新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

W杯での成績不振の責任は何処に

2014-06-22 17:13:09 | コラム
我が代表の不振の責任は:

私は厳しくザケローニ監督の批判をしてきたが、必ずしも彼一人の問題ではないと解っていた。だが、そうは言ってこなかっただけ。

私は過去に試合での不成績の責任が監督のみにあると捉えられそうなほど批判してきた。そこには勿論、私個人の好き嫌いの要素が入っている。だが、私と言えども心中密かに「責任も原因も選手たちそのものの不出来にもある」と考えていた。ピッチでのミスまで彼は支配出来ないのだ。

もう30年以上の昔のことになってしまっただろうか、日大高校アメリカンフットボール部の監督だった清水之男氏(故人)は「監督の俺が何を言っても、実際に試合をしているのは子供たちだ。幾ら厳しい練習で鍛えてあっても、試合中の子供たちのミスはベンチからでは何ともならないことだ」と言われたことがあったのを思い出した。

結局はそういうことで、監督とコーチが全知全能を傾けて教え込んであっても、いざというときに選手たちがその通りにやってくれなければ如何ともしがたいのである。そうとは承知していても、この度のW杯での不出来は選手たちの問題でもあるが、監督の選手の起用にも疑問があったし、あの行き詰まったところで不馴れな空中戦を挑ませた采配振りでは、彼の責に帰するべきだと判断していた。

マスコミ報道ではザケローニ監督が原専務理事との懇談でも記者会見でも「自分の采配にブレはなかった」と主張していたとなっている。私はこれは「潔く自らの非を認める(謝罪する)文化のない国の人は、仮令自分では責任を認めるべきと解っていても、絶対に公衆の面前で認めることはない」との文化の違いを知らないから報じているだけのことだと言いたい。あの無様な試合振りに彼が自分の責任があると知らぬことはないと確信している。

マスコミもマスコミで、「コロンビアは既にグループリーグ戦を抜けているので、メンバーを落としてくる可能性がある。故に、我が国にも勝利の目がある」等と言っている。それでは我が国の代表は二軍相手なら勝てると言わんばかりではないか。失礼千万である。私には勝敗の行方など読み切れないが「選手たちが平常心で持っているだけのありったけの力を出せれば、自ずと道が開けてくることもある」と考えている。

「私が嫌う国語を乱すカタカナ語と造語」へのご質問とその答え

2014-06-22 14:32:37 | コラム
プラットフォームその他:

「頂門の一針」3343号に読者の中村晄三様(何と旧山陽パルプから日本製紙のOBだった方でした)から、下記のような質問がありましたので、ご参考までに私の答えと併せて紹介します。

“駅で毎日聞く「~番ホーム」というのも、何故「乗り場」と言わないのか不思議な言葉です。「ハロ-ワーク」に至っては、どうしてこのような造語を使うことにしたのかお役所の担当者の意見を聴きたいものです。「ハローキティちゃん」などの「ユルキャラ」好みの世相におもねたのでしょうか?”

先ずは「今回私が採り上げた以外にもカタカナ語はいくらでもあるだろう」と言ってはおきました。何れ、幾つか纏まった時点で投稿しようかと考えております。

ご指摘の「ホーム」は言わば古典的で、"platform" が省略されて「ホーム」になったと解釈しております。これは良くある形で "form" のような発音が難しい部類の際に落とされていた例だと思っていました。これを大胆に応用したのが「ホームドア」かと思います。あのドアを何と命名するかと密かに期待しておりましたが、余りにまとも過ぎて拍子抜けでした。英語だったならば何と言うかは調べてありません。

「ハローワーク」は「職業安定所」を何とか穏やかな響きにしようかとカタカナ語にした苦心のほどは理解しますが、"Hello! Work" では意味不明ですが、それでも通用している辺りに我が国の言語に対する融通無碍なところを見出す思いです。

「ハローキティ」と「ゆるキャラ」は私の守備範囲外だと思っております。例によって英語の講釈ですが、These two words don’t fall into my category of カタカナ語と造語." という認識です。しかし、世相に阿っていると同時に、私には何でもカタカナ語化すれば受けるという軽佻浮薄さが見える気がします。

また、別のパラでお問い合わせの「乗り場 No.1」のような表現は、アメリカのアムトラックではなかったと思います。シアトル駅とケルソー/ロングビュー駅間の約3時間は何度か利用しました。そこで聞こえて来た言葉は "track Nr. 1" だったと記憶します。また、アムトラックには日本式のプラットフォームはなく、線路にコンクリートを敷き詰めたところが乗り場で、列車にはそこに踏み台を置いて乗りました。

アムトラックの駅には始発のシアトルでも改札口はなく、駅舎を勝手に抜けてその乗り場に入っていきます。改札は乗車前に、地面に降りている車掌に切符を見せて「何号車に行け」と指示されます。

余談です。ドイツにはたった一度行って、記念にと僅か一駅デュッセルドルフからケルンまで乗りました。ここでは我が国と(我が国が?)同じプラットフォームがありました。ドイツ語は全く知りませんから、乗り場なのかプラットフォームだったかは知りません。

ソウルからは慶州までセマウル号に乗りましたが、大きなソウル駅も改札口もなく、自由にプラットフォームの降りました。だが、乗り場という韓国語には注意しませんでした。駅員に切符を見せて確か「オディ」と言って何処に行くかを尋ねただけで解りました。ここと上海では地下鉄に乗りましたが、乗り場という言葉には注意せずに乗ってしまいました。

新宿Koreatownの現状に思う

2014-06-22 07:43:40 | コラム
閑散としたいた職安通りを歩いて:

一昨20日の午後2時過ぎに、実に暫くぶりに職安通りを明治通りとの交差点からドンキホーテの角まで歩いてみた。予想通りと言うべきか何と言うべきか、韓国料理屋が多い初夏の日差しがまぶしいこの通りの人出はまばらだった。しかし、ドンキホーテから大久保通りを結ぶ路地には相変わらずと言いたいほど多くの女性が化粧品を物色していた。即ち、この路地はこの辺りでも最も化粧品店が多く "Koreanization" が進んでいたのだった。

私には全く縁がない韓国製の化粧品がこれほどまでにウオン高が進んでも、未だに我が国の女性にとってはお買い得なのかどうかは知る由もないが、明らかに女性の数が減った大久保通りでも化粧品店だけは人が入っている。彼等が誤ったカタカナ語で言う「リピーター」なのかどうか解る訳もないが、かなりの数の女性が群がっている店もある。

この二つの通りで形成されるのだろう Koreatown も、大久保通りのJR新大久保駅から先ないしは北側に行けば、最早韓国語を話す者の数は激減し、中国語、東南アジア系とイスラム語系の国の人たちばかりとなる。先頃「新潮45」だったかでも「移民20万人導入論」が酷評されていたが、確固たる対策も立てずに外国人労働者を受け入れたらどうなるかなどは、この地区に来て暫く歩いてみれば誰にでも解ることではないか。

私は政治家でも官僚でもお忍びとやらで、2~3時間かけてこの界隈を歩いてみれば受け入れ案がどれほど危険かが解ると思っている。良く言われる群馬県の大泉町の日系ブラジル人街の例もあるが、我が国の文化と法規制に馴れない連中を大量に住まわることが決して得策とは思えないのだ。

私の印象では日本語学校に忙しげに登校していく若者の数は増える一方のようだ。彼等の中には日本語を習得して学生ヴィザが許す範囲内でも働こうとする者がいると聞く。しかし、そこにはまだ厳しい法規制があり、雇用者はパスポートとヴィザを調べて適格者だけを雇うのだが、その際には労働基準監督署に申請せねばならないそうだ。それを怠ると厳しい罰則が待っているそうだ。

だが、私は職安通りを歩きながら「そうやって外国人を受け入れて働かせていけば、何時だったかのロスアンジェルスのようにアフリカ系対韓国系の争いのような揉め事の火種になりはしないか」と秘かに憂いていたのだった。