菅首相の施政方針演説に思うこと:
この件は寧ろ「我が国におけるプリゼンテイションの技法の問題点」としても良いかも知れない。昨18日の菅首相初の施政方針演説については、野党とマスコミの連合軍はここを先途と批判している、私は既に批判的なことは述べていない。だが、私はその批判の多くは何も菅首相向けに限られたことではなく、我が国におけるプリゼンテイションの在り方に疑問があるのだろうと見ている。例えば、「菅首相は原稿を読む為に下俯くので、自分の言葉で語りかけていないから迫力と説得力に欠ける」との批判は、技法と原稿の準備の問題だと思っている。
そこで、先ず「プリゼンテイションは如何にあるべきか」をあらためて説明しよう。その前に国会議事堂の設計が過去の技法だったオーバーヘッドプロジェクターも使えなくなっているだけではなく、コンピュータを使うパワーポイントも利用出来なくなっている(非近代性というか)点を指摘しておこう。
要点を纏めて表示しよう:
先ず説明者というか数多くの聴衆に語りかける者が準備すべき事は「自分が語りたい内容を主題別に別けて、何ページか何十ページ(?)に別けておくことだ。そして、例えば1~3枚目が「新型コロナウイルスの感染拡大の防止策」だとすれば、それを各ページに三つの見出しに別けて記載し、その見出しの項目以外は一切書き込むことなく準備するのだ。そして、語り手は各項目(最近のカタカナ語に「アイテム」が頻繁に出てくるが、itemとはそもそも項目の意味だ)の語り(narrativeという)を別途用意して、その見出しの内容を詳細に語るのである。
ここで確認しておくと、各ページには「新型コロナウイルスの感染拡大の防止策」との主題以外には3行(または3項目)以外しか表示されていないので空白ばかりになる。その空白の部分に関連した語りで埋めて聞かせるのが「プリゼンテイション」の狙いである。読ませることが狙いではない。その為には数字の票やグラフを沢山盛り込むののも禁じ手だ。聴衆には「これらの図表類は終了後にコピーにして差し上げます」と解説すれば済むことだ。
要するに、各ページに記載された3項目を先ずスクリーンに映し出して、これから何を語るかを聴衆に提示するである。それによって「何を聞かされるか」が明らかになるのだ。1ページにたった3行かとの声が上がりそうだが、それには確たる根拠がある。即ち、長文を書き込んでしまうと聴衆はそれを読むことに神経を集中してしまって、往々にして語りを聞いていないことになってしまうのだ。また、読まずに聞こうとする方もついスクリーンに目が行って聞くことに集中して貰えなくなってしまう。失礼してその最悪の例を挙げれば、尾身分科会長のプリゼンテイションである。
これが第一の原則である。そして、語り手が厳守すべきことは項目(見出し)以外のことに言及してはならないことだ。それは簡単なことで、聞き手は本筋から外れたことを聞かされれば、混乱するだけだからだ。
語りの原稿の準備:
次に重要なことは「予め全ページを通じての語り(既にnarrativeというと指摘した)の原稿を準備すること」だ。逆に言えば、この語りを用意してから、その言いたいことの内容に従って各ページに振り分ける項目を整えても良いのである。個人的なことをいえば、私は先に語りを用意する方だった。因みに、各項目を英語ではbulletかpunch lineと呼んでいる。
ここでW社ジャパンの場合に触れておく。例えば、本社の社長の来日時に「日本市場の現状のプリゼンテイション」をする場合には、その原稿そのものの詳細な検討をジャパンの社長と副社長出席の会議で細かく且つ厳密に練り上げることから始まる。その際には英語の表現までチェックするのだった。そして、narrativeが出来上がってから、個人別と全マネージャー参加のリハーサルが繰り返しおこなれるのが普通だった。Narrativeは聞き手全員分が用意されて、プリゼンテイションが終了した後で「ハンドアウト」として配布されるのだが、社長には事前に提出されている。
各マネージャーは自宅ででも何回も繰り返して読み上げる練習をするのだが、それは単なる棒読みにならないように、完全に記憶できるまで音読を続けるのだ。しかし、その原稿は自分で書いたものであるのだから、記憶できていて当たり前かも知れないが、うっかり記憶違いなどがあってはならないので、私は当日は原稿を持って臨むのだが、それは内容の確認の為だった。
ということは、菅首相が前日に議員会館で練習をされたと言われたのは結構なことだと思う。だが、首相の場合にはご自身で書かれた原稿ではないと聞くので、短時間で記憶するのは無理だろうと思う。故に、下を向いたとの批判は当たらないのではないのかと言いたい。
また、マスコミは居眠りをしていた議員がいたと批判していた。だが、経験上も言える事は一段高い壇上に立てば、何処に座っているどの人が聞いていないかなどは悲しいほどよく見えるものなのである。菅首相は下を向く頻度が高かったとの批判があるが、誰が寝ていたかくらいは見えていたと思う。私には国会の仕来たりなど解らないが、事前に語りの内容を渡していたとすれば、聞いていないか寝ている議員が出るのは当然だろう。
結び:
長々と述べてきたが、私は国会における演説や質問の仕方には、近代化(ICT化かデイジタル化)への一工夫があっても良い時代ではないのかと思っている。ただ読み上げるだけでは余りに無機質で迫力も何もない儀礼的なものにしか感じられない。先ほど、何処かのテレビ局でタレントというのか芸能人というのか知らない者が「偶には原稿無しで総理の思うところをご自身の言葉で語りかける施政方針演説があっても良くはないか」との意見を述べていた。一理はあると思って聞いた。
なお、カタカナ語排斥論者として、最後に一言。私は「プリゼンテイション」と英語の発音に近い表記をして「プレゼンテーション」というローマ字読みが入っているカタカナ語を避けた。あからさまに言えば「何時までこんな好い加減なカタカナ語を使うのか」なのである。特に、略語の「プレゼン」などは論外なのだ。そこでpresentationを英語に近いカタカナ表記すれば「プリーゼンテイション」なのだ。私は何もアメリカ式技法を採り入れよとまではいわないが、聞き手を如何に惹き付けるかの技法は参考になると思っている。
この件は寧ろ「我が国におけるプリゼンテイションの技法の問題点」としても良いかも知れない。昨18日の菅首相初の施政方針演説については、野党とマスコミの連合軍はここを先途と批判している、私は既に批判的なことは述べていない。だが、私はその批判の多くは何も菅首相向けに限られたことではなく、我が国におけるプリゼンテイションの在り方に疑問があるのだろうと見ている。例えば、「菅首相は原稿を読む為に下俯くので、自分の言葉で語りかけていないから迫力と説得力に欠ける」との批判は、技法と原稿の準備の問題だと思っている。
そこで、先ず「プリゼンテイションは如何にあるべきか」をあらためて説明しよう。その前に国会議事堂の設計が過去の技法だったオーバーヘッドプロジェクターも使えなくなっているだけではなく、コンピュータを使うパワーポイントも利用出来なくなっている(非近代性というか)点を指摘しておこう。
要点を纏めて表示しよう:
先ず説明者というか数多くの聴衆に語りかける者が準備すべき事は「自分が語りたい内容を主題別に別けて、何ページか何十ページ(?)に別けておくことだ。そして、例えば1~3枚目が「新型コロナウイルスの感染拡大の防止策」だとすれば、それを各ページに三つの見出しに別けて記載し、その見出しの項目以外は一切書き込むことなく準備するのだ。そして、語り手は各項目(最近のカタカナ語に「アイテム」が頻繁に出てくるが、itemとはそもそも項目の意味だ)の語り(narrativeという)を別途用意して、その見出しの内容を詳細に語るのである。
ここで確認しておくと、各ページには「新型コロナウイルスの感染拡大の防止策」との主題以外には3行(または3項目)以外しか表示されていないので空白ばかりになる。その空白の部分に関連した語りで埋めて聞かせるのが「プリゼンテイション」の狙いである。読ませることが狙いではない。その為には数字の票やグラフを沢山盛り込むののも禁じ手だ。聴衆には「これらの図表類は終了後にコピーにして差し上げます」と解説すれば済むことだ。
要するに、各ページに記載された3項目を先ずスクリーンに映し出して、これから何を語るかを聴衆に提示するである。それによって「何を聞かされるか」が明らかになるのだ。1ページにたった3行かとの声が上がりそうだが、それには確たる根拠がある。即ち、長文を書き込んでしまうと聴衆はそれを読むことに神経を集中してしまって、往々にして語りを聞いていないことになってしまうのだ。また、読まずに聞こうとする方もついスクリーンに目が行って聞くことに集中して貰えなくなってしまう。失礼してその最悪の例を挙げれば、尾身分科会長のプリゼンテイションである。
これが第一の原則である。そして、語り手が厳守すべきことは項目(見出し)以外のことに言及してはならないことだ。それは簡単なことで、聞き手は本筋から外れたことを聞かされれば、混乱するだけだからだ。
語りの原稿の準備:
次に重要なことは「予め全ページを通じての語り(既にnarrativeというと指摘した)の原稿を準備すること」だ。逆に言えば、この語りを用意してから、その言いたいことの内容に従って各ページに振り分ける項目を整えても良いのである。個人的なことをいえば、私は先に語りを用意する方だった。因みに、各項目を英語ではbulletかpunch lineと呼んでいる。
ここでW社ジャパンの場合に触れておく。例えば、本社の社長の来日時に「日本市場の現状のプリゼンテイション」をする場合には、その原稿そのものの詳細な検討をジャパンの社長と副社長出席の会議で細かく且つ厳密に練り上げることから始まる。その際には英語の表現までチェックするのだった。そして、narrativeが出来上がってから、個人別と全マネージャー参加のリハーサルが繰り返しおこなれるのが普通だった。Narrativeは聞き手全員分が用意されて、プリゼンテイションが終了した後で「ハンドアウト」として配布されるのだが、社長には事前に提出されている。
各マネージャーは自宅ででも何回も繰り返して読み上げる練習をするのだが、それは単なる棒読みにならないように、完全に記憶できるまで音読を続けるのだ。しかし、その原稿は自分で書いたものであるのだから、記憶できていて当たり前かも知れないが、うっかり記憶違いなどがあってはならないので、私は当日は原稿を持って臨むのだが、それは内容の確認の為だった。
ということは、菅首相が前日に議員会館で練習をされたと言われたのは結構なことだと思う。だが、首相の場合にはご自身で書かれた原稿ではないと聞くので、短時間で記憶するのは無理だろうと思う。故に、下を向いたとの批判は当たらないのではないのかと言いたい。
また、マスコミは居眠りをしていた議員がいたと批判していた。だが、経験上も言える事は一段高い壇上に立てば、何処に座っているどの人が聞いていないかなどは悲しいほどよく見えるものなのである。菅首相は下を向く頻度が高かったとの批判があるが、誰が寝ていたかくらいは見えていたと思う。私には国会の仕来たりなど解らないが、事前に語りの内容を渡していたとすれば、聞いていないか寝ている議員が出るのは当然だろう。
結び:
長々と述べてきたが、私は国会における演説や質問の仕方には、近代化(ICT化かデイジタル化)への一工夫があっても良い時代ではないのかと思っている。ただ読み上げるだけでは余りに無機質で迫力も何もない儀礼的なものにしか感じられない。先ほど、何処かのテレビ局でタレントというのか芸能人というのか知らない者が「偶には原稿無しで総理の思うところをご自身の言葉で語りかける施政方針演説があっても良くはないか」との意見を述べていた。一理はあると思って聞いた。
なお、カタカナ語排斥論者として、最後に一言。私は「プリゼンテイション」と英語の発音に近い表記をして「プレゼンテーション」というローマ字読みが入っているカタカナ語を避けた。あからさまに言えば「何時までこんな好い加減なカタカナ語を使うのか」なのである。特に、略語の「プレゼン」などは論外なのだ。そこでpresentationを英語に近いカタカナ表記すれば「プリーゼンテイション」なのだ。私は何もアメリカ式技法を採り入れよとまではいわないが、聞き手を如何に惹き付けるかの技法は参考になると思っている。