マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

聖書100週間予習 そして 『エマオへの道』  

2019-04-24 15:00:00 | 待降節。クリスマス。降誕節。四旬節。聖週間。復活節。

 4月24日。水曜日。一日中降ったりやんだり。

一日中、明日と明後日の2クラス、『聖書100週間』の予習です。

  
 霧雨の中の・・・  『新緑』
 
                             
2階のMy書斎で勉強中。


明日の範囲は新約聖書:『使徒言行録1章~8章』。明後日の範囲は旧約聖書:『民数記13章~24章』。
   
  新約聖書と旧約聖書を同時に読むので、両者のつながりがよく分かる。
    『これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
     ナザレのイエスこそ、神から遣わされた方です。』使徒言行録2-15

        新約は、旧約の預言の成就である。
・・・と。『神の御計画』の壮大さを、聖書を読むたびに、垣間見ますよね。面白い。

 

そして。


今日は4月24日。復活の水曜日。

 復活の朝に、3人の夫人たち・女性に、御自分を顕現されたイエス様。
 今日は・・・
 復活の翌日に、『エマオへの道』を歩む2人の弟子・男性に、御自分を顕現されるイエス様です。


『今日の福音 イエスの顕現


   『ちょうどこの日は週の初めの日であったが、
二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン(11,1㎞)離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
       
この一切の出来事について話し合っていた。

    話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、
 
 『エマオへの道』              ロバート・ズント作品

           一緒に歩き始められた。
    
しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

  イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。
      二人は暗い顔をして立ち止まった。
       
その一人のクレオパという人が答えた。
「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

    イエスが、「どんなことですか」と言われると、
      二人は言った。
   ナザレのイエスのことです。
   この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
 
それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、

    十字架につけてしまったのです。
 
わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。

    しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。

    ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。
    婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。
  そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。

      仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、
   婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

 そこで、イエスは言われた。
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
  メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
    そして、
モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

   一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」

   と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

    一緒に食事の席に着いたとき、
 
 エマオのキリスト』             レンブラント作品。ルーヴル美術館

  イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

二人は、
「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、
    わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

   そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、
  十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。

二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。』
         ルカ福音書 24章13-35節 

 

     『エマオへの道』は、何を意味するのでしょう?

私なりに考えてみました。

 

 イエス様は、最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗うほどに、弟子たちを愛し抜きました。
 弟子たちは、そんなイエスを尊敬し、イエス同様に、イエスを様を愛していたことでしょう。


  エマオへ向かう二人の弟子は、
    尊敬するイエスが殺されたことで、失望し、これから先への希望を失くし、
 悲しみの心で、エルサレムを離れ、それほど遠くではない故郷に帰ろうとしたのでしょう。


 ところが、

   復活したイエスは、
   失望して、エルサレムを離れる弟子たちを、更に愛されたのでしょう。
     二人に、どうしても、ご自分は『生きている』ことを知らせて、
      再び、信仰に燃え、希望を持ってほしかったのでしょう。

そこで。      


   イエス様は、そんな二人の話し合いの中に、割り込んで近づいてきたのです。
しかも。 
    イエスは『やり取りしているその話は何のことですか?』と質問して、
 イエス様は全部ご存知の『事件』を改めて尋ねて、弟子たちに『事件』を振り返させることで、

    二人に『事件の真意』を悟らせよう と意図なさったのではないでしょうか?


     イエスは、
     なぜ、苦しみ:『受難』があるのかを説明なさいました。
モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明されました。

     二人は、
 イエスからもっと話を聞きたかったのでしょう、泊まってくれるように頼みました。
 イエスと共に『食事』をするときに、同歩者はイエスであったと気づきました。

    
    エマオに向かう二人は、
     復活したイエスの話を聞き、復活したイエスと食事を共にして、
           『信仰』ができました。
    現代に生きる私たちも、
     イエスの御言葉を聞き、イエスの体を頂く、ミサにおいて、
   イエスは私たちと共におられ、私たちの『信仰』が強められるのです。

 

二人に、確実な『信仰』が生まれた時に、イエス様は二人の前から姿を消されました。
    イエス様は、安心して、二人の元を離れたのでしょう。


 『信仰』を持つ者に、『見える姿のイエス』はなくてもいいのです。
    『どんな時にも、復活なさったイエス様は共にいてくださる』
   との信仰があるので、イエス様の見えるお姿がなくても大丈夫なのです。


    復活するとは、霊的体に生まれることです。       
   イエス様は、霊的な体で、いつも共にいてくださるのです。

 
時を移さず・・・

   二人の弟子たちは、
   ”イエス様は生きておられる!” との信仰を確信した時に・・・
 時を移さず出発して、弟子の仲間たちに知らせたくて、エルサレムに戻りました。
                                                               時を移さず、信仰生活に戻ったのです!

   
    すると。
十一人とその仲間も集まって、『本当に主は復活してシモンに現れた!』 と言っていたのです。
    二人も、
『道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。』のです。
                           信仰の喜びの分かち合いをしたのです!

 

  『エマオへの道』の二人の姿は、
     私たち信仰者の姿を現しているのではないでしょうか?

 

       つらいこと、悲しいことに直面した時・・・
  私たちは『希望』を失いそうになります。 『信仰』すら揺るぐかもしれません。

      
      私たちは弱い者です。
    日々、『信仰』を強め、『信仰』を更新していくために、
聖書を読みながら『神の御言葉』を聞き、ミサにあずかり『御聖体』を頂くことが必要なのです。
  信仰者同志で、初代の弟子たちのように、『信仰の喜び』を分かち合うことが必要なのです。
     人々に『信仰の証し』をしていくことが、求められるのです。

 

                     以上。つたない私の考えでした。お粗末様です。

 

皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
何事も極めていくには努力が要りますね。でもそれが人生の醍醐味ですね。楽しみましょう。 お元気で!