カタカナ語排斥論者はリアルに嘆く:
先ず「文科省とこの世の英語教師たちは何をしているのか」と問いかけて、自分で答えてしまえば「彼等は何も英語教育に役に立つことはやっていないのだ」となった。この点は後でまた触れようと思う。
近頃はドンドン新手のカタカナ語(と私は言うが、使っておられるご当人は習い覚えた英単語の知識を駆使しているつもりだろう)が増えてくるのには、本当に辟易させられている。何度でも言うが「そこに英語擬きを使って表現する必要もなければ、必然性もない」のである。私は「単語」、「単語」と言って騒ぐ我が国の英語教育を散々批判してきた。今回も同じ事を言うだけ。
その単語集の最初に出てくるのが、“abandon”だったと思う。私の長い間の英語の世界での暮らしの中で、アメリカでTIMEだったかに“abandonment”という単語が使われているのを発見したときには「やったー」と叫んだほどだった。我が生涯最高の上司である副社長が屡々使っていた“Are you ready for this?”を活かせば「昭和20年(1945年)4月から英語を学び始めて、1994年1月末でリタイアする間の49年間にたった一度出会った“abandon”だった。如何に単語を覚えることが無駄かと言いたいのだ。折角努力して多くの単語を覚えたのだから、使いたくもなるだろう。
近頃目立つ(耳立つと言う方が正確か?)のが「ピンポイント」だ。何かにつけて出てくるのだ。思うに「正確にその細かい点をついて行く、乃至は狙っていく」と言いたくて使われているようだ。何処の何方が使い始めたのか知らないが、私は浅学非才にして“pinpoint”という言葉を使えたことがなかったし、アメリカ人から言われたこともなかった。そこで、慌ててOxfordに訊いてみた。それは何と動詞で、“to find and show the exact position of ~ or the exact time that ~ happened”というのが出てきた。
名詞としては“a very small area of ~ especially light”となっていた。形容詞ならば“if ~ is done with pinpoint accuracy, it is done exactly and in exactly the right position”だった。お陰様で私にはこう言う元の英語の意味の何処を採って使っているのかは、かえって解らなくなった。ジーニアス英和には「本質、原因などを正確に指摘(記述)する、正確に把握する」という動詞の意味が最初に出てくる。次に「正確な位置を示す」が出てくる。余計に解らなくなってしまった。恐らく2番目の応用編で「正確に指し示す」と言いたいのだろうと思いたいが如何か。
次が「リアル」(real)なのだが、これも既に何度も採り上げた「トラブル」(trouble)と同様で、あれほど乱用というか多用されては「さて、realの本来の意味は何だったか」と悩んでしまうのだ。出川哲朗等が愛用するのを聞いていると「本気で」とか「実に本当に」と言いたいときに使っているのだ。勿論、他の芸人も同様だ。そこで、先ずジーニアス英和を引いてみれば、先ず出てきたのが「実在の、創造ではなく現実の」が出てきた。「なるほど、そうだった」と思った。次は「人工ではない、正真正銘の、本物の」とある。
では、頼りにしているOxfordには何と出ているのか。“actually existing or happening and not imagined or pretended”となっていた。ジーニアス英和に最初に出てきたのと同じだと思う。それがどうして「本当だ」という意味で使われてしまうようになったのだろう。私は矢張り「単語」をバラバラに覚えさせて、流れの中でその遣い方を教えていない為に、マスコミの常套手段のように「都合の良いところだけを切り取って使ってしまうのだ」と見ている。こんなカタカナ語は一刻も早く止めることだ。
参考にはならないと思うが、アメリカ人が使う“real”の例を一つだけ挙げておこう。想像もつかない使われ方だと思う。“How are you doing, today?”に答えて“Real good. Thanks.”のようになってしまうのだ。この“real”の意味は何でしょうか。文法的におかしいとは思いませんか。これが俗に言う「生きた英語」なのだ。だから言うのだ。「無闇に単語を日常会話の中に遣いなさんな」と。
今日までに繰り返して非難してきたことで、「テレビ局は妙なカタカナ語を乱用するし、そこに登場される学識経験者であると思われる専門家が平気で『フリップ』などという誤ったカタカナ語を使われるのは信じ難いのだ。私は専門家の方々は「出して貰えた事を多として本当はせめて『フリップチャート』であるものを妥協して「フリップ」と言い、恥ずかしくもなく『セキュリティ』などという誤った発音のカタカナ語を使うのだ」と邪推している。まさか専門家が本当に英語をご存じないとは思えないのだ。
私が見る限りでは新聞の投書欄などにはカタカナ語の乱用を嘆く比較的高齢の方のご意見を見るときがあるし、小池都知事の知ったかぶりとしか言いようながないカタカナ語を嫌悪する投書もある。だが、遺憾ながら当方も含めて少数派の意見に過ぎない。私はこの世の英語教師たちには「おかしなカタカナ語が乱れ飛んでいることが自分たちが碌な英語を教えていないことの好ましからぬ成果だと思うことがないのか。『トラブル』が英語の世界では「揉め事」として使われないと承知していないのか。一度で良いからOxfordを引いてみろ」と言ってやりたい。
先ず「文科省とこの世の英語教師たちは何をしているのか」と問いかけて、自分で答えてしまえば「彼等は何も英語教育に役に立つことはやっていないのだ」となった。この点は後でまた触れようと思う。
近頃はドンドン新手のカタカナ語(と私は言うが、使っておられるご当人は習い覚えた英単語の知識を駆使しているつもりだろう)が増えてくるのには、本当に辟易させられている。何度でも言うが「そこに英語擬きを使って表現する必要もなければ、必然性もない」のである。私は「単語」、「単語」と言って騒ぐ我が国の英語教育を散々批判してきた。今回も同じ事を言うだけ。
その単語集の最初に出てくるのが、“abandon”だったと思う。私の長い間の英語の世界での暮らしの中で、アメリカでTIMEだったかに“abandonment”という単語が使われているのを発見したときには「やったー」と叫んだほどだった。我が生涯最高の上司である副社長が屡々使っていた“Are you ready for this?”を活かせば「昭和20年(1945年)4月から英語を学び始めて、1994年1月末でリタイアする間の49年間にたった一度出会った“abandon”だった。如何に単語を覚えることが無駄かと言いたいのだ。折角努力して多くの単語を覚えたのだから、使いたくもなるだろう。
近頃目立つ(耳立つと言う方が正確か?)のが「ピンポイント」だ。何かにつけて出てくるのだ。思うに「正確にその細かい点をついて行く、乃至は狙っていく」と言いたくて使われているようだ。何処の何方が使い始めたのか知らないが、私は浅学非才にして“pinpoint”という言葉を使えたことがなかったし、アメリカ人から言われたこともなかった。そこで、慌ててOxfordに訊いてみた。それは何と動詞で、“to find and show the exact position of ~ or the exact time that ~ happened”というのが出てきた。
名詞としては“a very small area of ~ especially light”となっていた。形容詞ならば“if ~ is done with pinpoint accuracy, it is done exactly and in exactly the right position”だった。お陰様で私にはこう言う元の英語の意味の何処を採って使っているのかは、かえって解らなくなった。ジーニアス英和には「本質、原因などを正確に指摘(記述)する、正確に把握する」という動詞の意味が最初に出てくる。次に「正確な位置を示す」が出てくる。余計に解らなくなってしまった。恐らく2番目の応用編で「正確に指し示す」と言いたいのだろうと思いたいが如何か。
次が「リアル」(real)なのだが、これも既に何度も採り上げた「トラブル」(trouble)と同様で、あれほど乱用というか多用されては「さて、realの本来の意味は何だったか」と悩んでしまうのだ。出川哲朗等が愛用するのを聞いていると「本気で」とか「実に本当に」と言いたいときに使っているのだ。勿論、他の芸人も同様だ。そこで、先ずジーニアス英和を引いてみれば、先ず出てきたのが「実在の、創造ではなく現実の」が出てきた。「なるほど、そうだった」と思った。次は「人工ではない、正真正銘の、本物の」とある。
では、頼りにしているOxfordには何と出ているのか。“actually existing or happening and not imagined or pretended”となっていた。ジーニアス英和に最初に出てきたのと同じだと思う。それがどうして「本当だ」という意味で使われてしまうようになったのだろう。私は矢張り「単語」をバラバラに覚えさせて、流れの中でその遣い方を教えていない為に、マスコミの常套手段のように「都合の良いところだけを切り取って使ってしまうのだ」と見ている。こんなカタカナ語は一刻も早く止めることだ。
参考にはならないと思うが、アメリカ人が使う“real”の例を一つだけ挙げておこう。想像もつかない使われ方だと思う。“How are you doing, today?”に答えて“Real good. Thanks.”のようになってしまうのだ。この“real”の意味は何でしょうか。文法的におかしいとは思いませんか。これが俗に言う「生きた英語」なのだ。だから言うのだ。「無闇に単語を日常会話の中に遣いなさんな」と。
今日までに繰り返して非難してきたことで、「テレビ局は妙なカタカナ語を乱用するし、そこに登場される学識経験者であると思われる専門家が平気で『フリップ』などという誤ったカタカナ語を使われるのは信じ難いのだ。私は専門家の方々は「出して貰えた事を多として本当はせめて『フリップチャート』であるものを妥協して「フリップ」と言い、恥ずかしくもなく『セキュリティ』などという誤った発音のカタカナ語を使うのだ」と邪推している。まさか専門家が本当に英語をご存じないとは思えないのだ。
私が見る限りでは新聞の投書欄などにはカタカナ語の乱用を嘆く比較的高齢の方のご意見を見るときがあるし、小池都知事の知ったかぶりとしか言いようながないカタカナ語を嫌悪する投書もある。だが、遺憾ながら当方も含めて少数派の意見に過ぎない。私はこの世の英語教師たちには「おかしなカタカナ語が乱れ飛んでいることが自分たちが碌な英語を教えていないことの好ましからぬ成果だと思うことがないのか。『トラブル』が英語の世界では「揉め事」として使われないと承知していないのか。一度で良いからOxfordを引いてみろ」と言ってやりたい。