新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

10月30日 その2 日本シリーズ第6戦観戦記

2016-10-30 14:39:19 | コラム
結局は監督の決断力と器量の差だったのではないか?

昨19日夜は4時間半もの間この試合を観戦してしまった。と言うのも勝負がついたのは8回だったし、勝った方が喜ぶのを見て「どれほど嬉しいだろうか」とその胸中を察してやるのが楽しみだからだ。そこには、自分自身が本当の優勝を経験し損なった苦い思い出があるので、せめて他人でも優勝して喜ぶところを見るのが決勝戦観戦の一種の楽しみでもあるのだ。それは兎も角「決断力は指導者に絶対に必要な条件である」と思い知らされたのだった。

それにしても、昨夜の広島の負け方は無残だった。緒方監督は私が散々酷評してきた投手起用法を改めず、張本勲が弁護したように「信頼している」という美名に隠して、ジャクソンを8回に出してきたのには呆れるだけだった。敗因は他にもあったが、あれは酷過ぎる失敗だった。しかも、二死を取った後に3本も連打されながら替える気配も見せずに中田に四球であるから論外だ。その前に替える勇気がなかったのは、オバマ大統領級の優柔不断振りだ。

解説の山本浩二は三番打者の岡が当たっていないから大谷が代打で出て来るのではないかと言っていたにも拘わらず、岡如きに打たれて傷を深くしてしまった。ジャクソンは投球後に外国人の投手に良くある欠陥で、体が左側に倒れるのだ。これでは第4の内野手としての守備体勢が取れない。そこに中島・岡とピッチャー返しの打球が続いた。そんなことはあるまいが、あの二人が意識的に狙ったのかと思ったほどだった。中田への四球の後でも遅くないから替えるべきを怠り、投手のバースにまで打たれて試合を決めさせられた。

実は、昨夜は試合開始前に何の閃きも来なかった。考えてみても、増井と野村では何れが優勢かの判断も試合が始まらねば見えないと思えたし、栗山監督が大谷を外した狙いも全く読めなかった。しかも、日ハムが1回表の絶好機に中田のダブルプレーで1点しか取れなかったのを見れば、より一層読み切れなくなってしまった。だが、そこで「もしかすると日ハムの大差での勝利もあるか」と一瞬思い浮かんだが「まさか」と否定して、ただただ試合の流れを見ていただけになった。

ところが、栗山監督が昨夜も不安定だった増井を悩みに悩んだ末に(カメラが一瞬その姿勢を見せてくれた)思い切って4回で引っ込めて最小限の失点で切り抜けたのに、緒方監督は野村を引っ張りすぎで4失点となったのも敗因の一つで、決断力の不足が目立った。それにも拘わらず、7回になったからというだけの理由で今村→ジャクソンと繋いだ起用法では、畝とか言うコーチも同罪だろう。この試合は双方にミスというか失態が多く、広島の田中の記録上は内野安打となった失策も敗因の一つに数えても良いだろう。

日ハムの三本間の挟殺の失敗も醜態だった。だが、勝ち運は日ハムを見放さなかったのだった。折角スコアの上では良い試合展開の如きだったが、あれだけ多くの失策を見せられてはやや興醒めだった。もしも「大試合で固くなったので」などとでも言い訳するのだったならば許しがたい。多額の年俸を取って入場料を取って見せているプロの試合だから。

結論的に言えば「強い方が勝ったのだ」となるが、私が既に指摘した何試合目だったかの、広島の左翼手・松山の中田の安打に突っ込み過ぎた守備の判断の誤りは大きかった。あれがシリーズの流れを決めてしまったとさえ言えるだろう。団体競技では、そのテイームの穴というか欠陥は「ここぞ」という時にだけ現れて勝敗を左右してしまうものだ。それが、確か大谷からホームランを打った松山であり、シーズン中は大過なく過ごせたジャクソンなのだ。ジャクソンは言うなれば「勝負の星か勝ち運に恵まれていない選手」だったのだ。

私の評価では優秀選手にはバース、中田、西川に加えてメンドーサと大野を入れてやりたい。広島からは負の優秀選手に田中を入れ、同様に敗戦監督に緒方を入れて、敗戦責任投手コーチには畝も挙げて置きたい。広島は本拠地でのツキを札幌で一気に捨て去り、四連敗という無残な敗戦となった。私はこの辺りに勝敗を決めてしまう運の流れの怖さと、そのツキを腕で消してしまったあの負け方に、勝負の厳しさといやらしさを見せられたシリーズだったと思っている。

飽くまでも結果論だが、あの広島の負け方で「矢張りパシフィック・リーグの方が上だった」ということになってしまったのではないか。ではあっても、「通算で6日間楽しませてくれて有り難う。面白かった」と言って終わる。

ハロウイーンって何のこと?

2016-10-30 08:07:51 | コラム
「子供が仮装するお祭り」で大騒ぎ:

ハロウイーン(=Halloween)はOxfordには、冒頭の部分を省けば、掲題のカギ括弧内のように説明されていた。この習慣があるのはアメリカ、カナダとブリテンとなっていた。それも「10月31日に」と特定もされていた。それが、我が国というか東京では、あの渋谷での昨29日の晩からの仮装集団の大騒ぎである。

私は4月の復活祭(Easter)、ハロウイーン、感謝祭(Thanksgiving Day)にアメリカにいたことがある。誤解なきよう釈明しておけば「私は日本駐在員であったし、留学も駐在員の経験もなかったのでアメリカに住んでいたこともなく、短期と長期を含めて出張していただけだった。そして、確かハロウイーンだけは二度経験していた。

それは如何なるものかと言えば、当日に本社に出勤して多くの女性が奇妙な仮装をしているのを見て、それが初めてこのお祭りの一部だと知った。即ち、大人も仮装するのだった。我が副社長と当日に外出することになって他の事業部の中を抜けていくと、そこには普通の服装をした男性が4人で打ち合わせをしていた。すると彼は”Hey. You guys look great in your businessman’s costume.”と言って通り過ぎた。大受けだった。「ビジネスマンの仮装が良く似合っているじゃないか」なのだ、念のため。

2度目には当日にW社を訪問しておられた大得意先の常務さんを副社長の自宅に招待しで夕食会を催していた。玄関にはキャンデイーを一杯詰め込んだ大きなガラスの瓶が置かれていた。「なるほど、これか」と思って通り過ぎた。

宴たけなわの頃になって伝え聞く”Trick or treat”と大きな声で唱える仮装した子供たちの集団がやってきた。そこで食事を中断して玄関に出て適量のキャンデイーを配ってお引き取り願うのだが、そういう団体が何組かやってきて終わり、静かになった。それだけのことだった。それが我が国に輸入されるやあの第変貌振りである。

そこには、唐津一氏の説ではないが、「我が国には創造性が乏しいと自虐的な説を唱える者がいるがそれは誤りで、一旦我が国に輸入されるや原産国以上のものに改造・改良・進化させるの創造力があるではないか」を適用したくなるほどだ。

私は”Halloween”という英語からカタカナの「ハロウイーン」に仕立て上げて商業化し販売促進の一手段としたのは如何にも我が国らしくて結構だとは思う。創造力の表れかも知れない。だが、渋谷に良い年齢の若者が奇妙な仮装をして集い交差点で交通を妨害し、多数の警察官を動員させるだけでに飽き足らず、大量のゴミまで放置する乱行振りは到底評価できない愚行だと断じざるを得ない。しかも、昨夜は10月29日である。何とかイブすら当てはまらないのだ。これも「一億総HAKUCHI化」と言いたくもなる。

事の序でに振り返っておけば、復活祭はリタイヤー後に偶々その頃に本社を訪れた際に長年の馴染みだった女性のCustomer servicesのマネージャーに勧誘され、信者でもない私がプロテスタントの教会のミサに参加した。彼女は信者でなくても構わぬと言うので、思いきって行ってみた次第だった。それは「新教は形式に拘泥したない」と聞かされていたのとは全く異なる荘厳なもので、大いに感動させられた。本当に意外だった。

感謝祭は矢張り知らずに出張した間にその日が訪れたもので、サンフランシスコ営業所長に家に招待されて経験した。その晩は集まった家族全員と親戚の人たちと伝え聞く全ての行事に参加し、美味くないと聞いてはいた七面鳥の丸焼きをも味わった。その一家は全員が異なる楽器を演奏するので、その楽しいパーテイーも楽しみ「文化の違い」を十分に味合わせて貰えた。因みに、その晩はその築100年の家に一泊したのだった。なお、クリスマスの頃に出張したことはない。