の走行距離は32.2キロ。到着時間も17時を過ぎていて、いささか疲れた1日となった。
参考1.1日目の高低図&タイム
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/1a/bde20fb84086b347d791108bd8e2b654.jpg)
参考2.1日目のコースマップ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/22/d49b105281a4977ce78731b75b3f71e5.jpg)
「2021第9回熊野古道ジャーニーマラニック:紀伊路編その1-2日目(海南~湯浅)」に続く。
9:50。山中渓駅で下車して紀州街道入り口に向かう。
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400mほど進むと、紀州街道の入り口だ。
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大阪市内から南下し、本市山中渓、雄ノ山峠を越え、和歌山へ抜ける道は、近世期以降に紀州藩の参勤交代のため整備され、「紀州街道」と呼ばれた歴史ある道だ。
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山中渓・田中家住宅(旧庄屋屋敷)。築後150年以上といわれる江戸時代の建物で、広大な敷地には勇壮な構えの屋敷や土蔵、広い庭園等があり、泉州路屈指の屋敷だという。
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山中渓駅前に再び戻る。工事中で味気ない。
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山中関所跡。南北朝時代の古文書によると山中の地に関所があったらしい。当時の関所は、通行する人馬や荷物から通行税を徴収していた。山中の地は熊野街道の要所で、関所を設けるのにふさわしい場所であったようだ。
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境橋まで来ると“日本最後の仇討ち場”という石碑がある。仇討ちとは、親兄弟などを殺した者を討ち取って恨みを晴らすことで、江戸時代、武士階級で慣習として認められていたが、国の近代化に伴い廃止されたわけだが、日本で最後にオフィシャルな「仇討ち」が為された場所が、ここである。
幕末の安政4年(1857)、土佐藩士・廣井大六は棚橋三郎との口論の末切られ、川に投げ込まれて命を落とした。三郎は藩を追放され、大六の一人息子・岩之助は、父の仇を討つため三郎を探す旅に出た。当時は既に仇討ち禁止令が出されていたが、岩之助の並々ならぬ決意におされ、翌年の安政5年(1858)、勝海舟の取り計らいによって「仇討ち免許状」が交付されたという。その後、三郎が加太に潜んでいることを知った岩之助は、紀州藩に仇討ちを願い出た。それをうけた奉行所が「三郎を国払いとし境橋より追放するので和泉側にて討つべし」としたため、和歌山と和泉(大阪府)の国境である紀州街道の境橋の北側で、岩之助は見事父の仇を討ったのだそうだ。時は文久3年(1863)、時代が江戸から明治へと移る5年前の出来事だった。こうして境橋は、日本で許された最後の仇討ちの場所となった。
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以後は、熊野古道だけあって王子社巡りの旅となる。最初は中山王子。
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雄ノ山峠の不動明王の祠。
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雄ノ山峠を越え集落が近くなったところにある山中王子跡。「紀の関守」を詠う万葉歌の歌碑がある。
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山口神社。熊野古道の側にあり、山口王子や白鳥神社等を合祀している。
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山口神社の鳥居。
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鳥居からすぐ先にコンビニがあり、駐車場の片隅でランチ休憩する。
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川辺王子旧跡。藤原定家の日記に出てくる王子で、祭神は力侍神社に遷座している。現在王子跡には小さな祠が祀られている。
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力侍(りきし)神社。熊野古道九十九王子社の一つ・川辺王子跡として史跡に指定されている。
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吐前(はんざき)王子跡。
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川端(かわばた)王子は布施屋駅の南西にある。近世には一帯の氏神であったが,明治末年に近隣の高積神社に合祀された。江戸時代の銘がある石灯籠2基がある。
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旧中筋家住宅。敷地の東側が熊野古道に面しており、江戸時代後期の和佐組大庄屋にふさわしい屋敷構えを残している。嘉永5年(1852)建築の主屋(おもや)は、三階の望山楼、二十畳敷きの大広間や広い接客空間などが特徴で、紀ノ川流域随一の大規模民家である。
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屋敷正面の表門は、東西が約30メートルある長屋門形式の門で、江戸時代後期の建築だ。中央の門構えは総ケヤキ造りで、表門東側の座敷3室は、大庄屋の役所として使っていた。特に上の間には、天井に柾目板を張るなど格式が高く、中筋家当主が執務した部屋と思われる。
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和佐王子を過ぎると、この日初めての山道となった。
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矢田峠には、倒木もありやや荒れている雰囲気だ。
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伊太祁曽(いたやそ)神社の入り口。
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伊太祁曽神社は我が国に樹木を植えて廻ったと『日本書紀』に記される「五十猛命(いたけるのみこと)」を祀る神社である。植樹神五十猛命は一般には「木の神様」として慕われている。そのため、全国の木材関係者のお詣りが多い神社だという。
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四つ石地蔵。小さなお堂の回りにだいたい1.5メートル程の平たい4つの大きな石が置かれている。案内板によると、かつてここにあった三上院千光寺の礎石を集めたとある。
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松坂王子を過ぎ、くも池の堤防の石畳を進むと汐見峠にさしかかる。古の都人が旅の途中で、憧れの海を見たのがここだったということで、汐見峠と名付けられたそうだ。
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峠には安政の大地震の時、人々を峠へ呼び上げて救ったといわれる「呼び上げ地蔵」が祀られている。大地震で、このあたりにも津波が押し寄せ、冬の夕闇が迫る中、村人たちが目指したのは汐見峠に差す不思議な光だった。「こっちへ来い」。峠から響く声を頼りに、多くの村人が坂道を駆け上がると、そこには地蔵の姿があった──。
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日方川にかかる春日橋の手前に松代王子の説明板があり、左手の春日神社への参道を上ると青石に刻まれた「松代王子碑」がある。
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菩提房王子を過ぎ、JRの線路を通り抜け、海南駅の西側に出る。1日目のゴールは、和歌浦の海に浮かぶリゾートアイランド「 和歌山マリーナシティ」にも近いホテルだ。この日の走行距離は32.2キロ。到着時間も17時を過ぎていて、いささか疲れた1日となった。
参考1.1日目の高低図&タイム
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参考2.1日目のコースマップ
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「2021第9回熊野古道ジャーニーマラニック:紀伊路編その1-2日目(海南~湯浅)」に続く。