新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月18日 その2 学校教育では教えられていない英語の分類 #1

2020-07-18 14:18:24 | コラム
英語の言葉を分類すれば:

私は我が国の学校教育の至らなさを批判し続け、私独特の勉強法を語り、それがどれほど効果を上げたかの実例も採り上げてきた。だが、所詮は犬の遠吠えの如きで、何年経っても我が国の英語教育には何の変化もないどころか、その強化の為に小学校の3年から教えるなどと戯言を言い出す始末だ。

私は何も実用性に重きを置いて教えなさいなどと言っているのではなく「英語という言語を本来のEnglishとはかけ離れた科学の一種として扱うのではなく、英語そのものを広範囲に基礎から学ばせ、『単語』だの『文法』だの『英文和訳』だの『英作文』というようにバラバラにしないようにすれば、結果として自然と実用性も備わってくる」と主張しているのだ。

そこで、今回は学校教育では教えられていないと看做している、文法上に言う「品詞」ではなく、英語の世界に入ってみれば日常的に使われている口語体であり会話の中にごく普通に出てくる慣用句等の言葉を私流に分析し分類して採り上げて、“English”とは如何なるものかを論じようと考えたのだ。この分類は少々長くなるので、2回に別けることにするのでご了承を。以前にも見たと言われる方もおられるだろうが、内容は少し変えてある。

英語の言葉の分類:

ここに採り上げるのは、文法に言う「品詞」(=“a part of speech”)である名詞や動詞等ではなく、文法とは異なる私式の分類の仕方である言葉の種類を解説してみようというものである。具体的には「口語」=Colloquialism、Spoken language、「俗語」=slang、(俗語、専門用語、隠語、符丁等)、「慣用語句」=idiom、(成句、熟語)、「汚い言葉」=Swearword、(罵り言葉)を私が知る限り説明してみようという狙いで、かなりな難しい課題だとは思うが、敢えて挑戦してみようと思う。

慣用句(idiom)と口語(colloquialism):
実は正直に言って、私には未だにこの二つの分類は困難で、その境界線を何処で引くかが明確には解っていないのである。だが、そうとは言っていられないので、この際「間違ったらご免なさい」で分類していくことにした。

Idiomとは:
「慣用語句」とも訳されている。実際にこれを読んだり会話中に聞かされたりしても、直ちに「今、“idiom”が出てきた」と感じるようなものではないと思う。Oxfordには”A group of words whose meaning is different from the meanings of individual words”とあり、Websterには”An expression that cannot be understood from the meanings of its words but must be learned as a whole”となっている。即ち、慣用語句の中の言葉一つ一つの単語の意味が分かるかおよその見当がついても、その句(phrase)全体の意味はほとんど把握できないので困るのだ。だから一つの言葉の流れと捉えて、全体を覚えよ」ということが肝要なのである。私はこれが英語の実用性を知る為にも極めて重要な点だと思っている。

そこで慣用句の例を挙げてみよう。

He gave in.=「彼は屈服した」

He burnt his bridge (boat). =「彼は退路を断った」

He saw the handwriting on the wall. =「悪い兆候が見えた」、「悪いお知らせだった」

I was between the devil and the deep blue sea. =「進退窮まった」

Let’ get the show on the road. =「さー、仕事を始めよう」、「さー。出掛けようぜ」

It’s a piece of cake. =「朝飯前だ」なのだが、“cinch”も“It was a cinch.”の様に使われている。ジーニアスは“No sweat!” も例に挙げている。
How come you put up with such a bad treatment against you? では“put up with”は「我慢する」か「耐える」の意味である。
A Mr. Jones came into the picture out of the blue. =「ジョーンズなる者が突然登場した」という意味で、out of the blueが「突然」であり「青天の霹靂」に似ている点が面白い。come into the pictureは「登場する」と意味で使われている。

It’s your baby. これは「君が責任を持つ仕事だ」という意味なのだが、このbabyの遣い方が難しいので、俗語に分類している辞書もある。即ち、babyには俗語として「厄介な役目、責任、関心事」という意味がある。

私が好んで採り上げてきた例にJohn DeLorean1979年に上梓した“On a clear day you can see General Motors”(邦題;ある晴れた日にGMが見える)がある。私は最初には翻訳本を買った。すると「それは本社の赤ん坊である」という文章が出てきた。その場でこれは誤訳だと解った。恐らく翻訳を担当された方はbabyが上記のように日常的に使われているとご存じではなかったのだろうと察しがついた。そこで読むのを止めて、直ぐに巡ってきた本部出張の際にシアトルの本屋で原書を購入した。元の英文は記憶が正しければ“it’s a corporation’s baby.”だった。一言述べれば「だから、翻訳は怖い仕事なのだ」となる。

次は、私はこれが慣用句かどうか判断出来ないが、「一方通行出口」に行くとWrong wayとなっているのが非常に興味深かった。Wrongの使い方では、アメリカ人は日本に来て「右ハンドル」の車を見てSteering wheel is on the wrong side.と言ったのには驚かされた。「ハンドルが誤った方についている」と言っていたのだから。

Colloquialismとは:
「口語」のことである。Oxfordには“A word or phrase that is used in conversation but not in formal speech or writing.”とある。私は文語の反対語で話し言葉くらいかなと考えている。即ち、信頼するに足る大修館の辞書「ジーニアス」には反対語は”literary”となっている。私はこれと慣用句の区別は難しいと考えているが。そこで、私が思う例文は

I will take a rain check.=「次の機会にします」これはジーニアスには「雨天順延券」となっており「招待などを次の機会にはお受けします」と解説している。“rain check”を入場券から切られた後の半券のことと考えれば解りやすいか。

I’ll sleep on it. =「今晩一晩考える」

Let’s hit the sack.=「さー、寝よう」

Hang in there! =「頑張れ」である。中国語では「加油」と書くと「頑張れ」になるようだが、油を加えると頑張れるというのが面白い。この発音は「ジャーヨー」と聞こえる。

How are you getting along in this hot weather? =「暑さに中で頑張っているかい」とでも言うか。

少し長い文章になるが、

Thanks a million for your kindness extended to me when I visited the United States last time. =「前回訪米した時の歓迎に感謝する」とでもすれば日本語の訳になるか。例文の“Thanks a million”以下は話し言葉であり、これを固い語体に書き換えればいくらでも言い方はあるが、
Let me take this opportunity to express my most sincere appreciation to you for your kindness and hospitality, during my last visit with the United States of America.
もその一例になるだろう。これは所謂“Thank you letter”に屡々登場する決まり文句のようなもので、日常的にはこういう話し方はしない「文語体」だ。なお、私はアメリカ人が日常的に使う“I’m gonna ~.”(I am going to ~.”の省略)であるとか、“I wanna ~.”(I want to ~.の短縮形)も口語の内だと考えている。こういう言い方をチャンと英語で話せない段階で使うべきではないと思っている。

同様に広く使われていると思う例に“Me, too.”がある。これは言い換えれば“The same here.”か”I think so, too.”辺りになるだろうが、この言い方は文法的に誤りでありアメリカの所謂支配階層では蔑まれる語法だと知るべした。
(続く)

7月17日のPrime Newsより

2020-07-18 09:21:47 | コラム
私の興味と関心は登場するゲストの品定めにもある:

17日のPrime Newsは見出しの点から見れば、とても楽しめる一時だった。偶々というか何と言うが、半分裏番組である「報道1930」が事もあろうに読売の野球中継をしてくれたので、心置きなくPrime Newsに専念できた。

ゲストの中で最も私の興味を惹いたのがデイビッド・アトキンソン氏である。UKの人である彼の日本語の見事さは「俺の英語の全盛時代でも負けるかな」と思わせるほどの領域にある。つくづく我が国の英語教育の至らなさを、彼の話を聞く度に情けなく思っている。昨夜の彼の発言を思い出すままに列記してみようと思う。

先ずは「Go to キャンペーン」から東京を外したこと。彼は「0.06%にしかならない東京でも感染者の発症率の為に、1,400万人をアウトにした考え方が面白い」と極めて真面目な表情で皮肉ったのだった。私はこのアトキンソン氏の視点には虚を突かれた思いがあったと同時に、ゴールドマンサックスだたかに在籍されたエコノミストらしさを痛感させられた。彼等ならばこういう見方をするだろうと事は、永年アメリカ人の中で過ごしてきた者としては不思議ではないし、我々にはこういう分析をする思考体系と言うか傾向は余りないと思った。

そう聞かされて東京都内の危険な場所の代表格である歌舞伎町を抱えた新宿区の感染者率を17日時点で計算してみた。少し大雑把になるか1.296人に対して新宿区の6月の人口が347,014人だったのだから、その率は何と0.37%と100人に1人にも満たないのだ。だが、アトキンソン氏流に見れば、健全なはずの残る34万人が「アウト」になる危険性を秘めていることになる。我が国全体でどれほどの人数が新たな感染の危険性を残しているかは、不要不急の時間をお持ちの方は試しに算出してみて頂きたい。

アトキンソン氏は小西美術工藝社の社長を務めておられるが、その外国人独得の我が国の分析と、かなりきつい評価のほどは何回かPresident紙上で読んできたので、何を言われるかはおよそ見当がつく。だが昨夜の「0.06%」にはやや意表を突かれた。彼は我が国の中小企業の過保護が「労働生産率を世界最低の水準まで引き下げている(38位だったかで韓国よりも2位低いのだ)と批判し続けている。その持論は「極端に言えば過保護を止めて、中堅企業を増強すべきだ」と主張し続けてきておられる。

その意味では、彼は「今回発表された『骨太の方針』の中では『中堅企業の育成』が採り上げられているのは大変結構である。そういう方向に持っていかないと、日本は何時かは世界で最低の工業国に低落する」とまで言ってのけた。彼の中小企業の保護無用論を私がここに述べるまでもあるまい。関心がおありの方はPresident誌のバックナンバーからお探し願いたいと思う。なお、自民党税調会長甘利明氏はほとんど反論らしき反論することなく、寧ろアトキンソン説の解説をしながらヤンワリと批判はしておられた。

甘利明氏はTPPをあそこまで取り纏められた実力がある極めて真っ当な信頼申し上げるべき数少ない自民党の政治家であると評価している。だが、あのような意見交換と討論の場ではとてもに静かに語られるだけで、真っ向からの論戦は挑まれないので、もう一つ威力が不足するのは残念な気もする。あの奇妙な秘書の事件がなければ、使える人材不足が急速に明らかになってきた安倍政権と自民党内ではもっと日の当たる場所で使われるべき人だとは思う。だが、率直に言えば徐々に「アナログ時代の政治家」になってきた感が濃厚なことか。

残るは玉木雄一郎。党内の重要会議があったとかで遅れて参加。重要なという意味は、枝野幸男が又ぞろ持ちかけた「天上天下唯我独尊」の合併話に如何に対応するかの党内の会議だったという事。玉木という人は昨夜の論旨の展開を聞いていても「流石は元大蔵官僚」と思わせるだけに限定された範囲内の知識と経験が十分にあると解る。と言うことは「狭くて限定された範囲内では有能であるが、ある一定の人数の組織の上に立って指導していく経験も十分な能力があるのか」となれば、疑問かなと思わせられた。綺麗事過ぎるから、だから枝野如き虚け者に甘く見られるのだ。

彼に「デイジタル時代にずーっと前に入ってしまっている世界の流れを前にして我が国では、特に政界ではデイジタル化に対する認識も何も一向に広まらないのは何故か。このままで良いか」との反町の問い掛けに対して、着席依頼見続けていたタブレットを持ち上げて「これを国会内で演説等の原稿ように使って良いかと提案したら、議運に前例がないと拒否された。このように国会をアナログ世代が支配しているようでは、国内でも何処でもデイジタル化が期待通りに進む訳がない」と主張した。これはその通りだろうと思って聞いた。

甘利氏は銀行の合併の例を挙げられたと解釈したが、合併前の各行がそれぞれ独自のメーカー(例えば、日立や富士通という意味だろう)のシステムを採用していたのだから、統合後に統一で難航した例があったと言っておられた。だが、一寸本筋を外しておられたかなと感じた。でも、甘利氏はデイジタル化の後れは認めておられた。そこで思い出したのは我が社のこと。各事業部がそれぞれ独立した会社の形なので、給与計算のシステムだけで36通りもあった時期があり、CEOの厳命の下に超特急で一本化したという事があった。1980年代の話だがね。

私はこの番組の他にも仮令TBSであっても、松原の司会が気に入らなくても、「報道1930」は途中までよりも長く見ることがある。それはゲスト次第で有益な話が聞けて大いに参考になるからだ。同時にゲストたちの語り方や意見や見解を聞けば、その人物たちの評価になる点に興味があるのだ。換言すれば「この議員には多くを期待できないな」という辺りが気の毒なように見えてくるのだ。更に言えば、非常に遺憾なことに「何でこの程度の人物が当選して国会に出てくるのか」と思わせられることが多い点だ。ここにはPrime Newsの人の選び方も含めて言っている。

だからと言うべきか何と言うべきか、Prime Newsでは櫻井よしこさんが単独で出られたときが聞き物になるのだし、先頃は橋本徹氏も2時間弱を単独で持たせるだけ聞かせどころがあったのだ。議員の方々は色々と発言には限度か制約があるのだろうが、国会では原稿を棒読みし、テレビでは隔靴掻痒のようなことしかしか言えないのでは、玉木雄一郎に「国会が駄目だから」とシレッとして言われてしまうのだ。これは「デイジタル化の遅れ」を指して言ったことだったが、その通りのようなのが情けない。