新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

公明党は何を考えているのやら

2014-06-19 13:03:27 | コラム
公明党は真の与党か?

集団的自衛権の閣議決定が延期になる模様と報じられている。公明党は連立から離脱はしないと言いつつも、あの訳の解らない粘り方だ。彼等は中国機が我が国の飛行機に絡んできている事態を何と考えているのだろうか。中国の意図は明白すぎるほど明白で、これに対応するためにはどうするべきか。これは個別的か集団的かなどを論じる前に「如何にして国を守るのか」という問題ではないか。

その事態を目の前にして公明はまるで朝日新聞の手先にでもなったのか、あるいはその論陣と反安倍の姿勢に敬服したのか、反対する野党に阿ったのか、高村副総裁が提案した文章の文言にまでけちを付ける姿勢だ。週刊誌には病床にある創価学会池田名誉会長は集団的自衛権に反対していないようではないか。

私はこのような反対のための反対にしか見えない政治的姿勢も問題にしたいが、彼等のために空費された時間が惜しいと言いたい。今世界ではイラク情勢と言い、オバマ大統領に優柔不断さによる国際情勢の不透明な先行きと言い、アメリカFRBの量的金融緩和の縮小と言い、即断即決して対応せねばならない案件が多い。その時に安倍内閣の時間を空費させている責任も重大だろう。

FRBは縮小の理由にアメリカ経済の復調を挙げている。その回復に対して我が国がどのような策を講じていくべきか、と言うかアベノミクスの次ぎの矢は如何にあるべきかに、私は非常に関心がある。変換ミスをすれば「寒心」という字さえ出てくる。為替も¥101~102辺りに止まっているが、アメリカの景気回復が本物ならば、より円安に振れていかないかも気懸かりだ。

公明党さん、世の中には集団的自衛権以外の重要案件はあると先刻ご承知でも、ごてていたのでしょうか。何のためのスタンドプレーですか。

薄れ行くWはサッカーへの関心

2014-06-19 10:55:31 | コラム
W杯サッカーは私の関心を呼び戻せるか:

何も第一戦で我が代表が情けない負け方をしただけのためではないが、今回のW杯サッカーには一向に興味が湧いてこない。以前は世界の名手たちが集う4年に一度の大会ということで、熱心に時間が許す限り中継を見ていた。そこには感心もあれば感動もあったし、感激も落胆と共に怒りもあったものだった。

しかし、今回は何故「さー、ゥワールド・カップのサッカーの試合でも見るか」という気にならないのかを振り返ってみた。その理由の第一は我が国の代表級の者たちが欧州の有名なリーグに出て行ったために、彼等が出る試合の中継があると、そこには世界的な名手が登場するので、そういう連中の凄いプレーや上手さを見馴れてしまって、簡単に感動しなくなってきたことがあった。言うなれば、観戦する有難味がなくなってきたのだった。

例えば、「メッシならばこれくらいやっても当たり前だ」とか、「ナルホド、これがクリスチャーノ・ロナウドか」や「ファン・ペルシーは矢張り上手いな」といった具合で、これまでに知り得た知識の再確認だけに終わるのだ。即ち、何も時間を割いて新たな感動を求めようとする意欲は湧いてこなかった。

要するに、野球の場合の張本勲ほどではないが、私には他国が負けようと勝とうとどうでも良いので、我が代表があの監督の下で何とか予選リーグを勝ち抜いていけるかどうかだけが関心事なのだ。外国の名手たちの質の高いサッカーショーを見たいのではないということだ。その例が、オランダが史上希に見る点差でスペインに勝った試合などは「そう言えば」と気が付いて後半からしか見なかったようなものだ。

そこにあの情けないという言葉以外で形容しようがない我が代表の負け方だったので、余計に興味も関心も薄れてしまった。それにテレビを見れば何処の局でもここを先途と可哀想な御用解説者を集めては希望的なことを言わせ続けているのでは、一層興醒めだ。私は決してギリシャに負けるとは言わないが、あの解説者たちの「言わされ方」を見れば、その背景に如何なる圧力があったかくらいは見当が付く。あーあ、放送権料ではないか。

昨夜もある会合でギリシャ戦の見通しを問われたが、「希望的観測のみで言えば、勝って欲しい」しか言うべき言葉を知らなかった。評論家、解説者にマスコミも皆一様に「気持ちを切り替えて」と言うが、私が知る限りでもそう簡単に切り替わるものではないようだ。私は気持ち云々よりも、皆が奮い立って「我こそは」であるとか「目に物見せてやる」、「ギリシャ何するものぞ」といった気迫を見せて貰いたいと思っている。

責任逃れのパス回しなどせずに「俺がやってやる」といった欧米人的な目立ちたがりの精神も発揮して貰いたい。コートジボアールはどうやら我が代表に対するスカウティングを徹底的にやってきた気配があった。我が代表も190センチを超えるギリシャに対して万全の下準備をしてあることを期待している。もう責任逃れのパス交換をする時ではない。「自分でやってやろう」と思って倒れるまで動き回って主導権を取って勝ってくれ。

「私が嫌う国語を乱すカタカナ語と造語」の連載を終えて

2014-06-19 06:43:54 | コラム
英語と単語は流れの中で覚えよう:

ご承知の方はおられると思うが、今回の連載は2008年にある勉強会で発表してあったものを加筆・訂正し、以前のもの(ここでは「ヴァージョン」等という言葉を使う人がおられるだろう)よりも収録した言葉の数も徐々に増やしておいた。

旧作を見直し且つ書き加えながらあらためて気が付いたことは、「我が国の英語教育で単語を重視し、各段階の試験でそこを狙った問題を出すために、部品としての単語は覚えていたが、実際の文章や会話の流れの中で単語がどのように有機的に結びついていくかがほとんど教えられていなかったことが悲しいほど再確認出来てしまった」のだった。言うなれば、海外で「単語を並べたら通じた」という自己満足のような性質で英語を捉えておられた方が多いのである。

また、あれほど重要視して教えていたはずの英文法の規則というか原則はほとんど活きておらず、複数と単数の違いと女性男性の違いと現在と過去を表現し損なっている造語と合成語が多かった点も目に付いた。私は「音読百編、意自ずから通ず」を信じている。この原則に従って音読を重ねておけば、何時かは「文法的に間違った表現が口から出なくなるもの」なのだ。極めて単純な勉強法だ。

そこを「主語が三人称単数なのだから、次ぎの動詞には"s"を付ける」等というから、そこで主語を再確認する作業に入って迷い自信を失ってしまう事態が発生するのだ。そこで「文法は面倒なり」と無視してカタカナ語を作り出してしまったのだと思っている。要するに、何時も同じことを言うのだが、「科学としての英語」を数学のように教え、英文和訳と解釈、英作文、単語のアクセント等々で束縛し、試験で優劣を付けるような手法に問題があるのではないのか。

その問題点というのは「英語で思うままに自分の意思を表現する方法が身につかなかった」という英語教育の欠陥を指す。いや、欠陥ではなかった、最初からそこを目指して教えていなかったのだから。

しかし、我が国の英語教育に対しては、先頃自分を「少数派」として認めた以上、どう足掻いても現状を変えていくことは不可能だろう。ではあっても、私はこれまでに何度も英語教育改革法を論じてきたし、理解して下さる学者も大学の関係者もおられる。それだけではない、先生方も私と同様に「諸外国の外国語教育が遺憾ながら我が国のそれよりも優れており、実用的でもある」と指摘しておれる。

ここから先は関係官庁や斯界の権威者と認められている方々が「変えていこう」という方向に進まれるかだろうと思う。だが、それも望み薄だと考えている。何故ならば、既に現在の英語教育に携わっておられる方から私の改革案に対して「そのような非現実的で偏った教え方を誰がするのだ」とのご批判を頂戴した。そこに見えてくる問題は、もしも変更というか改革すれば、そう批判された方々の "job security" が問題になってくるということではないか。

読者諸賢は私のカタカナ語批判をどのように受け止められただろうか。「日本語として通用しているから放って置いて良いだろうし、余計な雑音だ」と思われていないかだろう。そこが気懸かりだ。