新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

12月24日 その2 何時まで?

2019-12-24 16:31:06 | コラム
後何年墓参りに来られるか:

本24日は亡き父の祥月命日で巣鴨の染井霊園まで家内と共に、寒風吹きすさぶ中山道を歩いてお墓参りに出掛けた。思い起こせば、自動車の貰い事故で亡くなったのは昭和12年で、私が4歳の時であるから、何と82年目だった。染井霊園はJR巣鴨駅からかなりの距離を歩くので、家内がふと漏らしたのが掲題の台詞である。墓参を終えてから丁度消耗していた室内履きの靴下と下着を買いに折悪しくトゲ抜き様の縁日で大混雑の巣鴨の地蔵通りにまた歩いて行ったのだった。後期高齢者には一寸厳しい距離だった。

無事に大多数の人混みを掻き分けて買い物は出来たので、帰りには都営地下鉄を利用して新宿駅西口まで出て、銀行に寄って来年のカレンダーを貰い、漸く約4時間の強行軍を終えて帰宅した。朝から一寸不調だったので善くぞ耐え抜いたと自分を褒めてやって、ソファーに倒れ込んで休憩した。

そこで聞こえてきたのが、懸案の安倍総理と文大統領の会談は発表されたスケジュールでは30分間で、通訳の時間を考えれば両首脳の発言は7分半であるとの日テレの報道だった。それだけで何が言えるのかとやや落胆して、ドッと疲れが戻ってきた。長い一日になりそうだ。

自国を知らずして外国は語れない

2019-12-24 16:01:52 | コラム
我が国ほど良い国はない:

長年のつきあいがある商社マンと語り合った時に、彼はしみじみと「外国から帰ってくると、何時も我が国ほど良い国はないと痛感する」と言っていた。私からは「誠に同感でその通りである」と応じた。彼は中近東駐在の経験がある他に輸出入を担当して北アメリカ、東南アジア、中国等々と年中海外を回っていた国際派である。彼と更に意見が一致したことは「多くの外国にはそれぞれ良い点があって捨てがたいし、外国を経験すればするほど、我が国の良い点が見えてくるものなのだ」だったのだ。

私も1970年に初めて東南アジアの諸国を回って以来、アメリカの会社に転出してアメリカだけでも2012年までに恐らく60回以上は往復していたと思う。それに加えてアメリカ以外では確か19ヶ国を回っていたと思う。アメリカとは色々な意味で普通の方よりは幅広く深く慣れ親しんでいたと自負しているし、我が国との文化比較論などは数多く語り且つ書き物にもしてきた。だが、在職中には本部に出張してシアトル空港に降り立った時には「また何もかも違う国に来たのだ」と自らを引き締めて、これから起こるだろう事に備えていた。

それはどういうことを意味するのかと言えば「海外訪問の経験を積んで、あるいは一度でも良いから外国に出掛けて、我が国との違いを経験しておくことで、見聞が広まって我が国の良さが見えてくるものである」という点だ。別の表現をすれば「自国の文化を知らない事には(自分の足下を先ず見極めること)、諸外国の文化は見えてこない」なのである。「その外国が如何なる異文化を持っているかは一度だけ訪れても、その気になって観察すれば、必ず何かが見えてくるものだ」ということでもある。勿論、何度も繰り返して訪れるに越したことはないが。

私もアメリカの会社に転出してから数年後までは「何でこうなるのだろうか」とか「何という分からず屋ばかりの国なのだろうか」と悩まされ、苦しめられたものだった。いや、寧ろ「外国と我が国との間の文化と思考体系の相違があるなどは全く考えもせずに入って行った」とする方が正確かも知れない。物事は我が国とアメリかでは同じように起きるものだと無意識に考えていた。だが、アメリカ人たちも同じように軽く考えていたようで、“Things happen the same way in Japan as in the U.S.”と思っていたようだった。

以前にも回顧したが、「我が国とアメリカの企業社会における文化の違い」(英語の題名は“Japan Insight”だった)と題したプリゼンテーションを本部で全員に集まって貰って行ったのは、何とW社入社の15年も経った後だった。勿論、アメリカは魅力に溢れた良い国であって、初めて1972年8月にM社にトレーニングという顔見せで25日間も出張した時には、このまま永住しても良いなと真剣に考えたほど魅了されたのだった。だが、アメリカを知れば知るほど、同時に我が国の良さが見えてくるようになって、掲題の「我が国ほど良い国はない」に行き着いたのだった。

ここまで縷々述べてきたことは「兎に角、色々な意味で何処でも良いから外国を訪れて、出来る限り観察してくることだ」と言いたかったのだ。即ち、「外国を見てくれば、そこで何かを学ぶか知り得れば、それが貴方の視野と見識を広げることに繋がっていくのだ」なのである。古い言い方に「百聞は一見にしかず」(=“Seeing is believing.”)というのがあるではないか。「兎に角見聞を広めようではないか」が私の主張である。