興味深いものだった:
ボクシング:
先ずは先日の村田諒太(33歳)対カナダのバトラー(24歳)のミドル級のタイトルマッチ。挑戦者のバトラーというのが若いだけに、どれほど年齢の利点を活かして村田に向かっていくかとやや不安感があった。しかもアナウンサーが彼の30戦で1敗だけというのを強調し過ぎるのもイヤな感じだった。だが、当方は村田のKO勝ちを信じて観戦していた。確かに若さを誇るバトラーの右ストレートだかは強烈だったようで、試合後のインタビューでは村田の左目の周りは紫色になっていた。
しかし、村田は5ラウンドの45秒しか残っていなかったところで右からの連打に次ぐ左の強烈な一発をバトラーの顎に見舞って「ドカーン」というような音が聞こえたと思ったほどの倒れ方でバトラーをTKOで倒してくれた。見事な勝利で胸がすく思いだった。私はどうしても刺青の文化が広まっていない国に育ったので、あのバトラーのような背中に大きな彫り物があるような選手には嫌悪感を覚えて、我が国にその筋の者たちのお仲間かと思ってしまう。それはそれとして、村田諒太を褒めて良いと思う。
ここで話題を得意の分野である英語に持っていこう。以前にゴルフの(と断るまでもないか)石川遼がアメリカに渡って“ryo”と綴る名前はアメリカ人にはどうしても「リオ」としか発音できないのだと聞いたことがあった。私の経験の範囲内ではそういう問題が起きたことがなかったので、あの村田の試合に呼んだアメリカの著名なリングアナウンサー氏が“Ryota Murata“をどう発音するかに一寸興味があった。実際には何度も何度も「リオタ」としか言えていなかった。なぜそうなってしまうかは未だ調査も研究もしていない。
空手の組み手:
これも、つい先日偶々チャンネルが合って観戦した極真空手の選手権試合の組み手の決勝戦でのことだった。延長戦まで行っても旗判定では決着がつかずに板割りで決めようとなった。だが、これも確か両者が同じ20枚を割って再再再度の延長戦になった。門外漢の私にはあれほど強烈に突き合い蹴り合ったのに、よく痛みに耐えて戦えるものだとひたすら感心していた。「痛くないのか、耐えられるのか」という意味である。
そこでジムで知り合った空手をやっておられると聞いた礼儀正しい武道家に尋ねてみた。答えは「それは組み手で突きが当たれば痛いが、それを痛くないような顔をして耐えている。しかし、数多く当てられれば前半身が内出血していて試合後には耐えられないほど痛いもの。時には重傷でそのまま病院直行ということすらある。特に上段の蹴りなどがもろに当たれば失神しそうなことすらある。また板割りは流派によっても割り方に違いがある。また、板には目があるのでその重ね方で目が不揃いだと割りにくい場合もあるもの」となっていた。
武道である空手をボクシングと比較するのは適切な見方ではないかも知れない。だが、かたや上半身裸で革製のグラブを嵌めて打ち合う方にはノックダウンがあるのに、道着を着用して素手で打ち合う空手では「痛さに耐えて突き合い蹴り合っていると負傷者が出てしまうこともある」という辺りが武道の特徴であると思って承っていた。同時に感じたことは、空手の方には我が国(琉球と言うべきか?)の精神主義が良い意味で濃厚に現れているという点である。礼に始まり礼に終わるという点もその特徴であろうか。