我が代表の不振の責任は:
私は厳しくザケローニ監督の批判をしてきたが、必ずしも彼一人の問題ではないと解っていた。だが、そうは言ってこなかっただけ。
私は過去に試合での不成績の責任が監督のみにあると捉えられそうなほど批判してきた。そこには勿論、私個人の好き嫌いの要素が入っている。だが、私と言えども心中密かに「責任も原因も選手たちそのものの不出来にもある」と考えていた。ピッチでのミスまで彼は支配出来ないのだ。
もう30年以上の昔のことになってしまっただろうか、日大高校アメリカンフットボール部の監督だった清水之男氏(故人)は「監督の俺が何を言っても、実際に試合をしているのは子供たちだ。幾ら厳しい練習で鍛えてあっても、試合中の子供たちのミスはベンチからでは何ともならないことだ」と言われたことがあったのを思い出した。
結局はそういうことで、監督とコーチが全知全能を傾けて教え込んであっても、いざというときに選手たちがその通りにやってくれなければ如何ともしがたいのである。そうとは承知していても、この度のW杯での不出来は選手たちの問題でもあるが、監督の選手の起用にも疑問があったし、あの行き詰まったところで不馴れな空中戦を挑ませた采配振りでは、彼の責に帰するべきだと判断していた。
マスコミ報道ではザケローニ監督が原専務理事との懇談でも記者会見でも「自分の采配にブレはなかった」と主張していたとなっている。私はこれは「潔く自らの非を認める(謝罪する)文化のない国の人は、仮令自分では責任を認めるべきと解っていても、絶対に公衆の面前で認めることはない」との文化の違いを知らないから報じているだけのことだと言いたい。あの無様な試合振りに彼が自分の責任があると知らぬことはないと確信している。
マスコミもマスコミで、「コロンビアは既にグループリーグ戦を抜けているので、メンバーを落としてくる可能性がある。故に、我が国にも勝利の目がある」等と言っている。それでは我が国の代表は二軍相手なら勝てると言わんばかりではないか。失礼千万である。私には勝敗の行方など読み切れないが「選手たちが平常心で持っているだけのありったけの力を出せれば、自ずと道が開けてくることもある」と考えている。
私は厳しくザケローニ監督の批判をしてきたが、必ずしも彼一人の問題ではないと解っていた。だが、そうは言ってこなかっただけ。
私は過去に試合での不成績の責任が監督のみにあると捉えられそうなほど批判してきた。そこには勿論、私個人の好き嫌いの要素が入っている。だが、私と言えども心中密かに「責任も原因も選手たちそのものの不出来にもある」と考えていた。ピッチでのミスまで彼は支配出来ないのだ。
もう30年以上の昔のことになってしまっただろうか、日大高校アメリカンフットボール部の監督だった清水之男氏(故人)は「監督の俺が何を言っても、実際に試合をしているのは子供たちだ。幾ら厳しい練習で鍛えてあっても、試合中の子供たちのミスはベンチからでは何ともならないことだ」と言われたことがあったのを思い出した。
結局はそういうことで、監督とコーチが全知全能を傾けて教え込んであっても、いざというときに選手たちがその通りにやってくれなければ如何ともしがたいのである。そうとは承知していても、この度のW杯での不出来は選手たちの問題でもあるが、監督の選手の起用にも疑問があったし、あの行き詰まったところで不馴れな空中戦を挑ませた采配振りでは、彼の責に帰するべきだと判断していた。
マスコミ報道ではザケローニ監督が原専務理事との懇談でも記者会見でも「自分の采配にブレはなかった」と主張していたとなっている。私はこれは「潔く自らの非を認める(謝罪する)文化のない国の人は、仮令自分では責任を認めるべきと解っていても、絶対に公衆の面前で認めることはない」との文化の違いを知らないから報じているだけのことだと言いたい。あの無様な試合振りに彼が自分の責任があると知らぬことはないと確信している。
マスコミもマスコミで、「コロンビアは既にグループリーグ戦を抜けているので、メンバーを落としてくる可能性がある。故に、我が国にも勝利の目がある」等と言っている。それでは我が国の代表は二軍相手なら勝てると言わんばかりではないか。失礼千万である。私には勝敗の行方など読み切れないが「選手たちが平常心で持っているだけのありったけの力を出せれば、自ずと道が開けてくることもある」と考えている。