危うく「W杯サッカーが終わって」と題するところだった:
張本勲は今朝もTBSで「W杯サッカーの話題は良いじゃないか」と言っていたが、私も決勝トーナメントの試合が如何に凄いかどれほど面白いかくらいは承知しているが、これまでのように懸命に追いかける気がなく、結果だけ解れば十分という気が抜けた気分である。予め期待しないと言っておきながら、今更気が抜けたもないものだが、我が代表が敗退したのでは興味が失せたのも事実だから仕方がない。
そこで、我らが代表が出た以外の試合も見た感想を纏めてみよう。
*基本技:
自分が昭和20年=1945年に湘南中学の蹴球部に入って初めに教えられた蹴球の基本技と、21世紀の今日ではまるで別物になってしまったかの感が深い。それは上手さや技術と用具の進歩にも関係があるかと思うが、今の世界的選手たちは20世紀の基本技から見れば全て失格だと言いたいほど変化してしまった。
これは以前にも採り上げたことがあることだ。それらは先ず「FWがシュートする時に左側にいる者が右から来たパスを蹴る場合には右足で、反対の場合には左足で」と教え込まれた大原則が今やほとんど無視されて、反対側の足で平然と蹴っているのである。理屈を言えば「右から来たパスを左足で蹴ろうとすると、一旦自分の前を通り過ぎた球の右側に踏み込んで電光石火の早業で左で蹴るのだから、何処に行くかは解らないことになりかねないと教え込まれたのだった。
*海外事情:
しかし、現代の高度の技術と技巧を兼ね備えた連中は、その難しいキックを簡単にやってのけてしまうのだ。そこが凄いと何時も感心して眺めている。もしもこの理論に疑問を抱かれたならば、何処かでお試しになってみれば、私が教えられた反対の足で思うがままに蹴ることがどれほど難しいか解って頂けると思う。
私のサッカー歴は全国大会出場と優勝を目指して練習をしていたのは昭和25年=1950年の高校3年までだった。それ以後は関東大学リーグ4部の大学時代を経て、1976年頃(43歳だったか)に藤沢四十雀に加入して、元はと言えば関東大学リーグ1部校の有名選手だった方々に混じってリクリエーションとしてのサッカーを48歳頃まで楽しんでいたものだった。
当時はW杯出場どころか海外の強豪国のサッカーの実態に触れる機会も少なく、サッカー先進国の有名選手たちが如何なるサッカーをしているかの情報も少なかった。そこにテレビとビデオ時代が到来してブラジルその他欧米の優秀な選手たちの実態を知ることが出来た。するとどうだろう。そこには私が教え込まれた基本とは異なった勝手気ままにボールを巧みに扱う有名選手たちの姿があったのだった。
私はその状態を「彼等は十分に基本を学んだ上で既に応用編の段階に入っているのであって、決して基本を忘れている訳ではない」と好意的に解釈していた。昭和20年に学んだ基本技がどうあろうと、彼等は巧みな足技で何でもこなしていると考えていた。
*続・基本技:
ここではトラッピングを採り上げてみよう。我々昭和一桁の時代には「進行を止めるようなトラッピングをしてはならない。それは左側にいる者は右から来たパスをトラッピングする時には右足で進行方向に球が流れるようにすること。自分の身体の前を通過させて左足でトラップしようとすると、そこで進行が止まってしまう。即ち、それはストッピングなのである」と教えられた。
しかし、海外の名手たちのトラッピングを見れば、ほとんどが上記の基本技無視だった。彼等の優れた技術と足技では先ず進行が止まるような時間のロスがないのでストップしなかったのだった。そして気が付けば、我が国のサッカーでもこの反対の足での進行ストップ方のトラッピングになっていたのだった。私はこの辺りの変化を捉えて自らを「石器時代のサッカー選手」と戯称していたのだった。
今や誰もと言うか、希にしかあの頃の基本技を守っていなくても世界は進歩したのだから、あれこれ言う必要見ないかと達観(諦観?)している次第だ。
*髪型と刺青(入れ墨):
これも張本の台詞だが、「ブラジルなどの選手たちは貧困層から努力を重ねて這い上がってきた強かさと言うか強さがある」と指摘していた。それはその通りだと思うが、強豪国の選手たちの多くは我が国の基準からすれば普通人の世界では滅多にあり得ない凄い髪型であったり、ユニフォームから出ている両腕には彫り物が見えている。欧米諸国と我が国とではこういうこことの文化が違い過ぎるが、一寸怖い感は免れない。
それとサッカーとは別物だという意見もあるだろうが、矢張り違和感を禁じ得ない。この彫り物はMLBの選手たちにも圧倒的に多い。先日もジムの知り合いと「あの連中は我が国に来たら、このジムの会員にはなれなかっただろう」と語り合ったものだった。我が国で入れ墨がある人を拒否するのは意味が違いとは知ってはいても、文化の違いの大きさは印象的だ。
*優勝国は何処:
実は、告白済みのように他国の試合を余り真剣には見ていないので多くは語れない。だが、候補筆頭の呼び声が高いブラジルはかのネイマールを始めてとして全員が上手いのは間違いないところだが、往年の凄さと比べるとスケールがない感じがする。全体的に凄味があって強さをも感じさせるドイツが良いような気もするが、乏しい知識から言えるのはこの程度だ。オランダも勿論有力候補だろうが、ブラジルほどの生存を賭けた凄味はないのかも。
張本勲は今朝もTBSで「W杯サッカーの話題は良いじゃないか」と言っていたが、私も決勝トーナメントの試合が如何に凄いかどれほど面白いかくらいは承知しているが、これまでのように懸命に追いかける気がなく、結果だけ解れば十分という気が抜けた気分である。予め期待しないと言っておきながら、今更気が抜けたもないものだが、我が代表が敗退したのでは興味が失せたのも事実だから仕方がない。
そこで、我らが代表が出た以外の試合も見た感想を纏めてみよう。
*基本技:
自分が昭和20年=1945年に湘南中学の蹴球部に入って初めに教えられた蹴球の基本技と、21世紀の今日ではまるで別物になってしまったかの感が深い。それは上手さや技術と用具の進歩にも関係があるかと思うが、今の世界的選手たちは20世紀の基本技から見れば全て失格だと言いたいほど変化してしまった。
これは以前にも採り上げたことがあることだ。それらは先ず「FWがシュートする時に左側にいる者が右から来たパスを蹴る場合には右足で、反対の場合には左足で」と教え込まれた大原則が今やほとんど無視されて、反対側の足で平然と蹴っているのである。理屈を言えば「右から来たパスを左足で蹴ろうとすると、一旦自分の前を通り過ぎた球の右側に踏み込んで電光石火の早業で左で蹴るのだから、何処に行くかは解らないことになりかねないと教え込まれたのだった。
*海外事情:
しかし、現代の高度の技術と技巧を兼ね備えた連中は、その難しいキックを簡単にやってのけてしまうのだ。そこが凄いと何時も感心して眺めている。もしもこの理論に疑問を抱かれたならば、何処かでお試しになってみれば、私が教えられた反対の足で思うがままに蹴ることがどれほど難しいか解って頂けると思う。
私のサッカー歴は全国大会出場と優勝を目指して練習をしていたのは昭和25年=1950年の高校3年までだった。それ以後は関東大学リーグ4部の大学時代を経て、1976年頃(43歳だったか)に藤沢四十雀に加入して、元はと言えば関東大学リーグ1部校の有名選手だった方々に混じってリクリエーションとしてのサッカーを48歳頃まで楽しんでいたものだった。
当時はW杯出場どころか海外の強豪国のサッカーの実態に触れる機会も少なく、サッカー先進国の有名選手たちが如何なるサッカーをしているかの情報も少なかった。そこにテレビとビデオ時代が到来してブラジルその他欧米の優秀な選手たちの実態を知ることが出来た。するとどうだろう。そこには私が教え込まれた基本とは異なった勝手気ままにボールを巧みに扱う有名選手たちの姿があったのだった。
私はその状態を「彼等は十分に基本を学んだ上で既に応用編の段階に入っているのであって、決して基本を忘れている訳ではない」と好意的に解釈していた。昭和20年に学んだ基本技がどうあろうと、彼等は巧みな足技で何でもこなしていると考えていた。
*続・基本技:
ここではトラッピングを採り上げてみよう。我々昭和一桁の時代には「進行を止めるようなトラッピングをしてはならない。それは左側にいる者は右から来たパスをトラッピングする時には右足で進行方向に球が流れるようにすること。自分の身体の前を通過させて左足でトラップしようとすると、そこで進行が止まってしまう。即ち、それはストッピングなのである」と教えられた。
しかし、海外の名手たちのトラッピングを見れば、ほとんどが上記の基本技無視だった。彼等の優れた技術と足技では先ず進行が止まるような時間のロスがないのでストップしなかったのだった。そして気が付けば、我が国のサッカーでもこの反対の足での進行ストップ方のトラッピングになっていたのだった。私はこの辺りの変化を捉えて自らを「石器時代のサッカー選手」と戯称していたのだった。
今や誰もと言うか、希にしかあの頃の基本技を守っていなくても世界は進歩したのだから、あれこれ言う必要見ないかと達観(諦観?)している次第だ。
*髪型と刺青(入れ墨):
これも張本の台詞だが、「ブラジルなどの選手たちは貧困層から努力を重ねて這い上がってきた強かさと言うか強さがある」と指摘していた。それはその通りだと思うが、強豪国の選手たちの多くは我が国の基準からすれば普通人の世界では滅多にあり得ない凄い髪型であったり、ユニフォームから出ている両腕には彫り物が見えている。欧米諸国と我が国とではこういうこことの文化が違い過ぎるが、一寸怖い感は免れない。
それとサッカーとは別物だという意見もあるだろうが、矢張り違和感を禁じ得ない。この彫り物はMLBの選手たちにも圧倒的に多い。先日もジムの知り合いと「あの連中は我が国に来たら、このジムの会員にはなれなかっただろう」と語り合ったものだった。我が国で入れ墨がある人を拒否するのは意味が違いとは知ってはいても、文化の違いの大きさは印象的だ。
*優勝国は何処:
実は、告白済みのように他国の試合を余り真剣には見ていないので多くは語れない。だが、候補筆頭の呼び声が高いブラジルはかのネイマールを始めてとして全員が上手いのは間違いないところだが、往年の凄さと比べるとスケールがない感じがする。全体的に凄味があって強さをも感じさせるドイツが良いような気もするが、乏しい知識から言えるのはこの程度だ。オランダも勿論有力候補だろうが、ブラジルほどの生存を賭けた凄味はないのかも。