私は甲子園の野球排斥論者である:
何を隠そう、私は嘗て高校の級友の脇村春夫君が高野連会長就任祝いのクラス会の席上で、彼に「甲子園野球を止めよう」の文書を渡して驚かせたほどの高校のスポーツの全国大会を嫌う筋金入りの野球に限らず高校のトーナメント方式の全国大会の排斥論者である。そういう主張を始めたのは1979年頃ではなかったかと記憶する。言いたくはないが、アメリカには州毎の大会はあるそうだが、全米高校大会などないそうだ。これは我が国独特の文化ではないのか。
その理由と根拠はこれまでに何度も展開してきたが、此処にあらためて要点だけを並べれば、特に夏の甲子園は朝日の販促の手段に過ぎないだけではなく時代感覚が著しく欠如していること、この大会に出るか勝つ為に指導者がその水準(カタカナ語では「レベル」)に子供たちを小さく纏めてしまうと言うか小細工を覚えさせ過ぎること、大学なりプロなりに行った際に大きく伸びる素地を消してしまうこと、その狭い世界しか知らぬ若者を養成する嫌いがあること、その世界しか知らぬ世間の常識を知らぬ大人が支配する組織を作ってしまう結果を招いている辺りになる。
目下のところ、現時点では高校の1、2年生だけが集まっている春の選抜野球が開催されている。甲子園野球を排斥するとは言ったが、時々はそのNHKの中継放送を見ることもある。本日は1回の裏だったかに大阪桐蔭がホームランで1点を先取したのを見て「これでは千葉県の木更津総合の勝ちはないだろうと思って、見るのはそこまでにした。結果的には如何にも公立学校風の名前の木更津が優勝候補だったかの大阪桐蔭に勝ってしまった。そこであらためて検索すると、木更津は私立の学校だったのは意外だった。
私が甲子園野球嫌う根拠には必ずしも高野連の責任だけではないが、NHKの中継放送の仕方にも嫌らしいところが数々ある。順序不同で行けば、先ずはあの負けた学校が涙とともに準備してきた(!!1)「甲子園の砂」を入れる袋を持ち出して下俯いて両手で掻き入れる場面だ。それを大勢の写真係が這いつくばって撮るのは天下の奇観だ。余りに感情的だし、この行為が(誰が流行らしたカタカナ語か知らぬが)「ルーテイン」化されているのが不思議だ。大体からして負けるのを想定してか、それ用の袋を持ってくる感覚が理解不能だ。
次は負ける方の最後の打者が一塁に頭から滑り込む(ヘッドスライデイングは造語で英語では”headfirst sliding”と言うようだが)儀式はあれは何だろうと思う。そういう場面でなくてプロでも、屡々ヘッドスライデイングを敢行者がいる。しかし、走り抜ける方が速いと解っているのに、闘志を表す儀式が此処でも標準化されている。余りにも非合理的ではないか。非合理と言えば、高校生で体も出来ていない投手が連投や100球以上も投げるのは良くないと思うが、マスコミも解説者も何も言わない、イヤ言えない仕組みになっているのかな。
試合が終わると、各校の野球部員か監督を先頭に引き上げてお定まりのインタビューとなるのだが、その先頭に麗々しくダブルのブレザーを着て野球帽を被ったおっさんが先導している。小学生でもあるまいに、自分たちだけで歩かせば良いのにと、つい思ってしまう。これだけではないが、野球という運動の世界にはなんだかんだと古き良き(?)仕来りが多過ぎはしないか。最近は全ての野球部員は野球帽の前の部分を垂直に立て、ひさしを湾曲させている。あれは高野連から全部員はあのような形に帽子を整形せよとのお達しでも出されていたのかと、ついつい疑ってしまう。
近頃は道具入れの頭陀袋のようなとでも形容したい大きな学校名入りの悪趣味な大きな袋を止めて、背負い袋(リュックサックでも良いが)に変えた学校が増えてきた。私はあの袋よりも背負い型の方に好感を覚える。何れにせよ、学校名をあれほど大きく書かれてはあれを肩から提げている限り非行には走れないぞと言う学校側の教育の一環というか、過剰な親心かと思っている。これは野球だけではなく、全ての運動部にも通じるのではないか。
運動部という組織の為にこ子供ちを縛って画一化するのは、それはそれで良いところもあるのだろうが、私には一寸没個性に過ぎると思えてならない。尤も、その没個性が全体としての「常に一丸となっている個性だ」と言われれば、返す言葉もない。此処までのこういうことを言えば、異論、反論が来ることを十分に恐れて申し上げてみた次第だ。
何を隠そう、私は嘗て高校の級友の脇村春夫君が高野連会長就任祝いのクラス会の席上で、彼に「甲子園野球を止めよう」の文書を渡して驚かせたほどの高校のスポーツの全国大会を嫌う筋金入りの野球に限らず高校のトーナメント方式の全国大会の排斥論者である。そういう主張を始めたのは1979年頃ではなかったかと記憶する。言いたくはないが、アメリカには州毎の大会はあるそうだが、全米高校大会などないそうだ。これは我が国独特の文化ではないのか。
その理由と根拠はこれまでに何度も展開してきたが、此処にあらためて要点だけを並べれば、特に夏の甲子園は朝日の販促の手段に過ぎないだけではなく時代感覚が著しく欠如していること、この大会に出るか勝つ為に指導者がその水準(カタカナ語では「レベル」)に子供たちを小さく纏めてしまうと言うか小細工を覚えさせ過ぎること、大学なりプロなりに行った際に大きく伸びる素地を消してしまうこと、その狭い世界しか知らぬ若者を養成する嫌いがあること、その世界しか知らぬ世間の常識を知らぬ大人が支配する組織を作ってしまう結果を招いている辺りになる。
目下のところ、現時点では高校の1、2年生だけが集まっている春の選抜野球が開催されている。甲子園野球を排斥するとは言ったが、時々はそのNHKの中継放送を見ることもある。本日は1回の裏だったかに大阪桐蔭がホームランで1点を先取したのを見て「これでは千葉県の木更津総合の勝ちはないだろうと思って、見るのはそこまでにした。結果的には如何にも公立学校風の名前の木更津が優勝候補だったかの大阪桐蔭に勝ってしまった。そこであらためて検索すると、木更津は私立の学校だったのは意外だった。
私が甲子園野球嫌う根拠には必ずしも高野連の責任だけではないが、NHKの中継放送の仕方にも嫌らしいところが数々ある。順序不同で行けば、先ずはあの負けた学校が涙とともに準備してきた(!!1)「甲子園の砂」を入れる袋を持ち出して下俯いて両手で掻き入れる場面だ。それを大勢の写真係が這いつくばって撮るのは天下の奇観だ。余りに感情的だし、この行為が(誰が流行らしたカタカナ語か知らぬが)「ルーテイン」化されているのが不思議だ。大体からして負けるのを想定してか、それ用の袋を持ってくる感覚が理解不能だ。
次は負ける方の最後の打者が一塁に頭から滑り込む(ヘッドスライデイングは造語で英語では”headfirst sliding”と言うようだが)儀式はあれは何だろうと思う。そういう場面でなくてプロでも、屡々ヘッドスライデイングを敢行者がいる。しかし、走り抜ける方が速いと解っているのに、闘志を表す儀式が此処でも標準化されている。余りにも非合理的ではないか。非合理と言えば、高校生で体も出来ていない投手が連投や100球以上も投げるのは良くないと思うが、マスコミも解説者も何も言わない、イヤ言えない仕組みになっているのかな。
試合が終わると、各校の野球部員か監督を先頭に引き上げてお定まりのインタビューとなるのだが、その先頭に麗々しくダブルのブレザーを着て野球帽を被ったおっさんが先導している。小学生でもあるまいに、自分たちだけで歩かせば良いのにと、つい思ってしまう。これだけではないが、野球という運動の世界にはなんだかんだと古き良き(?)仕来りが多過ぎはしないか。最近は全ての野球部員は野球帽の前の部分を垂直に立て、ひさしを湾曲させている。あれは高野連から全部員はあのような形に帽子を整形せよとのお達しでも出されていたのかと、ついつい疑ってしまう。
近頃は道具入れの頭陀袋のようなとでも形容したい大きな学校名入りの悪趣味な大きな袋を止めて、背負い袋(リュックサックでも良いが)に変えた学校が増えてきた。私はあの袋よりも背負い型の方に好感を覚える。何れにせよ、学校名をあれほど大きく書かれてはあれを肩から提げている限り非行には走れないぞと言う学校側の教育の一環というか、過剰な親心かと思っている。これは野球だけではなく、全ての運動部にも通じるのではないか。
運動部という組織の為にこ子供ちを縛って画一化するのは、それはそれで良いところもあるのだろうが、私には一寸没個性に過ぎると思えてならない。尤も、その没個性が全体としての「常に一丸となっている個性だ」と言われれば、返す言葉もない。此処までのこういうことを言えば、異論、反論が来ることを十分に恐れて申し上げてみた次第だ。