マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

新島襄邸宅

2013-05-25 15:32:57 | 私のこと
     『ハンサムウーマン・新島八重』   
NHK大河ドラマ『八重の桜』。 ご覧になっていますか? 私は大河ドラマが大好きです。 歴史を掘り返すのが面白い。
今回のドラマ主人公は八重。女性です。女性である八重の視点で、世の中を見る。時代を語る。それが今回は面白い。

今日・22日・水曜日。
ドラマ『八重の桜』京都場面。 友人と訪問です。 9時~6時まで。9時間。歩いて歩いて歩きました


まずは・・・
八重の第二の夫・『新島襄の邸宅』 訪問です。

八重と襄が結婚生活を始めた家。 寺町通りに面した  『木戸』

白に茶。 『2色の家』の印象。               
シンプルが、心の清さ、潔さ、高潔、孤高、・・・等。 象徴と見ました。   美しい

    『木戸』    くぐれば・・・ 

2人の終生の住まいです。

お家拝見前に・・・
[新島襄邸宅』。  お2人夫婦の経歴を知らずして拝見するは、もったいない。
ちょいと
新島夫妻の経歴。 (邸宅訪問前に本とネットで調べました)


初めに・・・
新島 襄
1843年(天保14年): 江戸・神田にあった上州安中藩江戸屋敷で、安中藩士・新島民治の子として誕生。 - 1890年(明治23年)。 46年間の人生。
宗教家、教育者。同志社英学校(後の同志社大学)設立。  福澤諭吉らとならび、明治六大教育家の1人。

幕府の軍艦操練所で洋学を学ぶ。
ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書と出会う。 「福音が自由に教えられている国・米国に行く」と決意。  当時は禁止されていた海外渡航を思い立つ。

1864年(元治元年): アメリカ合衆国への渡航を画策。 「快風丸」に乗って開港地の箱館へ。 21歳。
  箱館に潜伏中、当時ロシア領事館付の司祭:ニコライ・カサートキンと出会う。 カサートキンに日本語と日本の書物(古事記)などを教え、聖書を学ぶ。
  自分の弟子になるよう勧めたが、アメリカ行きの意思は変わらず、カサートキンは折れ、坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨や福士卯之吉と共の密航に協力した。
7月17日: 箱館港から米船ベルリン号で脱国。 上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、船中で、船長ホレイス・S・テイラーと交流を持つ。  21歳。
1865年(慶応元年): 7月21日:ボストン着。 ワイルド・ローヴァー号の船主・A.ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学。 22歳。
       (Coffee break。フィリップス・アカデミー卒業生。 1942年:第41代アメリカ合衆国大統領(ジョージ・ブッシュ)。 1964年:第43代アメリカ合衆国大統領(ジョージ・W・ブッシュ)。)

1866年(慶応2年)12月: アンドーヴァー神学校教会で洗礼を受け、キリスト教徒となる。 23歳。
1867年(慶応3年)6月: フィリップス・アカデミーを卒業。  9月:アマースト大学へ進学。 24歳
   
1870年(明治3年): アマースト大学を卒業(理学士)。  日本人初の学士の学位取得。  9月:アンドーヴァー神学校に入学。 27歳。 
1974年(明治7年): 4月4日: アメリカン・ボード日本ミッションの準宣教師に任命される。 31歳。
          7月2日: アンドーヴァー神学校卒業。 
         10月31日:サンフランシスコ出港。  11月26日:横浜帰国。 11月29日:両親と、安中(群馬県)で、10年ぶりの再会。

   日本に戻り・・・
1975年(明治8年):11月29日:高松保実邸を仮教室として『官許同志社英学校』 開設。 生徒8名。  32歳。
1876年(明治9年):1月3日:J.D.デイヴィス宅で、八重と結婚。 32歳。

2人の新婚生活の始まった    『新島襄邸宅』
 
京都初の日本人同士のキリスト教式の結婚式でした。    お2人の心を表す、美しい家でした。


   以後・・・
新島は、キリスト教伝道に励む一方で、同志社女学校の発展や同志社大学設立運動などに、病躯をおして奔走した。
   又・・・
『新島襄邸宅』にくっつけて建設・・・『附属屋』

両親の隠居所。                    両親と若夫婦。助け合って…
江戸藩邸にあった住居に準じて 建てました    幸せな4人の生活が見えるようでした。

1890年(明治23年):1月23日:大磯にて永眠。  46歳。

   以上・・・。
     『新島襄の人生』の振り返りでした。

新島は、46年の人生を、「福音を自由に教える決意」を全うして、帰天しました。

『主は、彼らの心に、御自への畏れを飢え付けられた。
彼らに、御業の偉大さを示すためであった。彼らは、御業の偉大さを宣べ伝え、主なる御名をほめたたえる。』
                                           シラ書 17章8&9節
新島は、若き時に聖書に出会い、聖書を愛し、聖書の御言葉を宣え、聖書に忠実な生涯を全うされました。
  

1907年(明治40年): 八重夫人、『新島襄邸』を同志社に寄付。 以後永眠するまで、42年間、『新島襄邸』に住む。 八重62歳。
1932年(昭和7年): 6月。  八重夫人永眠。  八重87歳。


そして・・・
新島 八重:   『八重は自分で自分の人生を変えた』

     少女時代:『ならぬことはならぬ』

1845年(弘化2年):会津藩の砲術師範であった山本権八の子として誕生。 - 1932年(昭和7年)。87年間の人生。 
     会津の指針:「ならぬことはならぬもの」という強い教えのもと、八重は会津の女として育っていきます。
1865年(慶応元年):但馬出石藩出身で藩校日新館の教授をつとめていた 川崎尚之助と結婚。 尚之助27歳。八重20歳。


ここでも…(Coffee break。  
     八重の最初の夫:川崎尚之助の生涯。 興味ありますよね

川崎尚之助の生涯:
1836年(天保7年)11月 : 父・出石藩の医師・川崎才兵衛の長男として誕生。
長じて後:  江戸に出て、坪井為春らに蘭学、舎密術(化学)を学ぶ。 神田孝平、加藤弘之らと並ぶ屈指の洋学者として知られた。
江戸において: 会津藩の山本覚馬と知己になり、その縁から、会津藩藩校・日新館の蘭学所において蘭学を教授し、鉄砲・弾薬の製造も指導した。
1865年(慶応元年): 山本覚馬の妹・八重と結婚。 尚之助27歳。八重20歳。 
1868年(慶応4年/明治元年): 会津戦争。  八重と共に鶴ヶ城籠城戦に参加。 捕虜となる。
1871年(明治4年):6年間の結婚生活後、離婚。
離婚後の尚之助: 会津松平家の家名存続が許され下北半島に3万石で立藩された斗南藩に移住。 外国商人と米の取引を行うが、訴訟を起こされ・・・
1875年( 明治8年):3月20日: 裁判中の東京で肺炎のため死去。 といわれる。 39歳。 


新島夫人・八重の生涯に戻りまして・・・

     青年時代:『幕末のジャンヌダルク』

会津戦争で自ら銃を持ち最後まで奮戦した八重だが、敗北。多くの仲間と共に故郷を失う。
1868年(慶応4年/明治元年):会津戦争。 断髪・男装し、家芸であった砲術を以て奉仕し、若松城籠城戦で自らもスペンサー銃と刀を持って奮戦。川崎尚之助と一緒に戦う。
         ・・・・会津戦争敗戦後:捕虜となった夫と離ればなれとなり、以降二度と再会しなかった。
1871年(明治4年):6年間の結婚生活後、離婚。  26歳。


    京都時代:『ハンサムウーマン』
:1876年(明治9年): 1月3日。 新島襄と再婚。 31歳。
    封建的風潮の残る中、男女平等を望む八重の生きざまを、夫・新島襄は『ハンサムウーマン』と称し、2人は、文字どうりの二人三脚の人生を歩みます。




1871年(明治4年):離婚。 京都府顧問となっていた実兄・山本覚馬を頼って、上洛。 26歳。
1872年(明治5年):兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となる。 27歳。
   ・・・  その頃。 兄の元に出入りしていた新島襄と知り合う

1875年(明治8年): 10月。 2人は婚約。  襄32歳。八重30歳。

   新島襄の妻の条件
「亭主が『東を向け』と命令すれば三年でも東を向いている東洋風の夫人はご免です。」

  ・・・当時、
新島のキリスト教主義の学校建設を阻止しようと町の僧侶・神官たちが連日のように抗議集会を開き、京都府知事・文部省に嘆願書を提出するなどし圧力をかけていた。
      婚約直後・・・京都府は、突如、八重を 女紅場から解雇。
1876年(明治9年): 1月3日に再婚。  31歳。   


     一人時代:『日本のナイテンゲール』

1890年(明治23年) 新島上永眠。 八重45歳。 八重は日本赤十字社の正会員となる。
1894年(明治27年): 日清戦争。 広島の陸軍予備病院で4ヵ月間篤志看護婦として従軍。
1896年(明治29年): 日清戦争時の功績が認められ、勲七等宝冠章が授与された。 
1904年(明治37年): 日露戦争時には、大阪の陸軍予備病院で、2ヶ月間篤志看護婦として従軍。
   同     : 日露戦争時の功績によって、勲六等宝冠章が授与された。 日本初の女性受賞者。
1928年(昭和3年):  これらの功績により、昭和天皇の即位大礼の際に、銀杯を下賜される。
1932年(昭和7年): 『新島襄邸宅』にて永眠。 86歳。 葬儀は「同志社社葬」として4,000人もの参列者があった。


そこで・・・
ご案内申し上げます   
     『新島襄邸宅』  和に洋を取り入れた作りです。

外観: コロニアル様式を取り入れながらも、すべて真壁作り。
セントラルヒーティング: 冬暖かく。 夏快適に過ごすために…床を高くして風通し良く、屋根の庇を深く設計。
フローリング: 全室板敷き。 今は拝観者で痛むとのことで茣蓙が引いてありました
洋風趣内部: 当初和室なし。 椅子やテーブルの並ぶ居間や応接間。 土間のないダイニングキッチンは特色です。
和風手法:  窓の上の障子欄間。 部屋の間仕切りの襖、箱階段。 等。



『邸宅』を拝見しながら、私…思い出していました。

     『居は気を移す』
孟子・『尽心上』の言葉。  その意味はこんなことかと…『住む場所や環境は人の心に大きな感化を与える』
洋風屋敷の生活は、会津武家女の八重が、全く新しい人生を生きる活路を見い出す 手助けをしたことでしょう。


寺町通に面した、邸の『木戸』をくぐり・・
小道を行くと・・・  『玄関』

正に・・・
新島襄が作った『邸宅』に迎えられた八重。 
    『邸宅』に住む年月が、更に、八重の心を育て、八重の人生を変えていった。 はずです。




玄関を入って右側に・・・    『客間』                        18畳       

多目的にお客を迎えます。           写真右手は、いろいろのソファ。 客を迎える家です。
教室。職員室。会議室。大学設置募金事務室。教会集会室。。。。。


客間の隅は・・
2人の趣味コーナー。   『八重愛用のオルガン』      と        『新島襄収集の石コレクター』
  
オルガンの上には・・『賛美歌』                  米国の石も有り、学術的にも価値あるそうです。
   客間に集まる方がたと。  『賛美の歌を~~』


    緑に囲まれた部屋部屋            客を迎える暖かさに癒されます。
 1,2階の東西南の三面にめぐらせたバルコニー     ゆとりが心を作ります。

壁一面が書棚。8割が洋書の・・     『書斎』

同志社の学生は図書室のように利用していたとのことです。      師の姿からも学ぶ弟子です。

家。調度。家具。 京都市有形文化財に指定されています。  簡素。美しい。

"すてきだな~”
”私も、模様替えを!”  ”今年の夏休みにDIYで頑張ろう!” て。 ね。 私もいろいろ学びます。


居間の隣・・・書斎の隣・・・   『食堂』           
  
むこうに見える客間の会議が終わり・・「お食事をご一緒にいかがですか?」 な~んて。
         八重婦人のお誘いが…聞こえてくるようでした。



夫・新島襄の永眠後・・・・
八重は1階洋間を改造して茶室を作ります。  『寂中庵』


     仲睦まじかった二人
夫亡き後・・・

八重の歌。
  『帰えらさることしれともいくたひか おもひいたしてぬるる袖かな』 八重子

同志社を支えた襄の門人たちとも性格的にそりが合わず、同志社とも次第に疎遠になっていったといいます。

この孤独な状況を支えたのが、女紅場時代に知りあった円能斎。 その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かる。
以後は京都に女性向けの『茶道教室』を開いて自活し、裏千家流を広めることに貢献しました。


はばかりながら・・・
最後に・・・    『洋風トイレ』

板張りの腰掛式トイレ。           日本では初期のものです。
簡素に。しかし 良いものは取り入れて…。         物も心も。


以上:
今日の『八重の桜一日旅』の始まりは、『新島襄邸宅』見学。
新島襄夫妻のお宅をこの目で拝見し、生活ぶりを想像し、2人の生きた道を振り返りまして…。

新島夫妻の生涯は、新島襄の口癖に現れます 『神の宣教』 の生涯でした。 と知りました。
 襄の口癖:『同志社は神の御手にあります。 そのすべては神に任せております。』

旅の終わりに私の心に浮かんだ言葉。
 『居を正す』。 人生の振り返り、そしてこれからの人生を問う 有意義な旅の時間となりました。


皆様!
ご訪問に感謝いたします。長々とお付き合いありがとうございました。 百聞は一見にしかず。旅はいいものですね!