1人足りないギリシャと引き分けとは情けない:
我が代表のこの不甲斐ない引き分けで、1951~54年までの4年間にノンビリとサッカーをして過ごした関東大学リーグ4部の頃を思い出さされた。今は関東の大学リーグは組織が変わって2部までしかないようになっていると思うが、当時は確かこの最後の部にも8校が所属していた。ほとんどの大学は高校でのサッカー経験者が数名しかおらず、中には高校の頃からの顔見知りもいたが、失礼を顧みずに言えば経験者に素人が参加して懸命にサッカーを楽しんでいたかの感が深かった。
ここでは4年間に何度か経験したことは、来るべき審判が何時まで待っても現れずに、先に試合が終わった大学から誰かが居残って笛を吹いた長閑なリーグ戦だった辺りだ。私も止むを得ずに1~2試合主審を務めたが、どういう連絡体制が整っていたか知らないままに、翌週辺りに審判料を頂けた記憶もあった。何と有り難いアルバイトだった。
今回思い出したことは、当時の我が大学にも未経験者が数人いたものだった。そして、時にはチャンと連絡してあったにも拘わらず、試合当日に11人集まらないことが何度もあった。当時は確か員数不足で公式戦がなりたると思い込んでいたのか、審判員は試合開始を宣言したものだった。ある年には我が大学では、11人揃った試合が全敗で、10人か9人では負けなかったことすらあった。
それをあの対ギリシャ戦の引き分けで思い出したのだった。誤解されないように申し上げておくと、人数が少ないから必死に守って数少ないチャンスをものにして勝った訳ではなかったのだ。あれから55年以上も経ったから時効だと思って回顧すれば、当時の司令塔役だった私の視界にはボールを持った瞬間には何処に誰がいるかが入ってくるので、その誰かが未経験者であっても「そこにパスを出せば何とかしてくれるだろう」と、つい閃いてパスを出してしまい、かえって敵に奪われてチャンスを失う結果に終わるのだった。
しかし、人数不足の場合にそういう者が不在なことが多く、安心してパスを出せる少数精鋭だけで試合を進行出来たのだった。「自分だけが上手いような偉そうなことを言うな」と批判されそうだが、これこそが紛う方なき事実だったのだ。いや、人数不足だといいう意識があれば、未経験者も奮起してくれてゲームの組み立てに手を貸してくれたのだった。
当時のことは今となってはうろ覚えだが、4部まであって各部に8大学が所属していたのだったと思う。ならば全関東で32大学にしかサッカー部がなかったことになってしまう。その通りだったとすれば、現在のサッカーの普及を思えばまさに隔世の感がある。しかも、ゥワールドカップにも5回も連続して出場する世界の上位50ヶ国に以内に入っているのだ。折角此処まで来たのだから、最後のコロンビア戦は何とかして貰いたいものだ。
インターネットのニュースでは協会の原専務理事がザケローニ監督と急遽会談するとしたとか。手遅れではないかな。
我が代表のこの不甲斐ない引き分けで、1951~54年までの4年間にノンビリとサッカーをして過ごした関東大学リーグ4部の頃を思い出さされた。今は関東の大学リーグは組織が変わって2部までしかないようになっていると思うが、当時は確かこの最後の部にも8校が所属していた。ほとんどの大学は高校でのサッカー経験者が数名しかおらず、中には高校の頃からの顔見知りもいたが、失礼を顧みずに言えば経験者に素人が参加して懸命にサッカーを楽しんでいたかの感が深かった。
ここでは4年間に何度か経験したことは、来るべき審判が何時まで待っても現れずに、先に試合が終わった大学から誰かが居残って笛を吹いた長閑なリーグ戦だった辺りだ。私も止むを得ずに1~2試合主審を務めたが、どういう連絡体制が整っていたか知らないままに、翌週辺りに審判料を頂けた記憶もあった。何と有り難いアルバイトだった。
今回思い出したことは、当時の我が大学にも未経験者が数人いたものだった。そして、時にはチャンと連絡してあったにも拘わらず、試合当日に11人集まらないことが何度もあった。当時は確か員数不足で公式戦がなりたると思い込んでいたのか、審判員は試合開始を宣言したものだった。ある年には我が大学では、11人揃った試合が全敗で、10人か9人では負けなかったことすらあった。
それをあの対ギリシャ戦の引き分けで思い出したのだった。誤解されないように申し上げておくと、人数が少ないから必死に守って数少ないチャンスをものにして勝った訳ではなかったのだ。あれから55年以上も経ったから時効だと思って回顧すれば、当時の司令塔役だった私の視界にはボールを持った瞬間には何処に誰がいるかが入ってくるので、その誰かが未経験者であっても「そこにパスを出せば何とかしてくれるだろう」と、つい閃いてパスを出してしまい、かえって敵に奪われてチャンスを失う結果に終わるのだった。
しかし、人数不足の場合にそういう者が不在なことが多く、安心してパスを出せる少数精鋭だけで試合を進行出来たのだった。「自分だけが上手いような偉そうなことを言うな」と批判されそうだが、これこそが紛う方なき事実だったのだ。いや、人数不足だといいう意識があれば、未経験者も奮起してくれてゲームの組み立てに手を貸してくれたのだった。
当時のことは今となってはうろ覚えだが、4部まであって各部に8大学が所属していたのだったと思う。ならば全関東で32大学にしかサッカー部がなかったことになってしまう。その通りだったとすれば、現在のサッカーの普及を思えばまさに隔世の感がある。しかも、ゥワールドカップにも5回も連続して出場する世界の上位50ヶ国に以内に入っているのだ。折角此処まで来たのだから、最後のコロンビア戦は何とかして貰いたいものだ。
インターネットのニュースでは協会の原専務理事がザケローニ監督と急遽会談するとしたとか。手遅れではないかな。