本当に必要か必要に迫られた人だけが本格的に学べば良いのでは:
昨6日は幼馴染みである共同通信OBのMN氏と懇談した。N氏は二校の有名私立大学で「英字新聞の読み方」の講義をしておられた経験もおありの英語の権威者である。94年にN氏と53年振りに劇的な再会を果たして以来、交流が続いている間柄だ。この劇的な切っ掛けを語れば興味深い内容になるだろうが、そこを語るのか本稿の主旨ではない。
N氏との懇談には多くの話題があったが、中でも共通の話題ではサッカー以上に時間を割いたのが「我が国の英語教育」だった。N氏は「本当に職業ないしは留学や英語圏の国に移住する人には本格的に必要になることだから、そういう方々はその目的と必要性相応しい学び方と教え方をする必要があるが、それ以外の人にTOEICだの何のと言って無理に押し付けることに意義はないのではないか」と指摘された。これは私の年来の主張と同じであり、全く異存がなかった。
私は「私のように(思いもかけなかった事情があって)アメリカ人の会社に転身した者にとっては英語で読み書きが十分に出来て、如何なる訛でも聞き取れて理解出来て、英語で自己を表現する力があり、討論と討議の力があることは当然すぎることで、会社での評価の対象にはなり得ないのである。
そういう職業上の必需品となっている場合や、アメリカの大学等でマスターなり博士号を取得する研究者にとっては深く追求して英語を学び、外国人というか native speaker にも劣らない力が必要であることは論を待たない。これらに該当しない多くの日本人と学生や生徒たちに我が国独特の『科学としての英語』と『受験対策としての英語』を押し付けているかの如くに見える英語教育には疑問が多すぎると」と考えている。
N氏もこの「受験用」が主体である英語教育の成果が、今日のアジアは言うに及ばす世界でも最低水準にある外国語、就中英語教育に見出されると指摘された。これも当方の主張と、屡々採り上げる仏文学者のTK博士の見解と全く同じなのだ。我々二人の間で結論というか解決法を導き出すまでに至らなかったが、マスコミ人にこういう厳しい見解を持っておられる方がおられたのは大いに心強かった。
N氏はさらに「英語が果たして我が国の全員にとって必要なのか。必ずしもそうとは限らないのではと考えている」とも指摘された。詳細は措くとしても、これも私の年来の主張と同じだ。
そこに「頂門の一針」の3328号にチェンマイ在住の谷口潤二氏が以下のように投稿しておられたのも結構なことだと痛感している。
>引用開始
必要のない英語を子どもの頃から強制するよりは、それぞれの子どものためになる教科を増やし、英語に興味を示している子どもたちに対してそれを伸ばす方針を見出す方が不透明である「英語力」がはっきりしてくるように思います。
>引用終わる
全く異論はないご意見だ。
なお、谷口氏は某有名予備校講師の言を引用しておられたが、私は予備校こそが受験英語と対策を教えているもので、些か違和感があった。TK博士は予備校で英語の講座も担当されているが、ある時英語の一般論を語ったところ、受講生と学校側から「無駄なことに貴重な時間を費やさないように」と厳重注意されたとか。当然のようではあるが、我が国の英語教育の問題点を描き出している気がする。
余談かも知れないが、一部の大手企業では「英語で論旨を構築し、外国の会社との重大な折衝で相手を納得させる能力があることと、TOEICの点数との関連性が極めて低い」と認識されているとの報道がある。何のための英語教育を考え直す時期が来ているのではないか。「そういう時期が誰のところに来ているのか」は言うまでもないことだ。
昨6日は幼馴染みである共同通信OBのMN氏と懇談した。N氏は二校の有名私立大学で「英字新聞の読み方」の講義をしておられた経験もおありの英語の権威者である。94年にN氏と53年振りに劇的な再会を果たして以来、交流が続いている間柄だ。この劇的な切っ掛けを語れば興味深い内容になるだろうが、そこを語るのか本稿の主旨ではない。
N氏との懇談には多くの話題があったが、中でも共通の話題ではサッカー以上に時間を割いたのが「我が国の英語教育」だった。N氏は「本当に職業ないしは留学や英語圏の国に移住する人には本格的に必要になることだから、そういう方々はその目的と必要性相応しい学び方と教え方をする必要があるが、それ以外の人にTOEICだの何のと言って無理に押し付けることに意義はないのではないか」と指摘された。これは私の年来の主張と同じであり、全く異存がなかった。
私は「私のように(思いもかけなかった事情があって)アメリカ人の会社に転身した者にとっては英語で読み書きが十分に出来て、如何なる訛でも聞き取れて理解出来て、英語で自己を表現する力があり、討論と討議の力があることは当然すぎることで、会社での評価の対象にはなり得ないのである。
そういう職業上の必需品となっている場合や、アメリカの大学等でマスターなり博士号を取得する研究者にとっては深く追求して英語を学び、外国人というか native speaker にも劣らない力が必要であることは論を待たない。これらに該当しない多くの日本人と学生や生徒たちに我が国独特の『科学としての英語』と『受験対策としての英語』を押し付けているかの如くに見える英語教育には疑問が多すぎると」と考えている。
N氏もこの「受験用」が主体である英語教育の成果が、今日のアジアは言うに及ばす世界でも最低水準にある外国語、就中英語教育に見出されると指摘された。これも当方の主張と、屡々採り上げる仏文学者のTK博士の見解と全く同じなのだ。我々二人の間で結論というか解決法を導き出すまでに至らなかったが、マスコミ人にこういう厳しい見解を持っておられる方がおられたのは大いに心強かった。
N氏はさらに「英語が果たして我が国の全員にとって必要なのか。必ずしもそうとは限らないのではと考えている」とも指摘された。詳細は措くとしても、これも私の年来の主張と同じだ。
そこに「頂門の一針」の3328号にチェンマイ在住の谷口潤二氏が以下のように投稿しておられたのも結構なことだと痛感している。
>引用開始
必要のない英語を子どもの頃から強制するよりは、それぞれの子どものためになる教科を増やし、英語に興味を示している子どもたちに対してそれを伸ばす方針を見出す方が不透明である「英語力」がはっきりしてくるように思います。
>引用終わる
全く異論はないご意見だ。
なお、谷口氏は某有名予備校講師の言を引用しておられたが、私は予備校こそが受験英語と対策を教えているもので、些か違和感があった。TK博士は予備校で英語の講座も担当されているが、ある時英語の一般論を語ったところ、受講生と学校側から「無駄なことに貴重な時間を費やさないように」と厳重注意されたとか。当然のようではあるが、我が国の英語教育の問題点を描き出している気がする。
余談かも知れないが、一部の大手企業では「英語で論旨を構築し、外国の会社との重大な折衝で相手を納得させる能力があることと、TOEICの点数との関連性が極めて低い」と認識されているとの報道がある。何のための英語教育を考え直す時期が来ているのではないか。「そういう時期が誰のところに来ているのか」は言うまでもないことだ。