新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

しょうがない話

2019-12-09 14:31:54 | コラム
病気ばかりしていてしょうがない:

今年は昨年末から引き摺っていた蓄膿症が1月10日に、初めて診て頂いた高田馬場駅の直ぐ近所の耳鼻咽喉科の医院で「もう、これでおしまいにしましょう」と先生に言われて「あー、良かった。これで臭いがない世界から解放された」と一安心したのだった。だが、それも束の間で、その頃には食べ物を噛むと顔中というか頬の筋肉が痛んで非常に辛い状態に襲われていたのだった。これは簡単に何か一過性の筋肉痛か噛み合わせの不具合だろうとくらいに軽く考えていた。だが、一向に収まらず辛抱できなくなった頃に、丁度30年ほどの掛かりつけの歯科医医の予約の日が来た。

ところが、そこでの診断は「顎関節症」という未だに原因不明で確たる治療法がないとされているという病ということだった。その診断の根拠の一つが口を開いた際に耳の辺りで「カリッ」という音で「クリック音」と称されている音が聞こえれば本物であると聞かされたが、確かにその音は聞こえていたのだった。診断されるまでどのくらいの日数が経っていなかったか記憶はないが、この時には既に痛さに耐えかねてろくに噛めずに少しだけ食べるか、流動食のようなものしか食べられなくなっていた。その前に、蓄膿症の罹病中は臭いが無いものは不味くて食欲不振に陥っていた。

顎関節症と診断された時点では体重の減少にはほとんど注意していなかったが、これが実は後になって余病を発生させる原因となっていたと知るのだった。この顎の痛さの治療にはこれまでに何度も触れてきたように、その歯科医の先生の母校である昭和大学顎関節症治療科を紹介して頂いて直ちに通うようになった。治療法は1日3セットの顎の運動である事も紹介したので詳細は省くが、簡単なようだそれなりにきつい動作だった。その顎関節症は昭和大学顎関節症治療科で9月5日に「もう今日で終わりにしましょう」と告げられて無事に終わった。

そこで「やれ、良かった」と思ったが、その頃には既に体重が蓄膿症と顎関節症の発生以前と比較すれば、約10%の5~6 kg程が減少していた。ところが、その前後に何か声を出すとそれが自分の耳というのか何処というのか不明だが「ガーン」と響いて、自分がどれほどの声量で話しているのか判断できないような状態に襲われていたのだった。その感じは、私がほんの時々襲われていた飛行機に中で気圧の低下せいで耳がおかしくなる状態にも似ていた。そこで、偶々定期診断の日に国際医療センターの循環器科の主治医に症状を訴えてみた。

その先生の紹介で、何日かして耳鼻咽喉科の外来に伺った。担当の医師は診察を始める前に循環器科からの連絡を読んでおられたらしく「最近、体重が減っていないか」と尋ねられた。「5~6 kg程」と答えると、即刻「それは耳管開放症だと思う」と言われて、聴力等の検査があった後に確認された。しかも、因果なことにこの耳管開放症も確たる治療法がないようで、開放状態になっている耳管を閉じる為には体重を増やすしかないと告知された。要するに沢山食べろという、その頃では縮小していた私の胃袋にとっては難題だったのだ。食欲増進の為に処方されたは漢方薬だった。

それからというものは薬を呑むのもさることながら、頻繁に「ガーン」となる耳を抱えながら、何とかして沢山食べようと苦心するようになった。この「ガーン」という状態はいわゆる「耳抜き」をすれば一時的には消えるのだが、これは治療には逆効果であると禁じられた。それから約1ヶ月ほどは生まれて初めての体重を増やす為に沢山食べるという努力というか戦いが始まった。そして、ほぼ「ガーン」が聞こえなくなってきた10月7日の診察で「もう、これからは来なく良いです」と宣告されて耳管開放症から解放された。「やれ、嬉しや」だった。ではあっても、戻った体重は2 kgにも満たない程度だ。

だがしかし、その嬉しさは長続きしなかった。先週の12月4日に左手首に激痛が走るようになった。腕を動かしても何をしても痛むし、寝ていても左手の位置に注意していないと激痛で眠れなくなるほどだった。思い当たる原因もなく掛かりつけのクリックの休診日である木曜日は、辛さに耐えて過ごした。晴れて6日の金曜日の診断は「腱鞘炎」で痛みに耐えて消えるまで待っているしかないという事で、左肩にブロック注射を受けて、サポーターで固定して頂いたのだった。注射の効果で激痛はほぼ消えていたのは有り難かった。

本9日の再検査では当然かも知れないことで未だ完治しておらず、サポーターは痛みが消えるまで着用することと告げられ、矢張りブロック注射をして頂いて終わった。注意すべきは左手をついたりしないことと、無理に手首を動かすなという点だった。幸いにしてPCの操作程度は宜しいと許可されたのは、言わば不幸中の幸いかも知れない。何れにせよ、未だ先が長いようだが、今回の病気には「症」の字がついていないだけのことで、「しょうがないな」と思いつつ、ジムにストレッチとジェットバスに入りに向かったのだった。