新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

9月4日 その2 アメリカにおける木材資源の活用(リサイクル)の現状

2020-09-04 16:02:50 | コラム
アメリカにも問題はあるようだ:

去る8月25日に採り上げた紙業タイムス社Future誌の「誤解を解く6つの真実」を簡単に英語にして、L氏等の元の上司や同僚に送って(カタカナ語は使いたくないが)コメントを求めてみた。それに対してL氏からアメリカの紙パルプ林産物関連リサイクルの現状を知らせてくれたので、参考までにお知らせする次第。因みに、L氏はテクニカル・サービス・マネージャーとして恐らく在任中の25年ほどの間には150回以上は我が国を訪れていたと思う。

>引用開始
私は未だにそのような木材から製紙にを経てリサイクルに至る工程について誤解があるという話を聞くのは、余り愉快なことではない。製材の工程で発生する残渣である木材チップは、パルプとなり製紙の原料となっていくのだ。その過程で製材品とするのに不適格な樹木が製紙に回されるのだ。と言うことは、林産物産業界が立木を伐採しなければ、建材等に使われる製材品が市場に出回らなくなってしまうのだ。これは望ましくないことではないか。

アメリカの南部に行けば伐採された樹木が全てチップとなっているというのも、また事実である。しかしながら、そういう南部の樹種はトウモロコシや麦等の穀物と同様に扱われている。そして伐採された跡地の森林地帯には、あらためて植林されていくのだ。アメリカ西北部との違いは、植林から伐採までの周期が長いという事。消費者というか、一般大衆がトウモロコシや麦や米の収穫が止まって欲しいとは言っていないだろう。

この他に重要な事実がある。それは、樹木が生長するに伴ってより多くの二酸化炭素を吸収してくれるという事で、環境保護にとって望ましいのだ。しかしながら、立木の成長が止まると二酸化炭素の吸収量は減少し、最終的には枯れてしまうのだ。それでは貴重な資源の浪費となってしまう。念の為に触れておくと、場所によっては穀物畑にする為や動物が生息しやすくする為に樹木を伐採してしまうことがあり、特に南アメリカにはその傾向がある。しかも伐採した木を燃やしてしまうので、二酸化炭素を発生させてしまうし、経済的に何の価値も生じない結果になってしまう。

私は紙パルプ・林産物業界は立派にその使用済み製品を回収して再生していると考えている。しかしながら、遺憾に思うことがある。それは一般の消費者が使用済みの紙も段ボール箱も他の廃棄物と一緒に捨てているので、リサイクルされていないことが多々あることだ。アメリかでは確かにこのような事態が生じているが、それは消費者の意識が未だに低く怠慢で、ゴミを分別して捨ててないことに現れている。この実態はガラスや金属のゴミの廃棄にも言えることだ。

言うまでもない事で、廃棄物を回収して再生するのは有益なのは明らかだ。何故ならば、リサイクルすることで天然資源や未使用(バージン)の原料の消費を削減できるからだ。アメリかでは製材品の残渣を先住民の小屋の中で燃してしまっている例もある。その為に大気汚染も発生するし、二酸化炭素も放出されるのだ。嘗ては、払った枝やその他の残渣は森林の中で燃やされていたが、最早こういう例は極めて希である。現在ではかかる残渣は集積されて自然分解させるようになっていて、その跡地に再植林するのだ。
<引用終わる



英語という外国語の考察:

2020-09-04 09:38:17 | コラム
英語とは異文化の国の言語である:

私は「英語とは我が国とは文化(=cultureのことであり、ある特定の集団の言語・風俗・習慣・思考体系を意味する)が全く異なる外国の言葉であって、科学として教えるとか学ぶべきものではない」と認識することが必要であると主張してきている。そこで、学校の教育でも、何処かの時点で(高校辺りであろうと思うが、大学では遅いと思う)この相違があることを教えておく必要があると固く信じている。より具体的に言えば「日本語の思考体系は通用しない」と教える方も学ぶ方も弁えておくべきだということだ。

故に、私は「我が国の学教教育のように、児童や生徒の優劣の差を付ける為に数学のように教えていては、良い結果を生じない」と長年主張してきたのだった。即ち、その辺りに「実用性に乏しい」と批判され、嘆く声が多いことの原因になっているのだ。思考体系が異なる言語の国の人たちに、日本語の発想で語りかけても「通じない」事態が生じるのは当然だろう。

その点を無視してやれ単語だの文法などに重点を置いた英語教育を続けていれば、実用性に乏しくなるのは当然の結果だろうと思っている。

私はアメリカの大手製造会社の日本駐在マネージャーとして22年半の間対日輸出を担当してきたので、その間に仕事で総計約50回も我が国とアメリカの間を往復してきた。そして、アメリカに到着する度に「また、この異文化の国に来てしまったのだ。頭の中のギアを英語にシフトしなければならないのだ」という緊張感に身が引き締まる思いだった。

その異文化に順応していく為には「頭の中を空にしてというか、頭の中を英語に切り替えて、英語だけで考えて仕事をする態勢を整える」のだった。この切り替えは到着当日には終わらずに、最長でも12時間を必要としていた。何故切り替えが必要かといえば、一旦本部に入ればそこから先は帰国するまで先ず日本語で物事を考えていたのでは仕事にならないのである。

簡単に言えば「我が国の会社組織とは全く別個の世界で彼らの一員として行動する以上、我が国の会社式な物事の考え方は通用しないし、日本語の思考体系では上司や同僚たちと意思の疎通がままならない危険性もあるのだ。この切り替えは馴れるまではそう簡単なことではなかった。

では、我が国の会社とは何処が違うかだが、その点については再三再四述べてきたが、ここにあらためて幾つかの例を挙げて置こう。その違いの典型的な例としては「副社長兼事業本部長には一つの会社の社長と同じように、製造・販売、総務、経理、人事、管理等々の全ての分野に絶対的な権限を持っていること」が挙げられるし、「彼らは二進法的な思考体系で物事を進め且つ処理していく」辺りを挙げておこう。即ち、「やるか、やらないか」であり「白か黒か」という考え方だ。

我が国の会社組織との大きな違いがある。それは部員たちがそれぞれ上司から与えられた「職務内容記述書」(=job description)に従って仕事をしており、その内容には如何なる同僚とも重複することがないのだ。各人の主体性に基づいて仕事をするので、お互いに助け合うこともなければ、同僚の担当分野に手を出すことなどは基本的にあり得ない世界だ。

基本的には我が国のように「部下」はおらず、秘書さんだけが助けてくれる世界だと思っていて余だろう。換言すれば中途入社ばかりだから「先輩」も「後輩」もいない世界である。従って全員の年俸等の待遇も違うので、年俸の多寡を同僚と比較することにはほとんど意味ないのだ。

これだけでは不十分だろうから、文化の違いの一例も挙げておけば「英語の世界では個人的なことを訊き出そうとすることは非礼に当たる」という我が国と大いに異なる習慣というか文化があるのだ。簡単に言えば「これから何処に行くのですか」とか「日本に何をしに来たのですか」とか「結婚していますか」などはその範疇に入る好ましくない質問で「余計なお世話だ」と無視されるか嫌な顔をされるだろう。即ち、“None of your business.”と言われるのが落ちだ。

アメリカ人には日本人が英語の如何なる点に悩むにかは解るまい:
ごく一般のアメリカ人たちが「日本の人が英語を学ぶに当たってどういうことが理解出来ずに悩んでいるかなどは認識出来ているだろうとか、理解しているだろう」などと思い込まないことだ。拙著「アメリカ人は英語がうまい」で採り上げたように、私は生まれて初めてサンフランシスコ空港に降りたって、機内で知り合ったアメリカ人に乗り継ぎ便を待つ間に“I will buy you a drink.”と誘われて当惑した。私にはそれがアメリカ人の間ではごく普通に使われている「一杯おごるよ」という意味だとは知らなかったのだから。


アメリカに行って現地の者たちと語り合うとかアメリカの会社に入って彼等の中に入って仕事するか、彼等と生活を共にする機会があれば、日常茶飯事でこういう種類の口語体慣用句、俗語等が当たり前のようにが出てくるので,馴れるまでは、何を言われているかが解らずに、多いに苦労させられると思っていて良いだろう。

このような “buy you” を使う発想は我が国の英語教育にはないだろうと思っている。因みに、プログレッシブ和英には Shall I treat you a drink?という例文が載っている。「おごる」という時のアメリカ人の言い方には、他には“I will be the host.”や“Be my guest.”などという表現もある、念の為。

また、アメリカに初めて入った数日後にM社の本社でコーヒーを持ってきてくれることになった秘書さんに “How do you take it?” と、尋ねられて「コーヒーカップから飲むに決まっているじゃないか」と一瞬悩んだ。だが、恐らく「砂糖とクリームは要るのか」と尋ねていると思って正解だった。アメリカ人たちは我々がこんな事で悩むとは想像もしていないだろうと思う。ある程度英語に慣れていたはずの私でも、初めて経験した表現だった。

これも何度か採り上げた翻訳家の誤訳にアメリカ人たちが仲間内でごく普通に使う口語的表現である babyの使い方を知らなかった悪い例があった。これは「仕事、責任で処理すること」という意味で使う “Hey, that is your baby. None of mine.”などのように使われているのだ。この場合の“baby”は「君の(責任である)仕事」を意味している。即ち、彼らの中で日常的に過ごしていないと、出会うことがない表現なのだ。こういう言葉遣いや“idiomatic expressions” 等は良く覚えておかないと苦しめられるのである。

私が常に強調してきたことは「アメリカ人乃至は native speakerに英語を教えられることには余り意味がない」という点なのだ。即ち、我々日本人に英語を教えようとするアメリカ人を始めとする外国人たちは「我が国における英語教育がどうなっているかを弁えており、尚且つ文化の違いにまで精通している必要がある」のだ。そんな外国人かアメリカ人は滅多にいないのだ。彼等は「日本人が如何なる問題に悩んでいるかなどを承知している訳がない」と思っていて良いだろう。

それも私が好んで用いる表現の「支配階層」にある人たちと意思の疎通を図れるような英語を教えられるような外国人がどれほどいるかという問題だ。そういう能力がある者が、わざわざ我が国まで英語教師にな等と志して我が国までやってくるか。来る訳がないだろう。

発声法が違う:
少し異なった角度から英語の本葉の難しさを考察してみよう。ここまでのことに気が付いておられる英語の先生がどれだけおられるのかと私は危惧するのだ。私は「英語と日本語の大きな違いの一つに発声法がある」と経験から認識している。日本語は大きく口を開けて話す言語ではないが「英語は口先と言うよりも『腹の底から』の発声をする言語である」と言えば解りやすいかと思う。

私はアメリカに出張してその英語式の発声になるまでに、余程アメリカに馴れてからは半日もあれば十分だったが、当初は違いを把握できずに何故あのような声で話せるのかと悩まされた。この発声は表現とは異なって真似が出来る性質ではなかったのである。簡単に言えば日本語で大きく口を開けないが、英語を口の開け方も大きいし、感覚的に捉えれば「腹の底から声を出している」と感じていた。

この点については何時か機会があれば詳しく述べようと思うが、英語の発音は日本語とは使う顔の筋肉が、例えば“w”などがあるのも大いなる相違点の一つだと指摘しておこう。

この発声の違いだが、私は電車の中などで英語圏の者が乗っていれば直ぐに解る。それは、当初は日本語とは波長が違うのかと思っていたが、音域が日本語よりも高いのだとの結論に達した。因みに、中国人同士が話し合っていると騒がしく聞こえるのだが、中国語の音域も同様に高いようだ。その違いが発声法にあると考えている。

結び:
私も何時の間にか彼らの中で過ごす時間が長くなったお陰で、筋肉の使い方を「習うよりは馴れろ」で覚えたというか真似ができるようになってはいた。その結果として戦後間もなく言われていた「二世面」になってしまったようだった。即ち、筋肉の使い方の違いがもたらした変貌だった。だが、その顔付きは獲得形質に過ぎないので、英語での生活から離れれてしまえば、元の顔付きに戻ったし、英語で話しても元の日本語式発声に戻ってしまったようで、一寸だけ残念だった。


私は重要なことは「そのアメリカ人並みの発声法を目指すことも必要であるが、文法的にも正しく且つ品格が備わった何処に行っても恥ずかしくない英語で、自分の思うところが言えるようになるように勉強することが先決問題である」と言う考え方をあらためて主張し強調して終わる。。