とっちーの「終わりなき旅」

出歩くことが好きで、趣味のマラソン、登山、スキーなどの話を中心にきままな呟きを載せられたらいいな。

2011第6回天女の羽衣伝説ウルトラマラソン 《賤ケ岳登山・観光編》

2011-04-19 22:27:01 | 山登り
マラソンの翌日の朝は、素晴らしい天気になった。余呉湖荘前の桜が、余呉湖の青い湖面と青空に映える。


朝食を済ませ、余呉湖荘前で最後の集合写真を撮る。


その後は、オプションの賤ケ岳登山に参加する。約20名ほどのメンバーが参加して余呉湖荘の裏手から飯裏越切通しのハイキングコースに向かった。この辺りは、1583(天正11)年に柴田勝家と羽柴秀吉が信長の跡目争いの賤ケ岳合戦があった場所である。実際の戦いは賤ケ岳の山で行われたのではなく、この余呉湖畔や余呉の地一帯で行われたそうだ。


切通しの道を少しずつ上っていく。前日のマラソンで筋肉痛となり、足取りがぎこちない人もちらほらいた。


40分ほどで、賤ケ岳山頂(421m)に到着する。賤ケ岳を隔てて南側には大きな琵琶湖が見える。一番左端には、琵琶湖周航の歌で有名な竹生島も見える。


七本槍古戦場の案内柱前で記念撮影。賤ケ岳合戦において、秀吉方で功名をあげた兵のうち福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元の7人が賤ヶ岳の七本槍(しずがたけ の しちほんやり)と呼ばれる所以で七本槍古戦場という。


こちらは、北側にある余呉湖をバックにしての記念撮影だ。昨日走った余呉湖畔が手にとるようによく見える。


後方に見える雪山は、能郷白山だ。数年前登ったことがあるので、何か嬉しい気分になった。


こちらは、合戦の後疲れ果てた武将の像のようだ。


その後、30分ほどで賤ケ岳を下山して解散する。今度は、マラソンコースを車で移動し、前日気になっていた桜の前で車を止めた。前日よりも開花が進んだようで一際きれいだった。


スタッフとして走れなかった人たちが、いい天気になった余呉湖畔を走ってきた。黄色い菜の花とピンクの桜、そして赤いTシャツが目に鮮やかに入ってきた。


田園越しに見える賤ケ岳、余呉湖と桜並木。


そして、その風景をスケッチする人たち。のどかな雰囲気である。


余呉川導に垂れ下がる桜の枝。絵になる風景である。


そして、テラスでは似顔絵を描いている。


余呉湖を出てそのまま帰るのも、もったいないのでNHK大河ドラマの舞台となった小谷城跡に寄ることにした。小谷城は日本屈指の山城で浅井氏の居城であり、浅井三姉妹誕生の地でもある。ここでは「江・浅井三姉妹 博覧会」が開かれており博覧会場を見学する。


武者達と槍を構えての記念撮影。


博覧会は、それほど広くなくすぐ見終わってしまった。できれば、小谷城本丸跡や山頂まで行って見たかったが、みんなお疲れモードのようでそのまま高速に入り自宅に戻った。マラソン、登山、観光を充分エンジョイできた二日間だった。

2011第6回天女の羽衣伝説ウルトラマラソン 《夕食・懇親会編》

2011-04-18 22:35:41 | マラソン
マラソンが終わり、国民宿舎「余呉湖荘」の風呂で汗を流した。この大会は、走るだけで終わらず宿泊も込みである。特別に用があって日帰りする人以外は、全員宿泊するようになっている。仲間同士が一緒になれるように部屋割りが決められていたので、走友達と部屋に入り夕食を待つことにした。

我々の部屋には、東京のHさん、kazukawaさん、ヒロボーさん、unpohさんが一緒だった。そして、別部屋だった名古屋のK池さんがクーラーボックスに入れたビールやらお摘み、日本酒等を持参してくれ夕食前から、早くも宴会が始まった。みんなウルトラだけでなくお酒の達人でもあり、これから寝るまで酒盛りが続くことと成った。

ひとしきり酔いが回ってきた頃、夕食の時間となり、会場となる別館に向かう。80人近い参加者のうち70名ほどが宿泊したようで、夕食会場はおおいに賑わっていた。


(unpohさんは、女性の住所や電話番号を聞きだすのが忙しいようだ)


(主催者のN部さんと一緒に走友たちと記念撮影)

夕食は1時間ほどで終わり、一旦部屋に引き上げる。同じ会場で表彰式を含む懇親会が30分後に始まり、再度会場に入る。懇親会では、今日の大会参加者全員に証書が授与された。10周完走できなかった人には、未完走証。10周完走できた人には、完走証が贈られる。最初に呼ばれるのは、最も距離が短かった人だ。まさに名誉ある未完走証である。以後、成績順に呼ばれ最後は最も早く完走した人への完走証授与であった。私も後半に呼ばれ、簡単なスピーチをして引き上げた。


(今大会、最年少の20代の女性も参加)






(私の走友たちの授与シーン)

そして、証書授与の後はお待ちかねの抽選会である。昨年ヒロボーさんが、折り畳み自転車が当ったというのを聞いていたので、今回は期待して待っていた。今回は、自転車はなかったものの地酒、お米、マラソングッズ、ジャケット、タイツ等の賞品がいろいろ提供されていた。特にCW-Xのジャケットやタイツ等はみんなが期待していた賞品だ。私もCW-Xを狙っていたが、早い段階で地酒「七本槍」が当たってしまったのでCW-Xはあきらめることにした。その後も、抽選が続き、結局私の走友たちは全員何かしらの賞品をゲットしていた。しかも、CW-Xの上と下で2名が当たるという高確率だ。


(CW-Xの上着と地酒「七本槍」が当ったところ)

その後は、大会参加3回以上の人たちの発表とTシャツ授与が行なわれた。3回以上参加すると大会オリジナルTシャツがもらえるそうだ。おそろいの赤いTシャツが皆さんお似合いだ。


主催者N部さんの挨拶で楽しい懇親会が終わった。


しかし、まだ一日は終わらない。その後も部屋で3次会の酒盛りが始まり、unpohさんやK池さん達と話が弾んだ。しかし、ヒロボーさんは別会場に行ったまま何時まで経っても戻ってこない。12時前となり、私やkazukawaさんは疲れて先に眠ることにした。ヒロボーさんを呼びにいったまま戻らないunpohさんとヒロボーさんが部屋に戻ったのは12時過ぎではなかっただろうか。やがて二人が部屋に戻り、気持ち良さそうな寝息を立てていたのだけは未だに覚えている。

そして、マラソンの一日があっという間に過ぎていった。翌日は、余呉湖の南側にある賤ケ岳登山の予定だ。続きは、《賤ケ岳登山・観光編》へ。

2011第6回天女の羽衣伝説ウルトラマラソン 《マラソン編》

2011-04-17 22:04:29 | マラソン
金曜日の夜、北陸道神田PAに到着し車中泊後、土曜日の早朝木之本ICから余呉湖へ向かった。琵琶湖の北にある余呉湖は周囲6.4kmほどの小さな湖である。余呉湖は流入する川も流出する川もなく、神秘の湖として古くから鏡湖(きょうこ)とも呼ばれていたという。

今回は、ヒロボーさんや主催者のN部さんの誘い等もあり、かっちゃんやkazukawaさん達と余呉湖で行なわれる「天女の羽衣伝説ウルトラマラソン」に参加することにしたのだ。スタート会場となる国民宿舎「余呉湖荘」の駐車場には既に多くの車が止まっていた。


駐車場から道路に出た所が、スタート・ゴール地点である。周辺では、スタッフが受付やらスタート前の準備等で忙しそうに働いていた。参加者で余裕がある人は、余呉湖の風景をカメラで撮っていたりしている。我々も急いで支度をして、受付を済ますため受付テントに向かった。


受付をする参加者や荷物を預ける参加者たち。スタート地点前にある電光掲示板の時間はまだ0である。


国民宿舎「余呉荘」前で、大会の注意事項などの説明を主催者から聞く。


スタート地点の幟下で参加者全員で記念撮影だ。今回はかなり人数が増え80名近くになったという。気温が低く、今にも雨が降りそうな天気ではあったが、みんな楽しそうな表情を浮かべている。全員笑顔で記念写真が撮れたようだ。


スタートは午前7時で午後5時の時点で競技終了となる。コースは一周7キロの余呉湖を10周する周回コースであり、ほとんどフラットなコースだ。ゴール前のエイドに飲み物、食事があり、中間点前後に2箇所飲み物エイドがある。1周10キロだと長いような気がするし、5キロでは短すぎる。7キロくらいが丁度いい絶妙の距離といえる。エイドも3.5キロごとにあると考えれば充分だといえる。

スタート前の余呉湖の湖面は鏡のように平で波一つない。湖面に映る山影と湖面に浮かぶ白い霧は、伝説の湖をこれから走るというイメージを彷彿させてくれた。だが、気温は思いのほか低く、温かい太平洋側と比べ春の訪れが遅いのを改めて認識させられた。


スタートして1~2周目くらいまでは、曇りで日が少し射したりもしていたが次第に雨が降り始め、風も強くなってきていた。湖面も風で波立ちスタート前の様相と激変していた。1~2キロ地点は風の通り道になるのか、周回するたびに同じ場所で強風に苛まれた。なかなか天気が回復しないまま何度も余呉湖を周回する。7周目辺りくらいから雨がやみ日がちらほら射してくるようになった。同じコースを何度も走るので、コースの状況写真は、晴れてきた最後の10周目で撮ることにしていた。以下10周目で撮影したコース状況写真だ。

ゴール前のエイドで、周回毎のチェックを自分で済ませる。チェックは自分でしなければいけない。ただし役員のほうでもチェックはしてくれていたようだ。そして、9周したランナーには赤いた襷が掛けられ最後の周回とわかるようにしてくれる。


これは、エイドで用意されている果物やパン。他にもおにぎり、トン汁、ケーキ、コーラ、スポーツドリンク、お茶、コーラ等が用意されている。


1キロを過ぎた辺りから桜並木が始まる。まだ寒くこの辺りは3部咲きくらいである。そして、風が強かった場所でもある。


2キロほど行った辺り。この辺りの桜は7~8分咲きといったところだ。


日が射して朝より花びらが大きくなってきたようだ。


2.5キロ辺りにある「岩崎の大岩」。案内板にはこう書かれている。「岩崎山には湖岸に大岩が突出し、志津ヶ岳合戦には高山重友の砦があった。古代には近くに智者寺・蓮法寺があり、これと並び岩崎の大岩として人々から崇敬されていたが道路拡張で取除かれた。この岩は当時を偲ぶなごりである」


3キロ辺りの余呉川導にある桜並木と菜の花群落は見事である。ここを通るたびに癒される感じだ。


そしてほぼ中間点にあたる地点が、今大会のタイトルにもなった「天女の羽衣伝説」の発祥の地である「天女の衣掛柳」がある場所だ。この柳はマルバヤナギといい落葉して幹と枝だけなのだが、葉が伸びてくると見事な大木に見えてくるそうだ。案内板には、伊香刀美という男が舞い降りた天女の衣を隠し、帰れなくなった天女を妻とし、その子孫が伊香郡開拓の祖となったという伝説と、菊石姫伝説にも出てきた桐畑太夫の妻となった天女が一男を産んだが衣を見つけて天に帰り、残された幼児の泣き声を法華経のように聞いた菅山寺の僧が養育し、菅原是清が養子として引き取り京都で成人して菅原道真になったという伝説が紹介されている。


衣掛柳の前で記念写真だ。因みに日本の天女伝説は、北は北海道から南は沖縄まで50余箇所にあるという。余呉湖、三保の松原、丹後の奈具が日本3大天女伝説となっていて、余呉以外の地域の天女伝説では羽衣をかけるのは松がほとんどであり、柳が登場するのは余呉だけらしい。


JR北陸本線の横を通り、余呉湖畔西岸に入る。西岸には集落があり、細い道をしばらく走る。車が通るとちょっと狭い道だ。周回中には、仲間の走友たちと何度か出会う。



6キロ地点では、「菊石姫と蛇の目玉石」と呼ばれる大岩が現れる。玉垣で囲われた大岩の上にお飾りがしてあり、神聖な雰囲気がある場所だ。周回中、お参りしている人たちを何度か見かけた。案内板によれば、仁明天皇の頃、領主桐畑太夫の娘の菊石姫が干ばつ時に余呉湖に身を投げ、蛇身となって雨をふらせ、母に疫病の薬にと蛇の目玉を抜き取って湖中から投げたところ、石に目玉が落ちて跡が残ったので、以来この石を「蛇の目玉石」という、と書かれている。


目玉石の近くには、賤ケ岳合戦の時、柴田勝家側にいた青木新兵衛という槍の名手が血糊のついた槍を余呉湖の水で洗ったという場所が、槍洗いの池として史跡になっている。

前方に見えるのが、ゴール地点の国民宿舎「余呉湖荘」だ。10周目でここまでこればゴールは間近となる。


タイムは8時間6分だった。最初の2週目くらいはキロ6分ペースだったが、あとはキロ7分ペースで走った勘定だ。エイドごとで休憩していたが、それ以外はほぼイーブンでコンスタントに走れたといえる。一緒に走ったかっちゃんがいいペースだったので、自分も合わせることが出来、満足できたタイムだったといえる。

ゴール後は、夕食、懇親会へ突入する。続きは、《夕食・懇親会編》へ。

「天女の羽衣伝説ウルトラマラソン」参加します。

2011-04-16 06:45:43 | マラソン
滋賀県長浜市の余呉湖にやってまいりました。今日は、一周7キロの余呉湖の周りを10周して70キロを走るという「天女の羽衣伝説ウルトラマラソン」に参加です。午前中は雨模様ですが午後からは晴れそうです。スタートは午前7時、これから頑張ってきます。

牡丹の花が咲き始めた

2011-04-15 19:13:20 | 
畑の牡丹の木の葉が急速に伸びてきたなと思っていたらついに花が咲き始めた。開花時期は、4/25頃~5/5頃とものの本に載っていたが、急に暖かい日が続いたのか花が一気に咲きだしたようだ。


牡丹は、牡丹(ぼたん)科、学名 Paeonia suffruticosa(Paeonia : ボタン属、suffruticosa : 亜低木状の)。Paeonia(パエオニア、ペオニア)は、ギリシャ神話の”医の神”「Paeon」の名に由来すると本に書いてある。原産は中国で、中国名の「牡丹」を音読みして「ぼたん」の呼び名になったそうだ。


「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という女性の美しさを形容する言葉がある。 ”シャクヤクのように風情があり、牡丹のように華麗で、百合のように清楚”という意味だ。たしかに牡丹が満開に咲き誇ると華麗という形容詞がピッタリだ。もう少し経つと、数十本ある牡丹が満開になるはずである。その時の、華麗な景色が楽しみである。


そして、なかなか芽が出ないと気になっていたジャガイモの芽もやっと出てきた。よく見ると、10箇所ほど出ていた。初めて植えたジャガイモだけに芽が出てきてホッとしている 。


Amazonの「ほしい物リスト」を使って被災地へ物を送る

2011-04-14 00:09:01 | ニュース
昨日は、義捐金より支援金を送ったほうが迅速でいいという記事をアップしたが、それに絡んで画期的なシステムが出来ていたことがわかったので紹介する。

Amazon には「ほしい物リスト」という項目がある。そこに自分の欲しい物を登録しておくと、それを見た友人や家族等が自ら購入して、欲しいと思っている人にプレゼントできるというシステムである。最近このシステムを利用して、被災地に直接必要な物を送ってしまおうというアイデアがTwitter上で発案され、「ほしい物リスト」を作った被災地には、あっという間に支援が殺到しているという。巨大ネットワークシステムを構築したAmazonは、こんなアイデアを社長の即決で国よりも迅速に対応しているのである。まったくすごい企業だ。

もちろん、「ほしい物リスト」を作った被災地が本物かどうかについては、Amazonがきちんと確認して登録しているようなので、送付先に間違いは無いはずだ。本当に必要な物をすばやく届けるということにおいて、画期的なシステムと言えるだろう。実際にどんな物がギフトで送られたかは、リストを「購入済み」で検索すると見ることができる。リストを見るとパンク修理キットや空気入れ、漫画、長靴、工具等が人気で購入されていた。これなら、確実に必要とされていた物が何だったのかがよくわかる。これから義捐金を出そうと思っている人は、こういった支援の仕方があることも知っておいて欲しい。

現在登録されているのは2箇所の避難所だ。

・明神避難所「ほしい物リスト」
http://www.amazon.co.jp/gp/registry/wishlist/21H1B3ITK663I

・陸前高田市消防団高田分団「ほしい物リスト」
http://www.amazon.co.jp/registry/wishlist/2Q7C4QYL9PP4B

この情報についての記事
http://mainichi.jp/select/biz/it/hatena/archive/articles/201104/3526.html

義捐金はいまだ金庫の中

2011-04-13 20:32:27 | 呟き
東日本大震災への義捐金が1300億円以上も集まっているそうだが、いまだに現地に届かず何処かの金庫に眠ったままだという。

最近知ったことだが、災害で被災者に渡るお金には「義捐金」と「支援金」の2種類がある。我々が被災者のためにと思って提供したお金のほとんどは日本赤十字社に送られ、総額が被災者に平等に分配されることになっている。ただ、義捐金は各自治体の被災者数や被害状況をきちんと調査して分配されるため、最終的に被災者の手元に届くまでに時間がかかってしまうのだ。阪神・淡路大震災の際にも、分配までに数か月かかってしまったという。

これに対して「支援金」は、この大震災において活動しているボランティア団体・NPO、あるいはそうした団体が必要だと考える人びとに支給される。また、この現金はガソリンや食料品、おむつなどに変えて、必要な人に配られる。即効性を考えるなら、この支援金の方が有効な手段である。支援金は、即支援活動に使われることが多いのだが、団体によって使い道が異なるため公平性・平等性は担保されないというデメリットがあるとのことだ。

このような「公平・平等」が必要なのは平時のことであり、現在のような非常時は「不公平・不平等」こそ重要かもしれないという意見も聞く。たしかにお役所仕事で、堅苦しく決まりどおりのことでしか仕事を進めているようでは生きたお金の使い方にならない。ある程度の不平等は目をつぶっても迅速に処理することも必要だと思う。今まで日本赤十字に義捐金を出していたが、信頼できるボランティア団体やNPOに支援金を出すことも一考の余地があるといえる。

15歳未満の脳死臓器提供は国内初

2011-04-12 21:31:25 | ニュース
大震災がらみのニュースの中に埋もれ、あまり大々的に報道されていないが、今日のニュースで日本臓器移植ネットワークは、12日関東甲信越地方に入院していた10代前半の男子について、脳死判定と臓器提供を家族が承諾し、法的に脳死と判定されたと発表した。15歳未満の脳死臓器提供は、昨年7月17日に全面施行された改正臓器移植法で可能になり、実施されるのは国内で初めてだという。心臓、肺、肝臓、腎臓、膵臓(すいぞう)の5種類の臓器が移植を待っている人たちに提供されることが決まったそうだ。

「改正臓器移植法とは」
2009年7月に成立し、2010年7月17日に全面施行された。本人の提供意思が不明でも生前に拒否していない限り、それまで認められていなかった15歳未満を含め、家族の承諾のみで脳死臓器提供が可能になった。18歳以上では今月11日時点で家族承諾による提供例が38例あった。実施例については、脳死判定や移植に至る手続きが適正かどうか、厚生労働省の検証会議が事後検証する。

このニュースが気になったのには訳がある。現在、WOWOWで放送されている連続ドラマが「CO移植コーディネーター」だからだ。5週連続で今週末が最終回になる。まさにタイムリーなニュースだった。臓器移植法改正後、本人の拒否表示がない限りは、家族の同意で臓器の提供ができるようになり、15歳未満の子供からの提供も可能になった。ドラマではこの点に着目し、初めて起きた15歳未満の脳死に何人もの大人たちの思惑がからむ様子を、COの目を通して描いている。臓器移植に同意するまでの家族の心の葛藤、移植を待つ人々の切実な願い、それらの人々を繋ぐ移植コーディネーターの重要な役割と苦悩といった重いテーマを丁寧にドラマ化されている。まだ、ドラマの最終回を見ていないのでどうなるのか判らないが、命について真剣に考えさせられる秀逸なドラマである。それが、現実にも起きたことで今回移植を決意した家族の思いを垣間見る気がした。

連続ドラマW「CO移植コーディネーター」 ~WOWOWより~



<概要>
2010年7月、改正臓器移植法が施行され、臓器提供の意思がある場合、年齢に関係なく、本人の拒否がない限り、家族の同意で臓器の提供ができることになった。そんな中、注目を集めているのが「移植コーディネーター」という仕事だ。このドラマは吉岡秀隆扮する移植コーディネーターが、法改正という変化の中で、様々な思惑に振り回されながらも、国内初の6歳の心臓移植を成功させるまでの物語。“子供の虐待問題”や“利権を狙う病院側の陰謀”など様々な問題が浮かび上がる臓器移植――。この物語は、取材を元にフィクションで作られた、リアリティ溢れるスリリングな本格社会派ドラマであり、かけがえのない命に関わる人々の葛藤や闘いを描いた人間ドラマです。

<ストーリー>
移植COになって数年の大野(吉岡秀隆)は、先輩COである倉本(ユースケ・サンタマリア)と臓器法改正後の移植医療の難しさに葛藤を隠せないでいた。厚労省から移植の成功例を出す様に圧力をかけられている竹ノ内総合病院の院長(平田満)は、躍起になっていた。その系列病院には4年間移植を待ち続けている拡張型心筋症の立花海斗(6)が入院していた。母の美樹(麻生祐未)は、残された唯一の道である、国内での移植手術を熱望していた。そんなある日、事故は起きる。アパートのベランダから、6歳の少年、手塚健(6)が転落したのだ。慌ててベランダに駆けつけた母の由比(木村佳乃)は愕然と立ち尽くす。すぐさま都内の大病院、竹ノ内病院に運ばれた健だったが、危険な状態を彷徨う。そんな健の体には、不自然な骨折痕や痣が見受けられ、虐待の疑いが持たれた。しかし、法律で、虐待で脳死状態になった子供の臓器移植は禁止されているため、竹ノ内は警察に虚偽の報告を行う。法改正後、初めて起きた15歳未満の脳死に、何人もの大人たちの思惑が群がり始める。そのことに気づき始めた大野は、ドナー家族のため、そして生きたいという希望を抱くレシピエント家族のため、立ち向かう。



キンカンの甘露煮

2011-04-11 22:28:59 | レシピ
母の残した畑にキンカンの木があって、今年もたくさん実をつけていた。我が家では、あまりキンカンを食べるという習慣がなく、ほったらかしにしていたのだが近所の人が通るたびにたくさん成ったねとか、少し分けて欲しい等とよく言われていた。つい先日も、隣のお宅の奥さんがすごく欲しがっていたので、かなり分けてあげたら大変喜んでくれた。

すると今日、その奥さんがキンカンの甘露煮を作ったので食べてくださいと持って来てくれた。キンカンは風邪の予防、喉の痛み、咳に効くといわれ昔の人は金柑湯などにして飲んでいたそうだ。我々の世代だと、すぐに薬で対処してしまうところだが、意外と自然界にあるもので薬になるものがあるということを知った。また、ビタミンCとカルシウムが豊富らしく美容効果や健康管理の為にもいいそうだ。

とても食べきれないほど大量のキンカンが収穫出来き、どうしようかと思っていたがこのような利用法があると判りちょっと嬉しくなった。他にも近所で喜んでもらってくれそうな人がいたので、残ったキンカンを全て収穫して分けようかと思っている。

隣の奥さんがどんな風に作ったのかはよく判らないが、ここに載ってるようなつくり方だろう。
http://food1.setosa.com/jamkink2.html

2011八紘嶺登山

2011-04-10 22:16:16 | 山登り
今日は、前日の天気とは打って変わりいい天気に恵まれるものと思って山に行くことにした。ただ、今回は何人かに声を掛けたものの誰も同行してくれる人が現れず単独行になった。

目覚ましを5時半にセットして何とか起きると大忙しでザックに荷物を詰め込んで6時半に家を出発する。ほぼ2時間半で今日の目的地である八紘嶺の登山口がある梅ヶ島温泉についた。八紘嶺に登るには梅ヶ島温泉からと安倍峠からがある。安倍峠まで行くことができれば2時間で八紘嶺に登ることができるので安倍峠まで行きたかった。事前にネットで調べたら梅ヶ島温泉から安倍峠に向かう林道豊岡梅ヶ島線は冬季閉鎖だが4月上旬には解除になるとあったので期待して林道入口まで車を走らせた。ところが、行ってみたらまだゲートが閉まっており5月13日まで閉鎖となっていた。ネットの情報はやはり古く更新されていなかったようだ。止むを得ず、梅ヶ島温泉まで戻る。


温泉街の奥に梅ヶ島温泉の公共駐車場がある。ほとんど車が止まっていない駐車場に車を止め歩き出す。時間は午前9時ごろである。


10分ほど歩くと、林道ゲート手前にある登山口に着く。ここで登山届を提出して歩き始める。


桧林の中を登っていくと、間伐展示林の標識がある。展示林だけあって見事に枝打ちされている。


歩き始めて1時間ほどで、林道出会いに出る。ここは林道が開通していれば車でこれる場所だが、今日は車の通行もなく静かなものだ。


林道の先へ進むと安倍峠方面だ。


安倍峠には向かわず八紘嶺へのコースに向かう。


天気は思ったより回復せず標高が高くなるにしたがってガスが立ち込めてきた。


景色はまったく見えずひたすら登るだけだ。1時間以上歩いたころから次第に雪が増えてきた。念のためアイゼンを持ってきてよかった。途中でアイゼンを装着して先へ進む。


林道出会いから約1時間半くらいで八紘嶺山頂に到着する。ここは静岡県と山梨県をまたがる場所である。標高1918mの山頂周辺はまだ雪だらけだ。風はそれほどなく思ったほどは寒くない。だが、ここまで来る間人間はおろか動物にも出会わなかった。まさに静寂の世界。聞こえるのは自分の息づかいだけである。本来なら富士山の展望が抜群の場所なのだが、まったく視界が利かない。寂しくなって、山頂の休憩もそこそこにして下山する。



山頂から帰る途中で一人の登山者に出会ったが、以後誰にも会わずに一気に梅ヶ島温泉の登山口まで下りた。登りは3時間くらいかかったが下山は2時間弱だった。梅ヶ島温泉の旅館街が見えると一安心だ。


時間はまだ午後2時なので、梅ヶ島温泉の周辺を散策する。


(梅ヶ島温泉の源泉にあたる岩風呂)


(岩風呂の奥にある湯滝)


(駐車場から歩いて5分の場所にある三段の滝)

今日は、雨は降らないもののガスで真っ白な景色ばかりであてが外れた。自然の中に溶け込み静寂を思う存分味わえた山旅と思うことにしよう。