新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

再び佐村河内守なる者について

2014-03-10 17:07:59 | コラム
彼が騙したのはマスコミではなかったのか:

本10日になっても幾つかの局であの謝罪と銘打った開き直りの会見の凄さを採り上げていた。当方は午後からの予定までに時間があってジムから一旦帰宅した後にTBSでの批判を聞いていた。

私は佐村河内なる者が嘘を言っているとか、謝っていないとかの議論の前に、あれだけの取材の人数とテレビカメラとカメラのフラッシュを浴びながら顔色一つ変えずに時には口先で詫び、質問の途中で答え始めたり、所謂逆ギレの如き言辞を弄したり、新垣氏を嘘つき呼ばわりして名誉毀損で告訴すると開き直るという、百戦錬磨とでも形容したい場慣れというか度胸には恐れ入りながら聞いていた。

当方も多少他人様の前で語る経験があるが、あれほど聴衆を睥睨するかあるいは睨み返し、表情を著しく変えることなく開き直って淀みなく答えられる境地には到底達することは出来なかったと思っている。私には彼はあのような場で何度も語ってきた経験が余程豊富なのかと思わずにはいられなかった。しかも、立ち去った後に言わば筋書きかシナリオに相当する紙を残していったのも意図的ではなかったと疑いたくなってしまった。

私は仮令彼が自分でシナリオを書いて持参したとしても、あれほどスラスラと語って見せたからには、相当な時間をかけて予習してあったか、あるいは誰か彼を操って指導していた陰の主役がいたのではないかとすら考えてしまった。あの新垣氏を悪し様にののリスのは、もしかして彼との間の仲間割れなのか、あるいは何か他に理由か目的があるのかなどは私が考える領域にはないが、あれだけ開き直って言いたい放題に終始した度胸にはあらためて驚かされている。

結果的には、彼に操られたのはあのゴースト・コンポウザーと彼の音楽に騙された一般の方だけではなく、マスコミだったと一層思うようになってしまった。あの会見でも操りきった気がするのだ。

PCは付き合いにくい

2014-03-10 08:02:18 | コラム
私のIT化の歴史:

思い返せば全て偶然の産物と言えるかも知れません。

私は1990年の春頃から旧知の業界の専門出版社S社の編集長さんに、思いがけず「好きな話題を選んで結構だからエッセーの連載を」と依頼されたのです。何故私なのか解らないままに怖いもの見たさで何の経験もない私が無謀にも引き受けてしまいました。そこから私の物書きの真似事が始まった次第。この専門誌は月2回の発行で同社から支給された原稿用紙に鉛筆で手書きをしていました。ワープロはあった時期ですし、記者たちは使っていました。だが、使いたければ自費負担になるので投資を回避しました。それほど長く続く仕事とは思っていませんでしたから。

1994年のW社リタイヤー後もこの連載は続きましたので、他の方面から頂くようになった仕事も含めて一切手書きで過ごしました。S社以外からの仕事も頂くようになって書くことが増えていました。それを見た周囲の方が「それだけ書くのならばPCを導入したら」と勧められても「リタイヤー生活である以上投資の意思はない」と拒否していました。

しかも、95年からはS社の契約ライターになり、同時期にはアメリカ政府からの紙輸入の圧力が高まったこともあって「日米紙パルプ業界の文化の違い」と「如何にして輸入紙の時代に備えるべきか」との話題を中心にした講演の仕事が増えました。だが、これらの準備の為の原稿もレジュメも、強がって全て手書きで提出して先方様にPC用に変換して頂いて済ませました。

確か1995年の半ば頃と記憶しますが、愚息が不要として置いていったワープロで遊びで書いた原稿を見た紙業タイムス社の企画本部長から「ワープロが使えるならば是非これでやって貰いたい」と要請され、フロッピーディスクを毎回届ける形に変更しました。ワープロが使えたのは戦後直ぐに英語で話すことを仕込んで頂いたGHQの秘書の方に、英文タイプを打てるように教育されていたので、40年以上もブランクがあってもローマ字入力が出来たのです。

S社には結果的に10年間、月2回の連載を続け、2000年5月で契約終了となりました。即ち、収入を伴う原稿書きは終わって、従来から好みだった「コラム」というか「エッセー」を趣味程度に気ままに書いていました。だが。1997年からは某商社で販売促進や社員教育用のお手伝いをすることになり、そこで使用する資料はワープロで書いていました。最早、誰からもPC導入を言われなくなって「アナログ世代」を謳歌していました。しかし、連絡を取り合う必要上、携帯電話は97年に購入していました。

また、1996年から思いがけないご縁で始まったラジオのコメンテーターの仕事は自分でシナリオを書くのでしたが、これも当初はワープロで仕上げてFAXで送信し、ディレクターさんに内容の検討をお願いしていました。これは後にPCに切り替えましたが。


しかし、2003年10月に突如としてS社の週刊誌版の編集長から海外ニュースの翻訳を長年引き受けていた方が大病で入院され穴があくので、何とかその日から助けて欲しいと依頼がありました。大恩ある会社の編集長さん苦境なので引き受ける決断をしました。彼は以前からPC導入をと迫っていた人でした。ところが、原稿を貰って帰宅した途端に、ワープロの寿命が尽きたのか動かなくなってしまったのです。

編集長は「待ったなしです」と、私をビックカメラに連れてい行ってプリンタとともに購入させられました。私はこの期に及んで10数万円も投資する気はないと断ったのですが、その負担は原稿料で直ぐ賄えると説得されて納得してしまったのです。この時は前任の方が回復されれば終わると思っていました。しかし、結局辞任されてしまったので私の仕事になってしまいました。

愚息もPC導入すべし派だったので、喜んで全てを指導して協力してくれました。即ち、私はPCが何であるかも知らず、買ったその日からワードで原稿を書いてEmailの添付ファイルで送るという生活が始まったのです。これは手探りだの何のという次元ではなく、大苦戦と大混乱の連続でした。そこて、問題が出るや否や全ては編集長と愚息と知り合いの旧知のメーカーのシステムの権威に電話をしまくってお助け頂いている日々でした。

そして、1台目の東芝製ノートブック型は3年も保たずに動かなくなって富士通のデスクトップに入れ替えて、今日の3台目のWindows 8に至りました。その間にエキスパートのS氏にも数え切れないくらいの回数でお助け願ってきました。本来はPCの使い方を基本から勉強すべきだとは承知していましたが、何か勉強しようにも毎週の不馴れな英文和訳の仕事では中々時間の余裕が出てこないし、他にもやるべきこととやりたいことも沢山あって、何か問題が発生する度に多くの方にお助け願って、その都度何とか局面を打開してきました。

ここまでは言い訳の羅列ですが、緊急の場面に不馴れなPCを持って登場し、言うなれば"OJT"(=on the job training)で何とか切り抜けてきたのが、私とPCの短い付き合いの歴史です。確かに苦しみと悩み多き11年間でしたが、Emailを使えば多くの友人知己との連絡も取れるし、海外の元の上司・同僚・友人たちとの交流が出るのは誠に便利で有り難い文明の利器であるとの事実は認めますし、導入の機会を与えて下さった編集長さんには感謝しておりますし、これまでお助け頂いたS氏他のPCの権威者にはこの場を借りて御礼申し上げます。