新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

3月22日 その2 続・2015年の我が国への入国者数

2016-03-22 14:05:36 | コラム
中国人の「爆買い」に思う:

「2015年の我が国への入国者数」の統計を紫式部というか源氏物語の研究者で、多くの大学で教鞭を執っておられる博学多識のKS氏にも送って見た。同氏の感想には興味深いものがあったが、その中で彼は「中国人の爆買い」に触れて、

<「爆買」などと揶揄する人もいますが、日本人もそのころは世界中でひんしゅくを買っていたものです。>

と指摘されたが、当に仰せの通りだろう。私も嘗ては外国で同胞が恥も外聞もなく買いまくる話を聞いて恥じ入ったものだった。これは実際に経験した話しで、アメリカの有名ブランド店”Sulka”(確かNYとSFOに店があった今は倒産した歴代大統領御用達の高級洋品店)で水玉模様のネクタイをショーケースの「ここから此処まで」と買っていった、ワシントンDCから紹介された我が国の閣僚がいたと、アメリカ人の店長に聞かされたことがあった。直ぐに誰のことかは察しがついて、恥ずかしい思いをさせられた。

また、1989年だったかW社Japanの創立何十年記念だったかで全員が香港旅行に行った時のことだった。(我が業界はこの当時はこのような余裕があった)ペニンシュラホテルにあった(と記憶する)ルイビトンの店には入るだけで長蛇の列で、それは入場の番号のカードを貰う為の列だった。店内に入るのはそれほど大変なことだったのだ。勿論、並んでいたのは全て我が同胞。買いまくっていた。

私もほ興味半分で並んで運良く良い番号がとれて入店しても、売り場に近寄ることも出来ずに何がいくらで売られているかの偵察も叶わずに退散してしまった。その当時の我が国の海外のブランドを買うことに見せた狂奔振りからすれば、中国人を「爆買い」などと揶揄するのは如何なものかという気さえするほど、嘗ては我が同胞は海外で買いまくっていた。だからこそ、中国人が喜び勇んで買うのも理解出来る気がする。だが、私は彼らの多くは転売目的だと思っているし、そうとも報じている週刊誌もあった。

1992年だったか、NYの”Hermes”の店頭にワゴンにネクタイが山積みされて、記憶では1本が$50くらいだったか。そこに「今此処でこれを買わねば。パリでもこんな値段は出ないぞ」と教えてくれた白人がいた。訊けばフランス人だそうで、大量に纏めて嬉しそうに買っていった。白人だって爆買いはするものなのだ。私は元々このブランドのネクタイを「バイヤスが取れていないものが多く縫製加工も良くないし、デザインが好みではなく、その上結びにくい」と評価せず持っていなかった。だが、この時は余りの安値で1本だけ買っては見たが、結局ほとんど使うことなく今では何処にあるかも不明だ。

話が逸れてしまった。中国やその他の新興国の急速且つ乱暴な経済発展は世界を変えてしまう勢いだし、ICT化の急激な進捗はそこに拍車をかけているようだ。経営者(私は我が国では経営担当者に過ぎない輩が多いと思っているが)も政治家と政治屋も、急速且つ大きく変化する時代を何処まで認識しているか否かは、これから先には一国の命運を左右すると密かに考えている。だが、かく言う私はスマホもタブレットも欲しいとは思わないようなPCだけは使っている時代遅れの高齢者だ。

それにつけても思うことは「中国と韓国の世論ではあれほど日本は嫌いだ」と出ていながら、何であれほど毎年日本を訪れる者が増えているのだろうか」なのだ。

奥様の有り難みがお解りになったでしょう

2016-03-22 07:14:24 | コラム
家内の入院が満1ヶ月を超えて:

多くの方から家内の入院について、特に女性からは、「奥様の有り難みが解ったでしょう」と言われる。全くその通りであると良く解っているし、特に異論や反論を唱える勇気もないほど、今や精神的にも疲労してしまった。しかし、この表現には誤解というか誤認識があるのではないのかなと感じている。

その説明の前に、先月24日の手術後の経過は順調で、1週間も経たないうちにリハビリテーションの一環で病院の外を理学療法士付き添いの下に歩行訓練まで始まっていた。「やれ嬉しや」とホッと一安心だった。しかし、悲観論者の私としては話が上手く行き過ぎているのではないかとの一抹の不安感はあったが[有り難いことだ」という感謝の思いだけで毎日直ぐそこの病院に様子を見に行っていた。

家内入院が始まってから当方は確かにデイジタル化されたドラム式洗濯機を使うのは愚息に依頼して切り抜けたが、その他の家事はそれなりにこなしてきたし、買い物にも出て行った。生涯で初めての本格的?な料理もしてみたし、食べられる程度の味にもなっていた。家内に厳命された家計簿の如きものもチャンとつけてきたし、可愛がっていた鉢植えに給水もしてきた。これらは確かに大変であるが、それを「奥様の有り難み」と言われると少しではあるが抵抗を感じる。

それは、それらの家内が長い年月やってきてくれた家事一切は、私は2013年8月の3度目の心筋梗塞発症で仕事を辞めてしまったとはいえ、その後にも言わば「ルーテイン」と化した生活の形があるのだ。それらはメルマガへの投稿やブログの更新に加えて、昨年の後半からは商社2社の知人たちとの定例の昼食会も再開しているし、二つの勉強会への参加も復活させた。さらに今年1月からは体調の維持の為にジムにも通い出している。漸く昔の生活に徐々に近くなってきたところだ。

これらが私の日常生活のあらましで、その上に家内の代行業務が重なっただけではなく、家内の病状を気遣うこともあるし、自分自身が未だに数カ所の病院で、多くの科目に定期的に検診に通っているのだ。私はやや大げさに「疲労困憊」と言っているのは、「家内との二人分の作業を漸く昨年前半の心不全による生命の危機から脱した後期高齢者がこなしているのだから大変なのだ」と説明したいのだ。

特に気を遣っているのは「不注意で風邪を引いたりして家内にうつすことがないように」であり、日常生活では細心の注意を払っている。また、長く続けてきた減塩食も家内が不在とあっては自分で何処まで守れるかは大きな問題で、ある程度は目をつぶって普通食を食べている。だが、これなどはある種のストレスを生じさせる。と、ここまで言わば泣き言を並べ立てたが、何とか無事にこの事態を切り抜けて家内の退院まで精神の安定状態を維持しようと努力しているところだ。早く帰ってきてくれて一緒に暮らせる日を待っているのだ。