新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

私の英会話の勉強法

2020-09-02 15:19:19 | コラム
英会話の勉強法(結局は慣れと度胸だが):

先ずは英語を総合的に勉強すべき:
私は「英会話」などという独立した勉強の科目などないと信じて主張している。即ち、「英語で自分の思うところを思うままに表現して誰かと話が出来るようになる為には、英語そのものを基礎から基本的に勉強して理解出来ているかいないかの問題である」のだから。
具体的に私の持論を展開すれば英語の勉強で「英文解釈」、「英作文」、「単語」、「文法」などとバラバラに教えるか勉強させるのではなく、教科書を音読・暗記して、覚えている内容を淀みなく暗唱出来るように総合的に学習する方が効果的だと長年主張してきたのである。実際に、私は英文和訳や英作文などというような勉強の仕方をしてこなかった。その代わりに、GHQの秘書の方に教えられた「英語のままで考え、流れの中で覚え記憶した言葉と表現の仕方を覚えるようにしただけだった。その方法でも英語だけはまともな成績を挙げることが出来ていた。また、高校1年の頃にはアメリカ人たちの中に入って英語で話し合う時に何ら不自由しないようになっていた。

ここまでで既に英会話の勉強法を語ったことになってしまったと思う。だが、これだけでは未だ不十分で皆様方のご参考にはならないと思うので、もう少し具体的なことを論じていこうと思う。

英会話とは:
一口に英会話などと言うが、私にはこれだけでは不明確だと思えてならない。雑談なのか世間話なのか、何か主題(「テーマ」とも言うがこれはドイツ語で、英語はthemeであり強いてカタカナ書きすれば「スイ―ム」とでもなるか)が決められていて、その範囲内で語り合うのかが明確ではないと思う。私は何らかの話題を採り上げて、それについて持てる限りの知識と、知っている限りの言葉と表現を使って自然に話し合うのが会話だと思っている。会話と一口に言うが実際には予期していなかったような広い範囲に話題が展開していくこともあるものなのだ。そういうことは事前には予測できない性質なのだ。

世間では英会話など言えば、何かよほど美しい表現や言葉を散りばめねばならないと思っておられる人は多いのではないか。または、如何なる話題にも対応せねばならないと緊張しておられる方がおられるだろう。

だが、雑談や世間話だけでなくとも中学校(現代では、もしかして小学校のか?)1~2年の教科書に出てくるような易しい言葉(口語的表現か慣用句を構成しているような解りやすい単語)だけでも自分の考えていることを表現出来るものなのだ。要するに、難しく考えるとか、気取った表現などは必要などないということだ。

その為には可能な限りキチンとした教養があるアメリカ人乃至は英語を母国語とする人と会話をする機会を求めることが良い勉強になると思っている。それは「なるほど、こういうことを表現する時にはこういう言葉を使えば良いのか」というお手本に接することが出来るのだからである。

だが、この方式の難点は「貴方にその外国人が話している英語が果たして質が高く支配階層にも通じるようなもので、真似をする価値があるかないかが容易に判断は難しかろう」ということ。即ち、「無闇矢鱈にnative speakerを有り難がるな」ということなのだ。解りやすく言えば、一般の方では彼らが「知識階級であるか」または「何処の馬の骨か」を判定できるだけの英語力と判断するのは極めて困難だろうという事。

嘗てワシントン州のシアトル支店で最高の英語の使い手という商社マンから聞いた苦労話では「アメリカに赴任した当初に最も苦しんだことは、アメリカ人が余りにも早く話すように聞こえたし、一つの文章が何処から始まって何処で終わったかというか、何処で切れたのかが全く聞き取れなかったこと」だったそうだ。「そうだろう」と思う話だった。

この何処で切れるのか聞き取れないということの背景にある事は「英語には連結音と“rーlinking”」があるのだ。これは「次に来る単語の頭の母音とその前の単語の最後の子音を連結して発音すること」である。これが正確に聞き取りにくくしているのだ。簡単な例を挙げれば“There is ~.”は「デアリイズ」のように繋がってしまって「デア・イズ」とはならないのである。当然、“There are ~.”は「デアラー」のようになる。

その駐在員はそれだけではなく、話の途中で「済みません、もう一度言って下さい」と言うタイミングが取れなくて、解らないままに半紙が進んでしまったのも悩みの種だったと述懐していた。。

こういう経験談を纏めてみると「学習法としては、結局のところ聞き取りの経験を積んでいくしかないのだが、その間にこれと思う表現と言い方をその場で沢山覚えて、表現の小引き出しを増やしていくしかない」という結論になってしまうのだ。この方法は簡単に言えば「真似をする」のであって、周囲に真似をするお手本がいないと簡単には小引き出しの数は増えないのが何店かも知れない。

私の幸運:
私はそういう意味では、幸いにもアメリカの大手製造業の会社に入っていたので、品格というか教養があると思う上司か同僚が使う表現を覚えて真似する機会が常にあった。このように native speakerに学ぶのは良い方法なのだが、問題点は「彼らは日本人がどういうことで悩むのか、どういうことが解らなくて苦しんでいるのか」などほとんど解っていない」という点だ。その点では、私はアメリカの大手製造業の会社にいたので、周囲に支配階層に属する人たちが幾らでもいたので、外国人である私は何か解らない表現に出会えば気楽に何でも質問することが出来たし「こういう場合はどう言えば良いか」などと質問することが出来た。即ち、「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥」だと割り切っていた。

Native speakerに無闇に依存しないこと:
その昔に「アメリカ人がゆっくりと我々にも解るように話してくれたので、何とかついて行けた」などと言う人に出会ったものだった。私は「そういうことは先ずあり得ない」と思っている。それは、彼らに日本人の英語の聞き取り能力など事前に解っていないので、一般の日本人が聞き取れる速度で話すことなど出来る訳がないのだ。やや論旨は飛躍するが、私は無闇矢鱈にnative speakerを有り難がって、彼等から学ぶことを積極的には勧めないのだ。

より具体的に言えば「そのアメリカ人か外国人の英語の質や教養の程度や出自をどうやって判断するのか」も問題なのだ。いや、「一般の方には解る訳がないと言って誤りではない」と断言する。後難を恐れずに言えば、我が国の学校教育で英語を学ばれた方々には、アメリカの南部やオーストラリアやニュージーランドの訛りなどを聞き分けられる訳がないのだ。即ち、何処の国のどの英語が正調であって真似をしても良いかなどは解る訳がないと言う意味だ。

生きた英語の例:
例を挙げてみよう。例えば「もう一度言って下さい」は我が国ではごく普通に“I beg your pardon.”と教えられているようだ。だが、私は何故かこういう言い方をアメリカ人の中で過ごしていた間に聞いた記憶がない。極論を言えば「これは日本式の英語であってEnglishではない」となる。

仲間内では“What’s that?” と簡単に言うか “Excuse me.” の語尾を上げて言えば十分なのだ。または“What did you say now?” か“I'm sorry.”の”sorry”にアクセントを置いて語尾を上げれば解って貰える。時には“Say that again?”とズバリと来る場合もあるが、ここでは前に“Could you”と付ければ、より丁寧になる。一寸ひねった言い方では、“Would you please rephrase rain check for me?”のように解説を求める言い方をすることもある。

以上、難しい単語など一つも出てきていない点に注目されたい。ここで更に強調しておきたいことは、こういう文例を黙読するだけでは不十分で、私の主張は「何回も音読して覚えてしまおうとする姿勢が必要なのだ」という点だ。換言すれば、英語の表現を効率良く覚える為には、只黙読するだけで目から入れようとせずに、自分で音読してでも耳から入れようとすることが上達への道であり、最も肝腎な点なのだ。これこそが私が主張する音読・暗記・暗唱による学習法である。

1970年代前半に、あるフランス語圏から日本に滞在中のカナダ人の青年にフランス語と英語の日本語への通訳を依頼せねばならないことがあった。そこで、カナダ大使館の商務官に彼の連絡先を教えていただきたいと電話でお願いしたことがあった。その時に電話の向こうで聞こえたのが、彼が誰かに向かって言った“Do you know his whereabouts?” だった。私はこれで「彼の所在を知っているか?」をこう言うのかと学んだのだった。

更に “Can you get hold of him?” も聞こえた。「彼に連絡がつくかい」はこのように言えば良いのかと学べた。私は既に “Can you reach him? ”は承知していたが、カナダ大使館との電話連絡のお陰で「どのようにして誰々と連絡するか」の表現の引き出しが一つ増えた次第だった。私は会話が上達するかどうかは、こういう場合に「これは使えそうだ」と覚える気があるかないかだと思うのだ。

上記のような表現は言わば口語体で、日常的な会話にはごく普通に出てくる性質である。私の英語の世界での経験から言えることは、我が国の学校教育ではこのような言い方を教えられていないようだった。実は、この種類の表現を覚えていても、現実にはなかなか使える機会は訪れないだろうと思っている。だからこのような実用的な表現は敢えて教えないのかと疑っている。だが、現実の会話ではこのような優しい単語を使った口語体や慣用句での表現の洪水である事が多いのだから英語を母国語とする人たちの中には言っていくと苦労させられるのだと思う。。

結び:
英会話と言うが、native speakerの中に入っていくと「何時始まって何処で切れるのかサッパリ解らない早さで話されるだけではなく、例えば“rain check”のような慣用句がいきなり飛び出してきたところで集中力が切れてしまって、そこから先は全く聞き取れなくなってしまうもの」なのだ。そこで、「その対策はどうすれば良いのか」と尋ねられれば、結局は「習うよりは馴れろ」しかないのではと、突き放したような言い方になるのだが、悪しからず。だからこそ、私は長年英会話とは「習うより慣れろ」であり「慣れと度胸だ」と言ってきたのだ。