新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

故野村克也氏を惜しむ

2020-02-12 07:51:53 | コラム
解説者/評論家としての野村克也氏を惜しむ:

私は野村氏を数少ない「言うべき事を素直にそのまま言ってくれる、数少ない解説者乃至は評論家」として高く評価し、非常に信頼してきた。彼の名評論の中に今年からMLBに行くことになった横浜の強打者(なのだろう)筒香嘉智を評して「彼に野球とは何かと尋ねれば、恐らく答えられないだろう」と決めつけたのが忘れられない。私は「何も考えずに野球をやっている」という意味だと解釈した。それは、野村氏は「考えて野球をやれば弱いテイームでも勝てる」と言っていたと承知していたから、そう解釈できたのだった。

「それでは、貴殿は野球とは何だと思っているのか」と突っ込まれると弱いが「野球とはモメンタムのスポーツであると同時に、反射神経が重要な競技だ」という辺りしか答えられまい。そこに、「では、サッカーとは」と切り込まれれば、中学から高校の頃に教えられた「アンテイシペーション(=anticipation)の競技である」と答える。心は「次に何か起きるかを正しく予測して動くこと」と言うだろうと思っている。現代の我が国のサッカー選手たちには、この点が欠如していると見えるのが残念だ。

ここは野村克也氏を惜しむ話だった。今やテレビや新聞等に登場する無数の解説者(評論家に域にある者は遺憾ながら極めて希だ)たちは先ず選手たちを批判するとか貶すことをせずに「良いプレーでした」などと褒めることが主体だ。だから、私は彼等を「その競技の説明者であるだけで、とても解説者などとは呼べない」と非難してきた。だが、あるフットボールのXリーグでコーチ等の要職にあった者に言わせれば「同じ競技の世界にいて仲間を貶せばそこに居場所がなくなるので、どうしても無難なことを言うしかないのだ」なのだそうだ。解る気はするが、情けないと思った。

その居場所という意味では日本シリーズを何度も制覇した実績を持つ野村元監督は年齢層も違うことでもあり、言いたいことと言うべき事が言える地位にあると解釈していた。その点では、私が数少ない常に言うべき事をズバリと言ってこられた広岡達朗氏も立派な評論家と解説者だったと評価している。「だった」と言うのは、最早広岡氏が残念ながら何処に登場されなからだ。ズバリと言えるほどの実績がある人としては他に故金田正一氏と、張本勲氏辺りしかないと思う。後は極端に言えば「オベンチャラ説明者」ばかりだ。

彼等に同じ競技界の仲間に気を遣わないで言うべき事を言わない風潮があるから、昨日も採り上げたように読売巨人軍の二軍監督に就任した阿部慎之助が熱血指導のノックをしたなどという時代遅れのキャンプ情報が飛び出してくるのだ。あの熱血指導を野村氏が見られたら何と言われたかだ、真っ向から斬って捨てて貰いたかった。本当に惜しい人を失ったものだと思う。

話は変わるが、亡くなった原因を「虚血性心不全」と報じられているが、私はほぼ「心筋梗塞」だったのではないかと思っている。他にも勿論「虚血」を起こす原因はあるが、私は独居する高齢者が心筋梗塞を起こせば、自分の経験から見ても、どうにも助けを求めることが出来ないと考えている。しかも、心筋梗塞を予知するのは難しいし、梗塞があるか否かはカテーテルの検査でもして見なければ発見できないのではとも考えている。何処も何ともない人が病院に行って「カテーテルで冠動脈の検査をお願いします」とお願いするのは通用しないのではと懸念する。

野村氏は風呂の中におられたと報じられていたが、私は1度目の心筋梗塞の後は「シャワーは良いが、入浴は心臓に水圧かかかるから無理に入浴しないように」と主治医に厳重に注意された。その警告には退院後ではかなりの間素直に従っていた。それでも、7年目に2回目が起きた。野村氏は金田正一氏をしのぶ会に出られたときには車椅子だったし、かなり弱っていたと見たが、血圧対策の治療は受けておられなかったのだろうか。