新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

相撲に無関心な私が相撲を語る

2016-03-24 07:10:22 | コラム
煽て上げられて自滅させられた琴奨菊:

私は相撲に興味も関心もなく、NHKはスポーツニュースから相撲を外して別枠で「相撲ユース」として欲しいと書いたことすらある。それはあれは純粋な意味のでスポーツではなく、我が国の伝統的娯楽で興行的な色彩と要素が余りに濃厚過ぎるから言うのだ。それでも、1994年の1月だったかの場所は知り合いのご厚意で桟敷席(枡席というのかな)で直ぐそばで観戦していたので、益々「興業」だと言いたくなってしまった。

序論はこれくらいにして琴奨菊である。彼が日本出身(と言うマスコミの表現もおかしくはないか)の力士として何年ぶりかで優勝したと、マスコミが挙って大騒ぎして持ち上げ過剰に囃し立てた時点で31歳と知り、彼をテレビででも見たことがなかったが、先ずマスコミが騒ぎ立てる横綱は無理だと直感した。しかも、それだけで飽き足らずマスコミは彼の奥方の学歴から外国語能力まで採り上げて報じ、過剰に報道したところでほぼ次の場所では形を為すまいと予測した。

それは人というものは如何に自制して自分に慢心しないように言い聞かせていても、周りが騒ぎ立て褒めあげ根も葉もないことを基にお世辞を言うと、どうしてもそれが本当に自分のことだと、例え一瞬でも思い込んでしまうことがあるものなのだ。勿論、誰にでも「社交辞令に決まっている」と推理するだけの判断力はあるが、人の悲しさで「矢張り俺にはそういう価値があったのだ」と思い込みたい誘惑を拒否出来なくなるものなのだ。。実は、かく申す私でさえも、それに類する経験をしてその恐ろしさを経験している。

しかも、琴奨菊の場合は優勝祝賀会辺りまでは未だ良かったが、マスコミは結婚披露宴まで挙って採り上げて、彼らの間の競争と満足感を味わう為の大騒ぎを演じた。あそこまでやられれば、世間から隔離された世界の文化しかしらない一関取に過ぎない琴奨菊は「最早我が事成れり」とばかりに思い込まされたのだろう、本当に嬉しそうだった。その時点で彼はテレビと新聞に駄目にされたのだった。そして今朝新聞を見れば、既に四つも負けていた。「だから言ったじゃないか」だった。

あのマスコミの大騒ぎは罪作りなことをしたものだとも言えるが、その誘惑に心が緩んで沢山負けて横綱とやらに成れる機会を彼は自分で、その実力で潰しただけのことなのである、勿論煽て上げ褒めあげたマスコミにもその一端の責任はあるが。何れにせよ、私はこれで琴奨菊騒ぎは終焉し、自国出身の横綱の希望の綱は切れたと思っている。