天国といえば、
花園のよう…。 といいますよね。
つい口に出ます。 「天国にいるようね!」。 『相楽園のつつじ』
正に満開。美しい。 夫と日長半日、つつじ観賞してきました。
前前回の聖書通読会で、ああやこうやと、仲間と盛り上がりました。
天国と地獄とは、どういうことでしょう? と。
カトリック教会の教えでは
『天国において人間はその目的に到達します。人の目的は神のいのちに参与することです。
天国において、人はそれぞれの個性と独自性を保ち続けます。』
カトリック教会のカテキズムより。
人には自由があります。
この世において、どのように考え、どのように振る舞い、どのように生きるかは、一般的には、自由です。
そして・・・
天国においても、この世でどのように考え振舞い生きたかの個性と独自性を継続し、この世のままに生きることになる。永遠にこの世のまま。ということのようです。
純粋な花は、神の御旨のままに、この世でも天国でも…。 『生涯純粋』 ←信仰者の私の発言。
夫は言います。
「花は自分では動かない。これだけ美しいのは、鳥や虫を呼び寄せるためだろうね。
呼び寄せる目的は、自分の子孫繁栄だろうね。」 見方が科学者です。 夫も立派な信仰者ですよ。
転じて・・・『地獄』
一昨日の『聖書勉強会』。
こちらでも、偶然に、『地獄』が教材でした。
『もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。
体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。』
続きます。
聖書は、目から手へと見方を変えて、繰り返します。
『もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。
体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。』
マタイ福音書 5章29&30章
とても厳しい御言葉ですよね。
夫婦関係をいさめる言葉、『姦淫するな』(同5章27節)、の後に続く御言葉です。
早速の、恥ずかしながらの、私の質問
「つまずきとなる、私の右の目をえぐり出さず、私の右の手を切り捨てなければ、『地獄』に行くってことですよね?」
講師の即答。
「そうです。『地獄』です。 『地獄』に行くとイエスは言います。」 答は単純明快でした。一言だけ。
更に・・・
講師の厳しい言葉が、当然のように、続きました。
「『右の目や右の手』とイエスが話すのは、いつものイエスの手口です。 比喩を言っているのです。」
「『右の目や手』は、あなたが話す言葉。でもあります。 夫婦間の行い全般 を意味するのです。
結婚した者同士が、相手を傷つける言葉を発しても、その言葉をやめない限り、行き先は『地獄』です。」 と。
講師は、それ以上、何も言わない。 私の顔を見つめるのみです。 「分かったか???」「承知したか???」と言いたげです。
私も、それ以上、何も言えませんでした。 「参りました。その通りです!」 敬服あるのみです
以上。
先回の聖書勉強会の講師の話の一部でした。 非常に厳しい『神の御言葉』の考察でした。 お粗末さまでございます
ちなみに・・・
カトリック教会の教えでは
『地獄は、神が置かれたものではなく、人間の自由と意思の極限の可能性を示しています。
地獄に行く人がどれくらいあるのかは、だれも知りません。
ただ各人、人間の持つ可能性を知り、自己を戒めるべきでしょう。」
カトリック教会のカテキズムより。
人には自由があります。
この世において、どのように考え、どのように振る舞い、どのように生きるかは、一般的には、自由です。
そして・・・
この世でどのように考え振舞い生きるかは、自己の選択です。 この世のままに次の世でも生きることになる。 永遠にこの世のまま。ということのようです。
相楽園の散歩が続きました。
『旧ハッサム住宅』 心暖まる・・・ 『食堂』 と 『Family Room』 国重要文化財
大好きです。 緑の見える窓。 集まる者の笑い声が聞こえる暖かい空間。
これぞ『天国』
イギリス人貿易商・ハッサム氏の自邸として、明治35年建設。
当初は、神戸北野町高台にありました。 イギリス人建設家・Alex.N.ハンセル氏の設計。
昭和38年、相楽園に移築。 神戸における近代洋風建築保存の先駆けとなりました。
単純な私。
直ぐに感動して、動き出します。
ゴールデンウイークは、近年、寝食忘れて、家中の大掃除に当てます。 これが楽しい。大好きです。
一日は庭の大掃除。 一日は夫婦の全衣類の大掃除。 そして 一日は家中の大掃除。
家中の大掃除では・・『旧ハッサム住宅』風に…。 頑張ります
皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。 GWも終盤! すてきな思い出を残して下さいね!
花園のよう…。 といいますよね。
つい口に出ます。 「天国にいるようね!」。 『相楽園のつつじ』
正に満開。美しい。 夫と日長半日、つつじ観賞してきました。
前前回の聖書通読会で、ああやこうやと、仲間と盛り上がりました。
天国と地獄とは、どういうことでしょう? と。
カトリック教会の教えでは
『天国において人間はその目的に到達します。人の目的は神のいのちに参与することです。
天国において、人はそれぞれの個性と独自性を保ち続けます。』
カトリック教会のカテキズムより。
人には自由があります。
この世において、どのように考え、どのように振る舞い、どのように生きるかは、一般的には、自由です。
そして・・・
天国においても、この世でどのように考え振舞い生きたかの個性と独自性を継続し、この世のままに生きることになる。永遠にこの世のまま。ということのようです。
純粋な花は、神の御旨のままに、この世でも天国でも…。 『生涯純粋』 ←信仰者の私の発言。
夫は言います。
「花は自分では動かない。これだけ美しいのは、鳥や虫を呼び寄せるためだろうね。
呼び寄せる目的は、自分の子孫繁栄だろうね。」 見方が科学者です。 夫も立派な信仰者ですよ。
転じて・・・『地獄』
一昨日の『聖書勉強会』。
こちらでも、偶然に、『地獄』が教材でした。
『もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。
体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。』
続きます。
聖書は、目から手へと見方を変えて、繰り返します。
『もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。
体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。』
マタイ福音書 5章29&30章
とても厳しい御言葉ですよね。
夫婦関係をいさめる言葉、『姦淫するな』(同5章27節)、の後に続く御言葉です。
早速の、恥ずかしながらの、私の質問
「つまずきとなる、私の右の目をえぐり出さず、私の右の手を切り捨てなければ、『地獄』に行くってことですよね?」
講師の即答。
「そうです。『地獄』です。 『地獄』に行くとイエスは言います。」 答は単純明快でした。一言だけ。
更に・・・
講師の厳しい言葉が、当然のように、続きました。
「『右の目や右の手』とイエスが話すのは、いつものイエスの手口です。 比喩を言っているのです。」
「『右の目や手』は、あなたが話す言葉。でもあります。 夫婦間の行い全般 を意味するのです。
結婚した者同士が、相手を傷つける言葉を発しても、その言葉をやめない限り、行き先は『地獄』です。」 と。
講師は、それ以上、何も言わない。 私の顔を見つめるのみです。 「分かったか???」「承知したか???」と言いたげです。
私も、それ以上、何も言えませんでした。 「参りました。その通りです!」 敬服あるのみです
以上。
先回の聖書勉強会の講師の話の一部でした。 非常に厳しい『神の御言葉』の考察でした。 お粗末さまでございます
ちなみに・・・
カトリック教会の教えでは
『地獄は、神が置かれたものではなく、人間の自由と意思の極限の可能性を示しています。
地獄に行く人がどれくらいあるのかは、だれも知りません。
ただ各人、人間の持つ可能性を知り、自己を戒めるべきでしょう。」
カトリック教会のカテキズムより。
人には自由があります。
この世において、どのように考え、どのように振る舞い、どのように生きるかは、一般的には、自由です。
そして・・・
この世でどのように考え振舞い生きるかは、自己の選択です。 この世のままに次の世でも生きることになる。 永遠にこの世のまま。ということのようです。
相楽園の散歩が続きました。
『旧ハッサム住宅』 心暖まる・・・ 『食堂』 と 『Family Room』 国重要文化財
大好きです。 緑の見える窓。 集まる者の笑い声が聞こえる暖かい空間。
これぞ『天国』
イギリス人貿易商・ハッサム氏の自邸として、明治35年建設。
当初は、神戸北野町高台にありました。 イギリス人建設家・Alex.N.ハンセル氏の設計。
昭和38年、相楽園に移築。 神戸における近代洋風建築保存の先駆けとなりました。
単純な私。
直ぐに感動して、動き出します。
ゴールデンウイークは、近年、寝食忘れて、家中の大掃除に当てます。 これが楽しい。大好きです。
一日は庭の大掃除。 一日は夫婦の全衣類の大掃除。 そして 一日は家中の大掃除。
家中の大掃除では・・『旧ハッサム住宅』風に…。 頑張ります
皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。 GWも終盤! すてきな思い出を残して下さいね!