新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月18日 その3 海水で汚れた船を洗うのは重労働だ

2016-10-18 16:34:02 | コラム
海の森競技場が抱える問題点:

このボート会場の一件は小池都知事が持ち出して以来、結構な論議の的になっている。私は賛成派の連中が言っていることにも一理はあると思うが、彼らは箝口令をしかれているのかハッキリと言わないことがあるのは、もしかして作戦かなと思って聞いている。それは「海水の競技場では船を洗うのが大変で、それを怠ると云々」という辺りだ。誰かが一度だけ触れていた件だ。

私はW社在職時に上司の副社長が結構な趣味で、大型のキャビンクルーザーを所有しており、それを使って屡々遠路はるばる訪米されたお客様を接待し、シアトル郊外の湖の”Lake Union”から言わば、内海ではある太平洋岸の”Puget Sound”にクルージングに出ていったものだった。そこは言うまでもなく外洋であるから、塩水(seawater)であり、ユニオン湖の淡水(fresh waterと言うのだそうだ)とは違うのだ。

毎回クルージングから戻ると、副社長以下全員でホースを持って船体は言うに及ばす、甲板というかデッキまで懸命に水洗いに汗を流さねばならなかった。これをしておかないと、塩に船体が浸食されてしまうのだそうで大事になると説明されていた。これはかなりな重労働で、馴れない私などはヘトヘトになってしまったものだった。だが、有り難いことにご招待申し上げたお客様をお待たせするわけにはいかず、概ね作業を一寸手伝った辺りで解放されてホテルに戻れたのだった。

言いたかったことは、海水の競技場で練習をして試合をすれば、世界各国から参加された選手たちは何処かで念入りにボートなりカヌーなりを洗わねばならないのであると思っている。それが相当な労働量を伴えば、かなりな負担になりはしないのかと思わざるを得ない。だが、未だに選手たちも、IFも一向にその点には触れないのである。恐らく競技場の周辺に艇庫を設けるのだろうが、洗い場を何処かに設けなくても良いのかと、宮城県の長沼反対派に伺いたい気もする。

だが、何れにせよ、”None of my business.”だと思っている。とは言え、小池都知事以下はこの点を反対派とその頭目、森喜朗組織委員会長様に質してみる必要がありはしないか。私は小池都知事が会長様にお伺いしても失うものはないと思うのだが、如何だろう。

10月18日 その2 カタカナ語排斥論者は言う

2016-10-18 11:28:37 | コラム
恐るべきカタカナ語の氾濫:

レガシーって何:
小池都知事の就任以降だと思うが「レガシー」という難しいというか文語的な言葉が凄い勢いで普及し始めた。”legacy”のことだとは解ったが、残念ながら私の英語力を以てしては(「しても」と言いたかった!)使った記憶がない言葉である。それがスラスラと出てきてテレビでも新聞でも当たり前のようにオリンピック関連の施設について使われるようになったのだった。本当に恐れ入っている我が国の学校教育の英語の成果であると思う。

その意味をOxfordに尋ねると”money or property that is given to you by ~ when they die.”となっていた。「何方かが亡くなった後で貴方に与えられる金銭か資産」のことのようだ。ジーニアスには「(遺言によって譲られる)遺産(inheritance)、《一般に「相続財産」はheritage》」となっていた。次には「受けつがれたもの、名残、遺物」と出ていた。何となく違うんじゃないかなという気がする使われ方だが、最早誰も止められない形で普及したようだ。

この「イベント」の「キーワード」は「チャレンジ」であり「リアル」に「インパクト」があって「パワー」を感じるので「シリアス」に「コメント」することは出来ない:
恐らく、多くの方はこの例文の意味がお解りになるだろう。困ったことだと本気で考えている。近頃テレビ等に登場する輩や有識者風の先生方のご愛用のカタカナ語を冗談半分で使って作文してみるとこうなったのだ。これでは最早日本語ではないと、私は言いたいのだ。試みに漢字を使って日本語に焼き直してみれば「この催し物の鍵となる言葉は挑戦であり本当に衝撃的で勢いを感じるので、本気で論評することは出来ない」辺りになるかと思う。

私が恐れ且つ嫌っていることは「何処まで漢字文化を敬遠する気なのか。英語の言葉を借用することで漢字本来の意味を表現できていると思うのか」なのだ。だが、それだけではなく、恐らく彼らは最早漢字文化について行けないので、格好を付ける為に、習い覚えさせられた(自発的に習い覚えたのではないと思う)英語の単語の意味だけを取りだして代替しているに過ぎないのではないのか。その意味を取り違えないで使われていれば未だ救いがあるが、そうではない場合が多いのが困る。

このままに推移すれば、私が危惧するところは「漢字文化を排除して全てハングルに置き換えてしまった韓国にも似たことになりはしないか」である。真似るべきことでは絶対にないと思う。

テレビでおかしなカタカナ語を濫用すると「耳から入る言葉の影響力は読むよりも強烈だ」という私の持論が現実となりつつあり、最早「催し物」という熟語は死語と化し、「挑戦」も「チャレンジ」に置き換えられた。ここには採り上げなかったが、松坂大輔が使い始めた「リベンジ」も「仕返し」を消し去ってしまう猛威を振るっている。「パワー」も困ったもので「身体能力に優れ、力があること」を全てこれで置き換えてしまった。Oxfordに始めに出て来るのは”the ability to control people or things”とあるし、次でも”political control of a country or an area”であるに拘わらず。

「シリアス」という表記も細かいことを言えば困ったもので、発音記号を見るまでもなく「シアリアス」と表記する方が原語に近いのだが、例によって例の如くにローマ字読み指揮に準拠してしていた。何処かに英和辞書すら持っていない通信社があったのだろうと疑っている。因みに、Oxfordを見ると、いきなり出てくるのは”bad or dangerous”で、次が”needing to be thought about carefully; not only for pleasure”と出てきて、間違った言葉を引いたかの感すらある。

兎に角、ここで声を大にしていいたいことは「単語帳的知識で英語の言葉を漢字の熟語の代わりに、格好付けて使うのを好い加減に止めろ」なのである。こんなことをしていれば、我が国の漢字文化を破壊するだけではなく、国語自体を訳の解らない、英語に訳しても通用しない言葉にしてしまいかねないと、老爺心から忠告するのだ。また、聞いている方も、このようなカタカナ語を聞いて解ったように気分になってはならない。言葉が誤用されていると認識して欲しいのだから。


ロッカールームで語り合えば

2016-10-18 09:08:12 | コラム
評判が悪いのは誰だ:

何処かに「あれはロッカールームで言ったこと」と弁明した人がいた。我がフィットネス・クラブのロッカールームには論客が多いが与太話をする者はいない。告白すれば、当方は外見が年齢よりも若く見えるようで屡々年少者と誤認識されるので、その誤解を解く為に「今上天皇よりも1学年上」と言っても具体的に解ってくれない場合には「石原慎太郎元都知事が旧制中学の同期」と表現すると何故か解って貰えることが多かった。ところが、これが仇となった。

豊洲問題が発生して以降は「あんたの同級生は困ったものだな。何故ハッキリ答えないのだ」辺りは未だお手柔らかな方で、昨日などは「彼が利権屋である事は有名で、K社等とはべったりだったじゃないか。けしからん。良く言っておけ」などと笑いながら言いに来る人まで現れた。これなどは極端な方だが、全般的に彼に対する評価は急速に低下してきた。石原君の問題は兎も角、豊洲問題には不満が多いようで「家内に豊洲に移転した後はあそこを経由する魚を買うなと家内に命じた」とまで言った人もいた。

小池都知事のオリンピックに対する姿勢については毀誉褒貶相半ばしており、当然「良くやってくれている」との声はある。だが、中には「やり過ぎだし、手を広げ過ぎで何処かで戦線を収縮する必要がありはしないか」との懸念を示した人もいた。私もその懸念はあるかと思っている。大勢は「小池都知事には不利な展開では」との懸念を言う者が増えてきた。

毎度採り上げていた「ロッカールームの論客」は「兎に角、あの問題のガンは森喜朗組織委員会長である。あの総身に知恵が回りかねている者を排除すべきだ」と、例によって厳しく非難していたのが印象的だった。言うまでもなく私は賛成である。彼は意外にも「反安倍政権」なのだが。

私がクラブに行くのは午前中だが、この時間帯には多くの高齢者が集うので、ロッカールームでは何も政治談義だけではなく、多くの話題を採り上げて語り合っている連中が多い。恐らく、病気関連の話題も政治よりも頻繁に取り上げられているとは思っている。ここでは心筋梗塞が3回、心不全での入院が昨年だけで2回という、全く自慢にも何にもならない私には、遺憾ながら同病相憐れむではないまでも、語り合っている顔馴染みが多いのである。中には肺がんを内視鏡手術で切り抜けられて驚くほど元気な方もおられる。

勿論、スポーツにも詳しい人も数多くいる。余り頻繁には会えない早実の野球部のOBの人とは、顔を見る度に清宮幸太郎の成長を語り合っているし、熱心な巨人ファンからは今年の不出来についての嘆き節を散々聞かされた。残念ながら、現在までのところではフットボールのファンに出会う機会はない。

何れにせよ、ロッカールームは意外にも結構な楽しい語り合いと社交の場でもあるし、案外に学習の場でもあるようなのだ。