そろそろ、爪を切ろうと思い、
私は忘れないように、メモを書いた。
『爪切り かずこさん』
おはようございます。
普段、猫の爪を切るのに、わざわざメモを書いたりはしない。
そろそろ伸びてきた頃だと気付いた時でもなく、
なんとなく、やる気が出た時に切る程度だ。
けれど、きくが居た頃は違った。
きくの爪だけは、切った日時を必ずメモしていた。
あの子の爪は、放っておくと肉球に爪が刺さってしまうくらい、
酷い巻き爪だったからだ。
そんな子に限って、皮肉にも爪切りが大っ嫌いだった。
嫌いという言葉で片付けられないくらい、嫌いだった。
だから、私の気持ちも書いたメモも、実にじれったいものだった。
『10月11日 右手の人差し指』
『10月13日 右手の薬指』
『10月15日 きく激怒により一旦休止』
『10月20日 左手の親指、やったぜ!』
きくに騙し討ちは効かない。
何度も騙されれば、折れて諦めてくれるような猫じゃない。
騙せば騙すほど、扱いづらくなる。
きくは、そういう猫だった。
だから私は、きくの機嫌が良さそうな時を見計らって、
あえて、爪切りを見せて、
「1本、切らせて。お願い。」
と、内緒話をするみたいな声で、きくを説得した。
そこで、きくが納得しなければ、切ることは叶わなかった。
逆に言えば、納得すれば切らせてくれたということだ。
当時の私は、まるで綱渡りみたいな気持ちで日々を過ごしていた。
あの時、きくが、どうあっても納得しなかったら、
私は、どうしていたんだろう。
捕獲機を使ってでも捕まえて、獣医へ連れて行ったのだろうか。
そんなわけで、
私は、『爪切り かずこさん』と書いた時、
ふと、きくを思い出していた。
かずこさんは、昔から身だしなみに余念のない人だったが、
ある日、足の爪が酷く伸びていることに気が付いた。
「かずこさん、足の爪が伸びとるよ。切ったろか?」
「まんだ、そんな伸びとらん。わし自分で切るでええ。」
きっぱりと断われた。
でも、次の日もその次の日も、爪は伸び続けている。
母は、ますます認知機能が衰えてきている。
もう自分で爪の管理は出来なくなっているのだ。
それでも、我が母かずこは、昔から人に頼ることを、誰よりも嫌う。
何でも一人で達者に生きていると思っているのだ。
昔っから、どうしようもなく世話の掛かる人なのにだ。
まるで、あの猫みたい。
そう、ほんと、きくみたい。
とはいえ、
そろそろ、本気で切った方がいいなぁ。
そう思った私は、明日こそは切ろうとメモを書き、
次の朝、カバンに爪切りを入れ、実家へ向かった。
なんだか、ドキドキする。
あぁぁ、このドキドキ感、懐かしい。
また、ピシャリと断られるだろうか・・・
「かずこさん、足の爪、切ろうか?」
私は、きくにやっていた時のように、
爪切りを見せて、内緒話をするみたいな声で言った。
すると、椅子に腰かけていた、かずこさんは
「うん」
と頷いて、右足をピーンとこちらへ伸ばした。
「かずこさん、足が高く上がるな~凄い!」
まるで体操選手みたいに美しく伸ばされた右足に、私は笑っちゃった。
笑いながら、足の爪を慎重に切り始めた。
この感覚も、知ってる。
きくが死ぬ前の数か月間に味わった感覚だ。
ゴロゴロと喉を鳴らしながら、大人しく抱かれて爪を切らせてくれた時だ。
何年も、爪切りの死闘を繰り返してきたのに、
あの日を境に、きくは爪切りも抱っこも、なんでもさせてくれるようになった。
久し振りに抱いたきくは、子猫みたいに小さくなっていた。
私に体を委ねるきくの頭の上に、私の目から零れる涙が落ちないように
焦って上を向いた。
それでも気付いた頃、きくの頭上は濡れていたというのに、
そんなことは気にもせず、きくは無垢な子猫のように目を細めていた。
あの神経質な猫が、身体を投げ出すように委ねる姿に、
私はさらに泣けてきた。
嬉しいんだか、切ないんだか、よく分からない涙。
私は、かずこさんの足の爪を切りながら、
不覚にも泣きそうになって、顔を上げた。
その時のかずこさんは、やっぱり、あの時のきくみたいに
無垢な子供のようだった。
そんな、今の我が家のたれ蔵は、
爪切りなんて、へっちゃらぴーで切らせてくれる。
ぴーのぴーだ。
なんかさっきから、ピーピー、ピーピー鳴ってるけど・・・
何の音だろうか?
たれ蔵「ピーピー、ピーピー」
たれ蔵のイビキなのね?
たれ蔵「ん?」
ごめんごめん、寝てちょうだい。