5月26日。火曜日。曇りのち雨。
学生時代の同窓先輩が、
50歳にして、「建築画家」 に転身。
79歳にして、「西洋建築紀行」 の旅に出た。
「建築紀行」の始まりは、昨年2019年10月9日、79歳、
その①は、 『豊平館(札幌)』 でした。
そして今日・・・ その 『(109)札幌ハリストス正教会』
「西洋建築紀行」 の旅で、西洋建築を描き始めてから、約7ヶ月半。
今日で、その 『西洋建築絵画』は109枚 になりました。
途中から、コロナ災禍事件です。
それでも、 230回の予定の約半分ほどこなされました。
信じられない程の先輩のパワーです。
北海道新聞掲載 2019年10月版記事
『10月9日より北海道新聞朝刊にて、『島口暉生様の画と文による連載』
「西洋建築紀行」 が始まりましたので、ご案内します。
日曜日を除く平日の4〜5回、
全国各地めぐりを20回ほど繰り返し、計230回程の予定です。』
『五島列島 青砂ヶ浦教会』
さすが。 緻密な素晴らしい先輩の絵です。
青砂ヶ浦教会は、 明治12年(1879年)頃、 小さな集会所で出発し、
3代目となる現在の聖堂は、 明治43年(1910年)、 に完成しました。
懐かしい・・・ 私も訪問しました
友人と。 2019年巡礼時に
1614年~1873年の『禁教令』下で、259年間、キリスト教が弾圧されていたので
隠れて信仰していた 『潜伏キリシタン』 の人々の信仰の証しである五島の教会です。
私の同窓先輩は
1940年、札幌生まれ。
東京で法学を学んだ後、札幌に帰郷。
親の後を継いで会社社長の傍ら、
函館などの西洋建築の細密な絵を描き始め、
1990年、50歳にして、『建築画家』 に転身しました。
そして、昨年晩秋、79歳にして、「西洋建築紀行」 の旅に出たのです。
先輩は、 絵画人生の集大成なのか? 人生の集大成なのか? 一歩、歩み出されました。
自宅と紀行先を20回往復して、一回に11~12枚描いて、230枚の「西洋建築」を描く予定のようです。
五島列島・奈藦湾を見下ろす高台に厳かに・・・ 『青砂ヶ浦教会』
2019年巡礼時に
同窓先輩画家は、 新しい『紀行画』の写真に 『手紙』を添えて、 メールで同窓の友人一人に送る。
その友人は、 7ヶ月半の間、更に、 その友人たち、私にも 『西洋建築紀行』 を送ってくる。
同窓先輩の絵に向かうバイタリティー と 半世紀にわたって続く同窓の友情
この二つから学ぶ 『人間の持つ無限の可能性』 に、感動する私なのです。
そして。
今日は5月26日。復活節第七火曜日。
『聖フィリポ・ネリ司祭 記念日』
1515年。 イタリアのフィレンツェで、公証人の父と貴族階級の母の4人兄弟姉妹の長男として生まれる。
17歳。 ドミニコ会がの学校で教育を受けた後、富裕な商人・伯父・ロモロ家を継ぐべく、養子に出される。
18歳。 商売を学びつつも、 自分の一生をいかに生きるべきか悩み、 教会に通う日々が続く。
そこで、 神への祈りに生きるべきであると確信し、 ローマに出た。
聖アウグスチノ修道会にて学びつつ、青少年のために働き、
病気に苦しむ貧者を助ける団体を作った。
後に、 修道院での勉強に終止符を打ち、カタコンベで独り祈り、奉仕生活を始める。
29歳。 聖セバスチャンのカタコンベにて、宣教活動を始める。
信徒たちの集まりを組織し、教会の小祈祷所(オラトリオ)で集会を持ち、
ともに、病院や救貧院に奉仕に出かけた。
1551年。36歳。 司祭の叙階。
司祭となったフィリッポ・ネリは、信徒としてオラトリオで行っていた宣教活動を、
さらに規模を拡大して進めていく。
信仰生活についての講話、宗教音楽、慈善事業が行われる集会を組織した。
それは、集まった集会から「オラトリオ」と呼ばれるようになり、
『オラトリオ会』 に発展した。
フィリポ・ネリ司祭は、 隣人愛、福音的な単純さ、喜びにあふれる神への奉仕、 に秀でていた。
1595年。79歳。 死の当日まで祈りとミサを奉げることに専念し、 穏やかにこの世を去った。
喜びの聖人、 ローマの第2の使徒、 と称される。
『毎日の読書』 より
私たちは、 学校の先輩や教師、 そして 信仰の先人たち、
多くの皆様の生き様から、学び、教えられ、 『自分の道』 を完成していくものなのでしょう。
『今日の入祭唱』
『主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。』
ルカ福音書 4章8節
次に。
使徒パウロ から学びます
『今日の第一朗読 パウロの言葉』
『その日、 パウロは ミレトスからエフェソに人をやって、 教会の長老たちを呼び寄せた。
長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。
「アジア州に来た最初の日以来、
わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。
すなわち、
自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、
また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、
主にお仕えしてきました。
役に立つことは一つ残らず、
公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。
神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、
ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。
そして今、 わたしは、〝霊〟 に促されてエルサレムに行きます。
そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。
ただ、 投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、
聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。
しかし、 自分の決められた道を走りとおし、
また、
主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、
この命すら決して惜しいとは思いません。
そして今、 あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。
わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。
だから、 特に今日はっきり言います。
だれの血についても、わたしには責任がありません。
わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。」』
使徒言行録 20章17-27節
パウロは、 次のエルサレムに向かう前に、 エフェソ教会の長老たちに、 別れを告げます。
『皆様に、もう二度とお目にかかることはないでしょうと、分かっています。
私は、 あなた方の地で、 『神の計画』 のすべてを
ひるむことなく、すべての人に、伝えました。
私は、 あなた方の地で、『自分の道』:『宣教の道』 を、
たとえ私の命を失うことがあっても、それを惜しいとは思わずに、走り通しました。
そこで。
私の話を聞いて、 それを信じるか否か? 新しい命を得るか否か?
その責任は、私にはありません。』
使徒パウロは、 『自分の道』:『宣教の道』 を見つけ、命がけで、前に進みます。
確信がなく、迷いがあっては、できることではありません。
パウロは何回も命を奪われそうになっても、
迷いませんでした。 ひるみませんでした。 ぶれませんでした。
最後に。
パウロは、 エフェソの教会の長老たちに、 『言葉』 をかけて励まし、
お別れの挨拶を終えました。
『「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。
わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い出して、
目を覚ましていなさい。
そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。」
このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。
人々はパウロを船まで見送りに行った。』
使徒言行録 20章28-38節 参照
私たちも、 『我が道』 を歩むとき、
”これで良かったのだろうか?” と不安がよぎりますよね。
パウロが言うように、 ”私は成すべき事をなしました”
『人事を尽くして天命を待つ』
できる限りのことをしたら、 あとは焦らずに、 その結果は
『神(御父)とその恵みの言葉(イエス)にゆだね』 ればいいのでしょう。
『今日の集会祈願』
『救いの源である神よ、
あなたを信じて従う者を、 聖徳の輝きで高めてください。
フィリポ・ネリを燃やした同じ聖霊の火が、 わたしたちの中に燃え上がりますように。』
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
世界中の人々が、『我が道』と信じる道を歩むことができる、そんな世界実現のために祈りたいものです。
どなたにも、人生は一回。 すべての人生は 『貴重な人生』 ですからね。 お元気で!
学生時代の同窓先輩が、
50歳にして、「建築画家」 に転身。
79歳にして、「西洋建築紀行」 の旅に出た。
「建築紀行」の始まりは、昨年2019年10月9日、79歳、
その①は、 『豊平館(札幌)』 でした。
そして今日・・・ その 『(109)札幌ハリストス正教会』
「西洋建築紀行」 の旅で、西洋建築を描き始めてから、約7ヶ月半。
今日で、その 『西洋建築絵画』は109枚 になりました。
途中から、コロナ災禍事件です。
それでも、 230回の予定の約半分ほどこなされました。
信じられない程の先輩のパワーです。
北海道新聞掲載 2019年10月版記事
『10月9日より北海道新聞朝刊にて、『島口暉生様の画と文による連載』
「西洋建築紀行」 が始まりましたので、ご案内します。
日曜日を除く平日の4〜5回、
全国各地めぐりを20回ほど繰り返し、計230回程の予定です。』
『五島列島 青砂ヶ浦教会』
さすが。 緻密な素晴らしい先輩の絵です。
青砂ヶ浦教会は、 明治12年(1879年)頃、 小さな集会所で出発し、
3代目となる現在の聖堂は、 明治43年(1910年)、 に完成しました。
懐かしい・・・ 私も訪問しました
友人と。 2019年巡礼時に
1614年~1873年の『禁教令』下で、259年間、キリスト教が弾圧されていたので
隠れて信仰していた 『潜伏キリシタン』 の人々の信仰の証しである五島の教会です。
私の同窓先輩は
1940年、札幌生まれ。
東京で法学を学んだ後、札幌に帰郷。
親の後を継いで会社社長の傍ら、
函館などの西洋建築の細密な絵を描き始め、
1990年、50歳にして、『建築画家』 に転身しました。
そして、昨年晩秋、79歳にして、「西洋建築紀行」 の旅に出たのです。
先輩は、 絵画人生の集大成なのか? 人生の集大成なのか? 一歩、歩み出されました。
自宅と紀行先を20回往復して、一回に11~12枚描いて、230枚の「西洋建築」を描く予定のようです。
五島列島・奈藦湾を見下ろす高台に厳かに・・・ 『青砂ヶ浦教会』
2019年巡礼時に
同窓先輩画家は、 新しい『紀行画』の写真に 『手紙』を添えて、 メールで同窓の友人一人に送る。
その友人は、 7ヶ月半の間、更に、 その友人たち、私にも 『西洋建築紀行』 を送ってくる。
同窓先輩の絵に向かうバイタリティー と 半世紀にわたって続く同窓の友情
この二つから学ぶ 『人間の持つ無限の可能性』 に、感動する私なのです。
そして。
今日は5月26日。復活節第七火曜日。
『聖フィリポ・ネリ司祭 記念日』
1515年。 イタリアのフィレンツェで、公証人の父と貴族階級の母の4人兄弟姉妹の長男として生まれる。
17歳。 ドミニコ会がの学校で教育を受けた後、富裕な商人・伯父・ロモロ家を継ぐべく、養子に出される。
18歳。 商売を学びつつも、 自分の一生をいかに生きるべきか悩み、 教会に通う日々が続く。
そこで、 神への祈りに生きるべきであると確信し、 ローマに出た。
聖アウグスチノ修道会にて学びつつ、青少年のために働き、
病気に苦しむ貧者を助ける団体を作った。
後に、 修道院での勉強に終止符を打ち、カタコンベで独り祈り、奉仕生活を始める。
29歳。 聖セバスチャンのカタコンベにて、宣教活動を始める。
信徒たちの集まりを組織し、教会の小祈祷所(オラトリオ)で集会を持ち、
ともに、病院や救貧院に奉仕に出かけた。
1551年。36歳。 司祭の叙階。
司祭となったフィリッポ・ネリは、信徒としてオラトリオで行っていた宣教活動を、
さらに規模を拡大して進めていく。
信仰生活についての講話、宗教音楽、慈善事業が行われる集会を組織した。
それは、集まった集会から「オラトリオ」と呼ばれるようになり、
『オラトリオ会』 に発展した。
フィリポ・ネリ司祭は、 隣人愛、福音的な単純さ、喜びにあふれる神への奉仕、 に秀でていた。
1595年。79歳。 死の当日まで祈りとミサを奉げることに専念し、 穏やかにこの世を去った。
喜びの聖人、 ローマの第2の使徒、 と称される。
『毎日の読書』 より
私たちは、 学校の先輩や教師、 そして 信仰の先人たち、
多くの皆様の生き様から、学び、教えられ、 『自分の道』 を完成していくものなのでしょう。
『今日の入祭唱』
『主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。』
ルカ福音書 4章8節
次に。
使徒パウロ から学びます
『今日の第一朗読 パウロの言葉』
『その日、 パウロは ミレトスからエフェソに人をやって、 教会の長老たちを呼び寄せた。
長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。
「アジア州に来た最初の日以来、
わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。
すなわち、
自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、
また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、
主にお仕えしてきました。
役に立つことは一つ残らず、
公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。
神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、
ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。
そして今、 わたしは、〝霊〟 に促されてエルサレムに行きます。
そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。
ただ、 投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、
聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。
しかし、 自分の決められた道を走りとおし、
また、
主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、
この命すら決して惜しいとは思いません。
そして今、 あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。
わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。
だから、 特に今日はっきり言います。
だれの血についても、わたしには責任がありません。
わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。」』
使徒言行録 20章17-27節
パウロは、 次のエルサレムに向かう前に、 エフェソ教会の長老たちに、 別れを告げます。
『皆様に、もう二度とお目にかかることはないでしょうと、分かっています。
私は、 あなた方の地で、 『神の計画』 のすべてを
ひるむことなく、すべての人に、伝えました。
私は、 あなた方の地で、『自分の道』:『宣教の道』 を、
たとえ私の命を失うことがあっても、それを惜しいとは思わずに、走り通しました。
そこで。
私の話を聞いて、 それを信じるか否か? 新しい命を得るか否か?
その責任は、私にはありません。』
使徒パウロは、 『自分の道』:『宣教の道』 を見つけ、命がけで、前に進みます。
確信がなく、迷いがあっては、できることではありません。
パウロは何回も命を奪われそうになっても、
迷いませんでした。 ひるみませんでした。 ぶれませんでした。
最後に。
パウロは、 エフェソの教会の長老たちに、 『言葉』 をかけて励まし、
お別れの挨拶を終えました。
『「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。
わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い出して、
目を覚ましていなさい。
そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。」
このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。
人々はパウロを船まで見送りに行った。』
使徒言行録 20章28-38節 参照
私たちも、 『我が道』 を歩むとき、
”これで良かったのだろうか?” と不安がよぎりますよね。
パウロが言うように、 ”私は成すべき事をなしました”
『人事を尽くして天命を待つ』
できる限りのことをしたら、 あとは焦らずに、 その結果は
『神(御父)とその恵みの言葉(イエス)にゆだね』 ればいいのでしょう。
『今日の集会祈願』
『救いの源である神よ、
あなたを信じて従う者を、 聖徳の輝きで高めてください。
フィリポ・ネリを燃やした同じ聖霊の火が、 わたしたちの中に燃え上がりますように。』
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
世界中の人々が、『我が道』と信じる道を歩むことができる、そんな世界実現のために祈りたいものです。
どなたにも、人生は一回。 すべての人生は 『貴重な人生』 ですからね。 お元気で!