新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

7月1日 その2 「5日が投票日」というポスターが

2020-07-01 15:23:18 | コラム
東京都知事選挙期間中だった:

昨30日と本7月1日と悪天候をついて外出したのだが、掲題のポスター(”poster”の正確な発音は「ポウスター」である、念の為)を見て、初めて「そうだった、選挙期間中だった」と気が付いたほど、ここ新宿区百人町は何時もと変わらぬ静かさを保っていた。いや、如何なる選挙期間中でも、この地域に候補者名を連呼する騒音を振りまくだけの選挙カーなどやってくることはないのだ。如何なる候補者にとっても、ここ山手線の外側には掘り起こしたい票などないと認識されているようなのだ。これがここに住むこと32年間に得た実感だ。

その辺りは良く考えなくとも解ることで、我が3棟あるアパートには576世帯もあり、道路を隔て反対側にはこちらよりも戸数が多いだろうと見える大規模な公務員住宅のアパートが建ち並んでいる。国家公務員ともなれば毎年のように異動があるだろうし、この地域に生まれ育って地元民としての愛着を持っておられる方がどれほど住んでおられるかと思う。我がアパート群にして20年ほど前から売買が解禁されて引っ越しは度々あるが、32年前に方々から移り住んでこられた方たちの集合体である。

ここは衆議院議員の選挙では東京一区である。だが、政界の事情通に言わせれば「この地域は各候補者の事務所が人を使って『候補者のXXを宜しくお願いします』と電話攻勢をかける地域には入っておらず、選挙カーで巡回するとか、新大久保駅前に立って街頭演説で呼びかけたい一帯ではない」のだそうだ。私が32年間で一度だけ候補者から受け取ったものは、故与謝野馨氏の事務所から与謝野氏関連の新聞記事が載った切り抜きのコピーの束だけが郵便受けけに入っていただけだった。それほど等閑にされているのか、安定した保守の地盤と見ているのかの何れかと思う。

先ほども外出から帰ってテレビを見れば、某K候補が「モニタリングをベースにして云々」と得意のカタカナ語を駆使しておられる場面に出くわした。「またかよ」とウンザリだった。私は区民が皆「モニタリング」(=”monitor“)の意味をご存知かと疑いたくなってしまう。ジーニアス英和には「・・をチェックする、監視する」と出てくる。Oxfordには”to watch and check ~ over a period of time in order to see how it develops so that you can make any necessary changes”という動詞としての長い解説が出てくる。K候補はここまでご承知で言われているのだろうか。

「もう本当に好い加減にひけらかしはお辞めになって、万人が素直に理解するような日本語で語られたら如何かな」と思って聞いていた。いや、K候補にとってはこのようなひけらかしこそが、選挙運動なのではないかとすら疑っている。他の候補者の中にはここの線路の反対側にある有力な進学校の出身者がおられるようだが、彼にしても投票日まで後4日を残す現在に至っても、姿は愚か声も聞いたことはない。街は本当に静かで長閑だった。本当にこれで良いのだろうか。彼等は選挙公報だけで判断せよとでも言うのだろうか。



物事を見る目

2020-07-01 09:53:10 | コラム
「真実は一つ」なのか:

「真実は一つ」:
この見出しは、言うなればマスメディアが好んで使う表現であるし、この世には「そうだ」と信じておられる方もまた多いと思っている。だが、私はこの見方は採らない。私が長年主張してきたことは「出来事が一つ」であり、その出来事を見ると言うか取材する者の(「側の」でも良いだろう)立ち位置と角度、そして何よりも肝腎なことはその者の思想・信条・教養・哲学・経験・視点等々次第では、たった一つの出来事が全く異なった形となって無数の報道のされ方になるし、専門家や学者の方々の意見や見解の発表になってしまうのだ。

解りやすい例を挙げてみれば「実際にはそういうことはなかった戦時中の慰安婦の問題」にしても、朝日新聞や吉田清二が見れば強制連行になってしまうし、ありもしない性奴隷のような記事になって世界中に不当に流布されてしまったのだった。朝日新聞の立ち位置も兎も角、「思想」からすれば、あのような形になってしまったのだった。それでも朝日は恰も真実だったかのように伝えるのだ。これだけが根拠ではないが、私は「真実は一つ」論を「甘い」と排除するのだ。

“We are making the things happening.”
これを意訳してみれば「我々が当事者である」とでもなるだろうか。この表現は我が生涯の最上の上司だった副社長兼事業部長と合意していた物の見方である。我々はアメリカの紙パルプ・林産物に最大手メーカーの1社としての意図で世界最高の製品を市場に送り出すべく、最善の努力をしてきた。その製品については市場の評価もあるし、業界の専門誌による論評もある。時には「何でそう言うのか」と言いたいような酷評もある。そこで副社長が言うには「当事者ではない業界誌に何が解るのか、即ち“They are not making the things happening,”だ」と言ったのだった。

彼が強調していたことは「その真意は専門誌として色々と論評されることに異議はないが、当事者ではない人たちに何処まで製造業の実態というか苦労と言うか、最高の稼働率を上げて、品質管理を最重要視して、変化し且つ進歩していく世界の市場の需要動向(「ニーズ」なんていうカタカナ語は使いたくないのだ)に遅れないように合わせて行っているのは我々だ。そこまでを知らずして論評するのは気楽なものだ」という点だったのだ。そこには“We are making the things happening.”という誇りもあるのだ。

私は1972年からアメリカ人の世界に(事業部における只一人の日本人社員として参加したという意味)飛び込んで、恐らく私以外に何人の日本人社員が経験しただろうとと自負している「トランプ大統領の強固な支持層である労働者階層、即ち職能別組合員たちと何度もそれこそ膝つき合わせて語り合い「君等の労働力の質の向上と、品質改善へのより一層の努力如何で、我が社は世界中でも品質に厳しい日本市場における#1サプライヤーの地位に上り詰めねばならない。そうなることで、君等の職の安全(“job security)が確保できるのだ」と説得したのだった。

このような経験をしたことで、彼等の中には英語も良く解らない移民も難民もいると知り得たのだった。言い方を変えれば「アメリカの労働組合の在り方を内側から見てその実態を知り、アメリカの製造業が抱えている問題点を詳細に学び得たのだった。こういう経験をしたことから、私は業界の評論適確且つ正確にする為には“We are making the things happening.”の世界を経験して置くことが必要ではないかと確信するようになったのだった。

実際にこのような経験をした者としての視点からの評論を、専門誌に載せる機会を与えられていた。勿論、私は外部からの論評を排除するのではなく、記者の方々の評論は貴重なものだると思って常に注意を払って読んでいたのはいうまでもない事。重ねて言うが「彼ら記者さんたちは当事者ではない」のだ。

“Firsthand information”:
これはつい先日採り上げたばかりのアメリカ人が尊重する「自分で取材したか直接に聞きだした事柄を報告する」と言うことである。アメリカ人の物の考え方では「常に個人の主体性を尊重し、各人が思い通りの意見を述べることが肝腎なのであり、何処の何方かのご意見を伝えるとか上司に報告することなどはあってはならない」のである。換言すれば「伝聞」の報告など聞きたくないと言われてしまう世界だ。「伝聞」に相当するのが“second hand information”なのである。即ち、自分の意見がない者などは、その場にいないも同様だと、全く評価されない世界なのだ。

彼等は「物の見方は人それぞれで異なっているのは当然だ」という考え方だから、誰かが自分とは異なる意見を発表しても気にすることなくというか、感情を交えずして議論を展開するのだ。その時の勢いはかなりきついので、馴れないうちはハラハラしながら聞いている。だが、そのうちに何れかの意見が通って手打ちとなり握手して「今日はお陰では素晴らしい意見交換が出来た。これからデイナーにでも行くか」となるのだ。要するに「自己主張のぶつかり合いの世界」なので、恐れることなく自分の意見というか、見解を披露しないと生きていけないのだ。自分の意見が正しいか正しくないかの問題ではないのだ。

私が永年お世話になった紙業タイムス社の前社長・高橋吉次郎氏が良く記者たちに言っておられた事は「取材してきた情報をそのまま記事にしたのでは価値がない。その内容と意義を自分なりに分析し評価して一度ばらしてみた上で、自分の見解も組み込んで記事にせねばならないと思え」だった。尤もだと思わせられる点がある指摘だ。我がW社ジャパンの副社長だった今や92歳の長老は現職時代に「通訳とは破壊と再構築だ」と言っておられた。即ち、「語り手の意図を十分に理解した上で、一旦バラバラにして、その場で再構築して別の言語にせよ」という意味だ。

長老の通訳論は高橋前社長の指示と一脈通じている考え方だと思う。通訳が自分の考えを余計に組み込んではならないのだが、我々が営業上担当してきた通訳では文字通りの直訳では意味を為さない場合が多々あるのだ。話が多少ずれてしまった感があるが、外国人を相手にする場合には臆することなく自分自身の思いなり意見なりを臆することなく堂々と述べることだ。他者の意見を引用する場合には「何処の誰がこう言っていたので」と伝聞である事を示すのが、言わば“fair”であると思う。