新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

12月12日 その2 「グレタさん」と呼ぶのは?

2019-12-12 14:49:47 | コラム
グレタ・トウーンベリさんに思う:

TIMEの表紙を飾ったスウエーデンのトウンベリーさんについては畏メル友のYO氏は「近年、16歳のスエーデンの少女をヒロインみたいに扱うのは如何かと思います。」との感想を述べられ、RS氏は「グレタさんを見ると気分が悪くなるので見ないようにしています。あのような呪詛の塊のような少女はこれからどうなるのでしょうか?彼女は西側諸国を非難し、トランプ大統領を睨みつけたりします。」とコメントされた。私はお二方のご意見に同感です。

トウーンベリーさんが主張している事はその通りだろうかと思いますますが、16歳である事とあの“How dare you?”を物凄い形相で言ったことが余りにも印象的で、TIMEの表紙になってしまうまでの決定打にもなったようにすら見えました。そこに飛行機を利用しない移動方法も、勘ぐって言えば巧妙だったとすら言いたくもなります。

私はCO2問題と言いプラスティックスの劣化による微細化と言い、人類のオウンゴールだと思っております。時代というか事態は最早ストローを紙に変えた程度で追い付く次元にはないでしょう。我々は既に帰れない川を渡ってしまったのだと思います。例によって例の如くに余計なことを加えれば、メディアが「グレタさん」呼ばわりするのはおかしいのです。「グレタ」はファーストネーム(名前)であって、矢張りトウーンベリさんと言う名字を使う方が正確だと思うのです。グレタでは何処の誰とも特定しないのであるから。


COP25に思う

2019-12-12 10:03:11 | コラム
環境問題を考える:

実質的に1993年末まで勤務していた時を回顧すると、「環境問題」や「環境保護」と聞いただけで胸が悪くなる思いだった。それと言うのは、当時は環境保護団体やその論者たちが一斉に「紙パルプ産業界は貴重な天然資源である樹木を浪費している」という謂われのない批判を繰り返していたことがあった。その他にもダイオキシン問題が発生した際には、如何にも製紙産業がその主犯であるが如き(悪意に満ちた?)宣伝をして、我が業界を非難攻撃していたのだった。業界としての反論には耳を貸さずに、ダイオキシンの発生を抑える膨大な投資を強要されたのだった。

結果的には業界は彼らの言い分を飲まざるを得ない場面もあって、私の表現では「報われざるというか、絶対に利益を生まない大きな負担となる投資」をせざるを得ない事態に追い込まれたのだった。事態はそれだけに止まらず、アメリカでも使用済みの牛乳やジュースの紙パックと紙コップの回収を要求されるようになって、W社の本拠地であるワシントン州では州政府がその回収と再生を求めてきた。そこに我が副社長が立ち上がって「その事業は絶対に成果が挙がらないと実証してみせる」と宣言して、州内で言わば“full scale”での運動を開始した。

その試みは如何なる結果をもたらしたかと言えば、回収したパックやコップを溶かして再生原料にする設備を365日、24時間フル稼働させないことには採算が取れないので、使用済みの容器等を回収する為には東はアイダホー州、南はカリフォルニア州の北部までトラックを走らせて回収に回らざるを得ない事態となったのだった。アメリカの広さを思い浮かべていたけば解ることで、その範囲を走ることは膨大な輸送費がかかるのだった。それだけではなく、そうしてもフル稼働は難しかったのだった。

そこで、副社長は州知事に「我が社は輸送費を再生しているのと同じであり、その為に費やすエネルギーのコストを到底回収できない」と告げて理解を得て、使用済み紙パックと紙コップの回収再生運動が終わったのだった。ここまで長々と述べてきた理由と目的は「再生原料を作る事業は一般的に想像されている以上にコストがかかっているものである」という点にある。使用済みの言わば古紙となってものは「タダ」であると思って貰っては困るということだ。言うまでもないが人件費もかかっているのだ。

そこでCOP25だが、その場での討論は使用済みの牛乳パックとの再生とは次元も性質も違う、世界全体にとっての大問題である。グレタ・トウーンベリさんが色々と声を大にして主張される問題点については特に異議などない。だが、極めて遺憾な点がある。それは我が国の石炭を利用した火力発電が非難攻撃の的になっているのを、マスメディアが他人事のように報道していることだ。あの3.11の後で原発を止めさせ、規制委員会を設けたのは菅直人内閣ではなかったのか。その間抜け政治と規制が未だに尾を引いているだけのことではないのか。

私には小泉環境大臣が英語力を駆使して語るべき材料などありはしないではないかとしか思えない。現時点では5%にも満たないとか聞く原子力発電をどうやって活かしていくかの問題ではないのか。しかも、規制委員会が承認しても地元のご意向次第では延々と話し合いが続くだけのようでは、他国の非難の的になるのも仕方がないとしか思えないのだ。この件ではアメリカの出方にも疑問があるが、我が国では焦眉の急として、例えば「桜」以外にも国会で論じ合うべき課題ではなかったのかと思っている。菅直人と野党の連中は「電気がなくなっても良い」とでも認識しているのか。

現時点で直ちに全部の原子力発電所を動かしても、来年の夏場に今年のような未だ嘗てなかったような超大型の台風が襲って来なくなる訳ではないと思うが、事態は太陽光発電などでお茶を濁していられるところにはないと思う。立憲民主党などの旧民主党系が「桜」の揚げ足取りに拘泥するのは「この菅直人時代の旧悪」を暴かれることを恐れているからではないかと、私は本気で疑っている。げに厭らしきは環境問題である。