1月は多事多難な月なのだ:
忘れていた訳ではないが、去る1月16日は15年前に一度目の心筋梗塞を発症した日だった。不覚にも心筋梗塞などという病があるとは余り良く認識していなかったので、一旦失神した後は激痛も消えていたので、このまま休んでいれば一過性の痛みで終わるかと思っていた。だが、念の為にと自分で電話してお願いした救急車が命を救ってくれたのだった。病棟での主治医に「心筋梗塞の生存率は25%」と教えて頂けて、自分が如何に幸運だったかを知った次第だった。あれから15年も経っていたのかと思う時に、月並みな言い方だが、感無量である。
そして、明18日は2015年に「善くぞ命を救って頂けた」と国立国際医療研究センター(NCGM)にどれほど感謝しても感謝し切れないだろう、第1回目の心不全での入院の記念日なのだ。この日は14日の3回目の心筋梗塞から目出度く退院できた4日後だったのだ。その日の朝に突如として呼吸が苦しくなって「ゼーゼー」言うようになっていた。そこで、ただ事ではないと判断してNCGMの救急に電話をして呼吸音を聞いて貰った。その結果で「直ちに救急車を呼びなさい」となったのだった。この日も1度目の心筋梗塞と同じように日曜日だった。
救急外来で撮って頂いたX線写真で、心臓が弱って本来ならば小水に回るべき水が胸腔内だけではなく両方の肺までも一杯にしていたので、呼吸が出来なくなっていたのだったと知ったのだった。この水は利尿剤の点滴で排除できたのだったが、心筋梗塞のような一過性の如き痛みがない代わりに、体力が非常に衰えただけに辛かった。この入院中に今でも悩まされている排便の後とか、一寸急ぎ足で歩いた後に発生する鳩尾(心窩部とも言うらしいが)の辺りの痛みが出てきて苦しめられた。院内での治療法は「蒸しタオルを当てておく」と15~20分ほどで収まるのだった。
この心不全は2月にも発生して再度入院となるのだが、2月11日に退院できた時の心不全の度合いを表すBNPの数値が1,300だったのだ。主治医に指示されて院内で通う事になったリハビリ科の糊学療法士に「BNPが1,300の患者さんにリハビリをさせて良いのですか」と、主治医に確認の電話を入れたほどの異常値だった。因みに、BNPの正常値は0~18である。この頃に2007年の1月16日に切除した皮膚ガンのフォローアップで診て頂いていた皮膚科の医師に「BNPが1,300の患者さんが歩いて入ってくるとは」と驚かれたが、何の支障もなく歩けていた。
暦の上ではこの後に回ってくるのが、22日の誕生日である。一昨年辺りから続々と襲ってくる自然治癒を主体とした数々の、心筋梗塞や心不全とは比較にならないと言える軽い症状の軽い病と戦っている間に、気が付けば目出度く88歳なのだ。良く「一病息災」と言われるが、私の場合には「二病息災」で無理をせずに、NCGMの循環器内科の医長先生に指示されたようなストイックに過ごしてきたお陰かと思っている。只でさえストーイックにしているところに新型コロナウイルスが襲ってきたので、基礎疾患を持つ身では、より一層のストーイックさが肝腎なようだ。
私事の回顧談から離れた話題になるが、本17日は阪神大震災の26回目の記念日である。日本の会社の大阪支店勤務の頃とW社に転進した後でも、あれほど慣れ親しんだ神戸が破壊され、しかもあれほど見事に復興したのは、我が国の優れた国力の表れであると誇りに思ってきた。だが、その後の3,11や中国や九州地方を次から次へと襲ってきた台風や豪雨による深刻な災害からの復旧や復興が容易でない状況を見るに付けても、自然の恐ろしさを痛感させられている。そこに加えて武漢ウイルスでは、行政府には一層の努力と対策の実行を願いたいものだ。
忘れていた訳ではないが、去る1月16日は15年前に一度目の心筋梗塞を発症した日だった。不覚にも心筋梗塞などという病があるとは余り良く認識していなかったので、一旦失神した後は激痛も消えていたので、このまま休んでいれば一過性の痛みで終わるかと思っていた。だが、念の為にと自分で電話してお願いした救急車が命を救ってくれたのだった。病棟での主治医に「心筋梗塞の生存率は25%」と教えて頂けて、自分が如何に幸運だったかを知った次第だった。あれから15年も経っていたのかと思う時に、月並みな言い方だが、感無量である。
そして、明18日は2015年に「善くぞ命を救って頂けた」と国立国際医療研究センター(NCGM)にどれほど感謝しても感謝し切れないだろう、第1回目の心不全での入院の記念日なのだ。この日は14日の3回目の心筋梗塞から目出度く退院できた4日後だったのだ。その日の朝に突如として呼吸が苦しくなって「ゼーゼー」言うようになっていた。そこで、ただ事ではないと判断してNCGMの救急に電話をして呼吸音を聞いて貰った。その結果で「直ちに救急車を呼びなさい」となったのだった。この日も1度目の心筋梗塞と同じように日曜日だった。
救急外来で撮って頂いたX線写真で、心臓が弱って本来ならば小水に回るべき水が胸腔内だけではなく両方の肺までも一杯にしていたので、呼吸が出来なくなっていたのだったと知ったのだった。この水は利尿剤の点滴で排除できたのだったが、心筋梗塞のような一過性の如き痛みがない代わりに、体力が非常に衰えただけに辛かった。この入院中に今でも悩まされている排便の後とか、一寸急ぎ足で歩いた後に発生する鳩尾(心窩部とも言うらしいが)の辺りの痛みが出てきて苦しめられた。院内での治療法は「蒸しタオルを当てておく」と15~20分ほどで収まるのだった。
この心不全は2月にも発生して再度入院となるのだが、2月11日に退院できた時の心不全の度合いを表すBNPの数値が1,300だったのだ。主治医に指示されて院内で通う事になったリハビリ科の糊学療法士に「BNPが1,300の患者さんにリハビリをさせて良いのですか」と、主治医に確認の電話を入れたほどの異常値だった。因みに、BNPの正常値は0~18である。この頃に2007年の1月16日に切除した皮膚ガンのフォローアップで診て頂いていた皮膚科の医師に「BNPが1,300の患者さんが歩いて入ってくるとは」と驚かれたが、何の支障もなく歩けていた。
暦の上ではこの後に回ってくるのが、22日の誕生日である。一昨年辺りから続々と襲ってくる自然治癒を主体とした数々の、心筋梗塞や心不全とは比較にならないと言える軽い症状の軽い病と戦っている間に、気が付けば目出度く88歳なのだ。良く「一病息災」と言われるが、私の場合には「二病息災」で無理をせずに、NCGMの循環器内科の医長先生に指示されたようなストイックに過ごしてきたお陰かと思っている。只でさえストーイックにしているところに新型コロナウイルスが襲ってきたので、基礎疾患を持つ身では、より一層のストーイックさが肝腎なようだ。
私事の回顧談から離れた話題になるが、本17日は阪神大震災の26回目の記念日である。日本の会社の大阪支店勤務の頃とW社に転進した後でも、あれほど慣れ親しんだ神戸が破壊され、しかもあれほど見事に復興したのは、我が国の優れた国力の表れであると誇りに思ってきた。だが、その後の3,11や中国や九州地方を次から次へと襲ってきた台風や豪雨による深刻な災害からの復旧や復興が容易でない状況を見るに付けても、自然の恐ろしさを痛感させられている。そこに加えて武漢ウイルスでは、行政府には一層の努力と対策の実行を願いたいものだ。