外国と外国人を有り難がるな:
新型コロナウイルス性肺炎の騒動に圧されたので、中々それ以外の話題にまで手が回らず放置していたが、本日はその掲題のようなことを論じてみようと思う。ご記憶の方がおられれば有り難いが、私はこれまでに繰り返して嘗てシアトルからの帰りの機内で隣の席に来合わせた某大手企業のアメリカ支社長(同胞である、念の為)と語り合い議論した際に、「アメリカ人には100人に1人くらいしかまともな者がいない」という結論に達した」と述べてきた。この言外の意味は「決して彼らの平均的知的水準は我々よりも高くないのでは」なのである。
これは永年彼等の中で共に仕事をしてきたからこそ言えることだと思う。そういう点ではアメリカ人ほど密接に接してこなかったヨーロッパの連中にしても、大同小異だと判断して間違いないと思っている。もしも彼等アメリカ・ヨーロッパの人たちと我々と違う点があるとすれば、彼等の中に1%しかいないとの結論に達した優れた者」たちの中には本当に「この人物とは勝負できないな」と痛感させられたような図抜けた切れ者というか、出来物がいることだろうか。私が転進したときのW社の#2の上席副社長は36歳でその地位にのし上がっていた。凄い切れ者だった。
私は永年彼等アメリカ人の会社の中で彼らの一員として働いてきた経験からも言えることは「アメリカの会社ではその天才的とでも言えるような優れた人物が、年齢に関係なく上に立って組織と言うか残る99人を引っ張って、会社か事業部を管理・運営しているのだ」という点だろう。このことのコインの裏側は「その優れ者が転ければ、引っ張ってこられた99人も共倒れになるという危険性も秘めていること」なのだ。
私は彼等アメリカ人の中で過ごしてみて痛感したことは「我が国はアメリカとの戦争に敗れ、進駐軍に意図的にバラバラにしようとされたことも手伝って、戦後の何年かはアメリカ乃至はヨーロッパの国と比較した場合に「後進国」だった時期があった。更に戦後にイヤと言うほど見せつけられたアメリカの物質文明の豊かさに、アメリカ人及びヨーロッパ人を何か仰ぎ見る存在の如くに崇め奉っていたのではないかと思っている。換言すれば「彼らの方が上であり、彼等に認められてこそナンボ」のような考え方があるのではと思わずにはいられなかった。誤解だし、ご認識だ。
現在の新型コロナウイルス性肺炎に対する関心の高さの中でついつい採り上げるのが遅れたが、私はマスメディアにはその要らざる外国及び外国人崇拝の傾向が濃厚だと痛感している事例に「ミシュランの星獲得」があると見ている。確か小林圭というパリでレストランを営んでいる料理人が三つ星を与えられたと言って数日間「さー、喜べ、有り難がれ」という報道が続いたのだった。美談仕立てだった。確かにその料理人は良い仕事をしたのだろうが、それがそんなに有り難く涙を流さんばかりに感動することかとも言いたくもなる。
換言すれば「フランスの会社から星を三つ貰えたから有り難いので、我が国の然るべき機関があり、そこから与えられてもあれほどマスコミが騒ぎ立てるのかと言うこと。外国人に評価されることがそれほど有り難いのかとも言いたくなる。私は在職中には有り難いことに多くの我が国の有名なフラン料理店で食事をする機会を与えられたが、何れもあらゆる点で素晴らしいと思った経験がある。和食の料理店でも星五つくらいに評価したいところは何店もあった。でも、彼らマスコミはミシュラン様のご評価を待つのだ。
それと同日に論じれば、受賞された先生方や学者の方々に失礼に当たるかと危惧するが、マスコミのノーベル賞受賞に対する騒ぎ立て方も度を超していると思う。例えば、簡単に言えば彼等は「さー。よく見てご覧。吉野彰氏は我々が仰ぎ見て崇拝しているスウエーデンのノーベル賞委員会に有り難くも評価され、賞を与えられたのだ」と言っているのと同じだと思う。勿論吉野彰氏の功績は偉大である。だが、彼らマスコミはノーベル賞受賞して初めて評し始めるのだ。彼等は自力で自国の優れた業績を残された方の評価すら出来ないではないか。
私には彼らの外国と外国人を仰ぎ見ているとしか見えない姿勢がおかしいのだとしか思えないのだ。嘗ては「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と褒めたれられた時期もあった。だが、それも外国人に賞賛されて初めてその優れた点が解るのでは、お粗末ではないのか。私は長い間彼等の中で過ごしてきて「我々がどれほど優れているか。アメリカやヨーロッパの人たちに決して劣ってなどいない」と実感したからこそ言うのだ。マスコミにも海外に出ている者は数多くいるが、彼等が見た外国は「外から見た外国」であって、私のように「内側から見た」訳ではないと言い切る。
我々日本人がビジネスの面で、学問の世界で、スポーツの面で外国に進出して立派な実績を挙げるのは当たり前の時代に入ったと私は確信している。戦後間もなくの頃には「喜んで下さい。我が社の製品もアメリカに輸出できるまでに認められるようになりました」と言って喜びに沸いていた会社もあった。今は「アメリカの製品でも輸入しても使える」という時代である。マスコミも好い加減に目を覚まして、外国と外国人を有り難がる姿勢から脱出して欲しい」と思う。序でに言って置くが「ノーベル賞にノミネート」というのは止めて「推薦されました」に変更せよ。
新型コロナウイルス性肺炎の騒動に圧されたので、中々それ以外の話題にまで手が回らず放置していたが、本日はその掲題のようなことを論じてみようと思う。ご記憶の方がおられれば有り難いが、私はこれまでに繰り返して嘗てシアトルからの帰りの機内で隣の席に来合わせた某大手企業のアメリカ支社長(同胞である、念の為)と語り合い議論した際に、「アメリカ人には100人に1人くらいしかまともな者がいない」という結論に達した」と述べてきた。この言外の意味は「決して彼らの平均的知的水準は我々よりも高くないのでは」なのである。
これは永年彼等の中で共に仕事をしてきたからこそ言えることだと思う。そういう点ではアメリカ人ほど密接に接してこなかったヨーロッパの連中にしても、大同小異だと判断して間違いないと思っている。もしも彼等アメリカ・ヨーロッパの人たちと我々と違う点があるとすれば、彼等の中に1%しかいないとの結論に達した優れた者」たちの中には本当に「この人物とは勝負できないな」と痛感させられたような図抜けた切れ者というか、出来物がいることだろうか。私が転進したときのW社の#2の上席副社長は36歳でその地位にのし上がっていた。凄い切れ者だった。
私は永年彼等アメリカ人の会社の中で彼らの一員として働いてきた経験からも言えることは「アメリカの会社ではその天才的とでも言えるような優れた人物が、年齢に関係なく上に立って組織と言うか残る99人を引っ張って、会社か事業部を管理・運営しているのだ」という点だろう。このことのコインの裏側は「その優れ者が転ければ、引っ張ってこられた99人も共倒れになるという危険性も秘めていること」なのだ。
私は彼等アメリカ人の中で過ごしてみて痛感したことは「我が国はアメリカとの戦争に敗れ、進駐軍に意図的にバラバラにしようとされたことも手伝って、戦後の何年かはアメリカ乃至はヨーロッパの国と比較した場合に「後進国」だった時期があった。更に戦後にイヤと言うほど見せつけられたアメリカの物質文明の豊かさに、アメリカ人及びヨーロッパ人を何か仰ぎ見る存在の如くに崇め奉っていたのではないかと思っている。換言すれば「彼らの方が上であり、彼等に認められてこそナンボ」のような考え方があるのではと思わずにはいられなかった。誤解だし、ご認識だ。
現在の新型コロナウイルス性肺炎に対する関心の高さの中でついつい採り上げるのが遅れたが、私はマスメディアにはその要らざる外国及び外国人崇拝の傾向が濃厚だと痛感している事例に「ミシュランの星獲得」があると見ている。確か小林圭というパリでレストランを営んでいる料理人が三つ星を与えられたと言って数日間「さー、喜べ、有り難がれ」という報道が続いたのだった。美談仕立てだった。確かにその料理人は良い仕事をしたのだろうが、それがそんなに有り難く涙を流さんばかりに感動することかとも言いたくもなる。
換言すれば「フランスの会社から星を三つ貰えたから有り難いので、我が国の然るべき機関があり、そこから与えられてもあれほどマスコミが騒ぎ立てるのかと言うこと。外国人に評価されることがそれほど有り難いのかとも言いたくなる。私は在職中には有り難いことに多くの我が国の有名なフラン料理店で食事をする機会を与えられたが、何れもあらゆる点で素晴らしいと思った経験がある。和食の料理店でも星五つくらいに評価したいところは何店もあった。でも、彼らマスコミはミシュラン様のご評価を待つのだ。
それと同日に論じれば、受賞された先生方や学者の方々に失礼に当たるかと危惧するが、マスコミのノーベル賞受賞に対する騒ぎ立て方も度を超していると思う。例えば、簡単に言えば彼等は「さー。よく見てご覧。吉野彰氏は我々が仰ぎ見て崇拝しているスウエーデンのノーベル賞委員会に有り難くも評価され、賞を与えられたのだ」と言っているのと同じだと思う。勿論吉野彰氏の功績は偉大である。だが、彼らマスコミはノーベル賞受賞して初めて評し始めるのだ。彼等は自力で自国の優れた業績を残された方の評価すら出来ないではないか。
私には彼らの外国と外国人を仰ぎ見ているとしか見えない姿勢がおかしいのだとしか思えないのだ。嘗ては「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と褒めたれられた時期もあった。だが、それも外国人に賞賛されて初めてその優れた点が解るのでは、お粗末ではないのか。私は長い間彼等の中で過ごしてきて「我々がどれほど優れているか。アメリカやヨーロッパの人たちに決して劣ってなどいない」と実感したからこそ言うのだ。マスコミにも海外に出ている者は数多くいるが、彼等が見た外国は「外から見た外国」であって、私のように「内側から見た」訳ではないと言い切る。
我々日本人がビジネスの面で、学問の世界で、スポーツの面で外国に進出して立派な実績を挙げるのは当たり前の時代に入ったと私は確信している。戦後間もなくの頃には「喜んで下さい。我が社の製品もアメリカに輸出できるまでに認められるようになりました」と言って喜びに沸いていた会社もあった。今は「アメリカの製品でも輸入しても使える」という時代である。マスコミも好い加減に目を覚まして、外国と外国人を有り難がる姿勢から脱出して欲しい」と思う。序でに言って置くが「ノーベル賞にノミネート」というのは止めて「推薦されました」に変更せよ。