新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

9月23日 その2 英語の教え方・学び方

2020-09-23 15:20:45 | コラム
英語はどのように教えるべきか

この話題についてはこれまでに何度も採り上げてきたが、今回は言わば総括編のつもりで語って見ようと思う。その本心というか意図は英語教育の改革である。

教え方の改革:
*単語偏重の教え方の撤廃:
先ず思い浮かぶことがこの点だ。即ち、単語の記憶に偏重する教え方の廃止」だ。具体的に言えば「単語という部品を何の脈絡もなくバラバラに記憶させるのではなく、流れの中における使い方を覚えさせておくこと」である。私が永年使ってきた比喩は「部品をただバラバラに並べただけでは、自動車は組み立てられないのだ」である。

英語の単語の意味はたった一つだけという事はなく、前後の関係で全く変わってくるし、特に慣用句の場合にはその単語の元の意味とは全く別な意味になってしまうのだ。一つだけ思いついいた例を挙げておくと、“handwriting on the wall”というのは「悪いお知らせ」を意味するという具合だ。

*文法、単語、英文解釈、英作文、会話等のようにバラバラに分解して教えない:何故そう言うかには理屈はない。英語という外国語を基本的に覚えて理解する為には、このように分解しては、俗な言い方をすればそれぞれが有機的に繋がらないのだ。

私の勉強法は何度でも言うが「音読・暗記・暗唱」の繰り返しで、中学校1年程度の教科書を意味が解るようになるまで何十回でも音読し、暗記することだ。それを第1頁から始めて教科書1冊をまるごと暗唱できるまで読み込むことだ。何度でも言うが、私はこの方法だけで大学卒業までの間で、英語の試験で90点を切ったことは2回しかなかった。

更に具体例を挙げておけば、大学1~2年の時に家庭教師として教えた中学1年生は高校卒業まで英語の成績はオール5だった。外国語の勉強とはそういうもので、小難しい理屈ではないのだ。

*英語だけで考える:これは戦後間もなくの旧制中学1年生の頃からGHQの秘書の方に厳しく多々仕込まれた勉強法である。英語は英語のままで受けとめて、その意味が把握できれば「そのまま覚えておくこと」だった。即ち、「こう言われたら日本語でこういう意味になる」などと考えないことだ。頭の中を英語だけにしろという意味だ。例えば、今でも覚えている例を挙げれば、“Turn around the other way.”と言われた時には意味が解らなかった。だが、その場の状況から判断して「向こうを向いて」と分かって正解だった。その応用編では“Turn around this way.”だと「こっちを向いて」になるのだ。

追加の解説をすれば、この日本文を見て英語で言ってみようと思うと、これほど簡単な単語だけで言えてしまうのは、単純素朴な驚きだと思う。換言すれば「難しく考えるな」であるし、turn around the other wayを覚えておけば、otherをthisに入れ替えれば「こっちを向いて」になるのだ。これは「単語だけを覚えていては出来ない技」である。

*実用性の付加:我が国では非常に多くの方々が「私は英語が解らないので」であるとか「何とか単語を並べたら漸く通じた」であるとか「どう言えば通じるのかが分からなかった」とか「何を言われたのかサッパリ聞き取れなかった」とか「学校で教えられ単語が出てこなくて弱った」というように嘆かれているのを何度も何度も聞いた。

これ即ち、実用性を無視した英語教育の産物である。この点はこれまでに繰り返し触れてきたことで「我が国の英語教育は児童や生徒や学生に優劣の差を付ける為に、5段階の評価が出来るように教育しているのであって、最初から会話が出来るようにしようとは考えていない」と、ある高校の英語教師の女性が言われたことが全てだと思う。

この点のコインの裏側にある事を挙げておこう。お断りしておくが、これから述べることは我が国の英語教育の在り方を貶しているのではない。我が社のマネージャーの1人が得意先の管理職の高校生のお嬢さんのホームステイを引き受けて、先ずはと家庭訪問をした時のことだった。英語力を探ろうと英語の教科書を見せて貰った。アメリカ人が叫んだことは「日本の高校教育では全員を英文学者にでも育てる意図かがあるのか。アメリカの高校ではこのような高難度の文学作品を採り上げることはない。私にだって難解な文学作品ばかりだ」だったのだ。

善意で見れば「高度な文学作品を読解出来るような能力を付けさせようとしているのだ」となるのだ。これは決して避難すべきことではないと思う。要するに「実用性は二の次、三の次ぎ教育」なのである。例えば、こういう教育をしていれば「貴殿の発想力は驚愕的であり、私は畏敬の念を抱いて拝聴した」というような英会話が出来るかも知れないが、“Your idea is surprising. I was admiring you.”というような文章は出てこないようになってしまうのではないか。

他の例を挙げれば、アメリカ人が打ち合わせ中に“Are you with me?”と言って尋ねたのは「私が言っていることが分かりますか」なのだ。だが、そう問いかけられたある不慣れな人はそう言われて“Yes.”と答えて、そのアメリカ人の隣に行って着席したのだった。

周囲にいた英語での意思疎通に馴れていた者たちは笑うに笑えなかったのだった。私は実用性を持たせる為には、このようなことから改革していく必要があると考えている。ところで、ここで皆様に“Are you with me, so far?”と伺って見たいのだ。

ここまでで「学び方」はまたの機会に。

山口達也が自転車の酒酔い運転で事故をで事故を

2020-09-23 08:50:53 | コラム
ジャニーズとカタカナ語の関連の考察:

何年前かだったのはどうでも良いことだが、当時は私が散々揶揄した「山口メンバーが未成年の女子に云々」という問題を引き起こして、TOKIOだったかを脱退して事務所も辞めた。そして「もう当分は酒は飲まない」と誓っていたようだった。確認しておくと山口達也のことだ。

昨日からの報道によれば、その元メンバーが今度は飲酒の上バイクを運転して、追突事故を起こして逮捕されたのだそうだ。テレビ局もスポーツ新聞もこれは余程重大な事件だったようで、今朝からもくどいほどテレビでは繰り返して報道している。ここには以前から指摘している奇怪なカタカナ語が登場している。それは山口元メンバーは、カタカナ語排斥論者から言わせて貰えば、「自転車を酒酔い運転して自動車にぶつけたこと」になるからだ。

英語の一般呈な常識では”bike“(バイク)というのは”bicycle”、即ち「自転車」のことなのである。だが、カタカナ語ででは何時の間にか”motorcycle“を「バイク」と称するようになってた。私の記憶では嘗ては”motorcycle”は「オートバイ」と呼ばれでいた。広辞苑によれば「オートバイ」とは「(和製語auto bicycle)発動機をそなえた二輪車、自動二輪車、単車」とある。すると、矢張り「バイク」は言葉の誤用と言うことに落ち着きそうだ。

そこで、念の為にOXFOFDに訊いてみた。するとどうだろう、英語の本家本元のはずのUKでは”1 a bicycle“とあって、やれ一安心かと思えば”2 a motorcycle”とあるではないか。何のことはない、カタカナ語排斥論者がしたり顔で「言葉の誤用だ」と責めていたのはUKでは通用せず、山口元メンバーはちゃんどかの有名なるハーレーダビッドソンというmotorcycleに乗って事故を起こしていたことになったのだ。OXFFORDなんか見なけりゃ良かったと悔やんだ。

だが、カタカナ語排斥論者はここで引っ込む訳にはいかないのだ。”Harley Davidson“の正式な発音は断じて「ハーレーダビッドソン」のようなローマ字読みではなく、敢えてカタカナで表記すれば「ハーリーデイヴィッドスン」が最も近いと思う。それにしても、テレビ局は何年も前にジャーニーズを辞めていた者が事故を起こしただけで、これほど大騒ぎせねばならないほどあの事務所関連の事件が重大ニュースなのだろうか。いや、そうじゃない。彼らの相手は何処まで行ってもミーハー族だということを示しているだけだと思う。