菅首相が懸命に奮闘しておられる様に思う:
私はここでは菅首相に対しては「激励の意を込めていた」つもりで、嘗て故大谷英彦氏が唱えておられた「顔相学」に触れてみようと思うのです。
私が見るところでは、菅首相は大きく分けて「やる気というか闘志が全面に現れてこない型」だと見ています。やや皮肉な見方をすれば「やる気はあっても、そのやる気を如何なる形で表すかに戸惑っているように見える」となります。これでは、何れにせよ批判ですが、見ていて歯痒い思いに囚われてしまうのです。経験上からも言うのですが闘志が表に出ないと、回りと同じように振る舞っていても「やる気不足」という評価になってしまうことになる場合があると思います。
菅首相はその意味では、気を許しても良い場合には笑う事がありますが、常に無表情で感情が出てこないのです。言わば、形だけでも「やる気」を見せないお方なので、損をしていると思えてなりません。菅首相はもっと自信満々の表情で「何ものをも恐れずに突き進むぞ。皆ついてこい」のような強い姿勢というか表情を出して頂きたいと思うのです。私のこの辺りの考え方(人の見方)は故大谷英彦さんが嘗て主張された「顔相学」を取り入れて論じています。
話は飛びますが、私の母親は明治38年生まれにしてはスポーツに詳しく、特にプロ野球を見ていて選手たちが伸びるかどうかを「いい男であるか否かで決まる」と主張していました。だが、不思議な事に良く当たっていました。これも「顔相学」の一種でしょうか。私の顔相学では会社組織内で「急に偉くなった人」や「突然抜擢された人」や「位人臣を極めた人」等が、その地位に相応し力量があるかないかを「何時になれば、それらしい顔付きになるか」で判断してきました。
「それに相応しい顔付きになるかどうか」という点では、別な視点もあります。その顔にならずに「思い上がった顔付きになる人」も案外に多いのだし、その地位に適した実力がない人ほど「偉そうな顔付か、威張った顔になる」ものなのです。我が国の会社組織ではややもすると年功序列で順番が回ってきたか、上司に諂った効果(失礼!)で昇進した人がいる場合が多々あります。そう言う方々は概ね非常に偉そうな顔になって、実力不足を(無意識に?)に補おうとされるようです。
私は「相撲に関心はない」と常日頃言ってきましたが、実は夕方のニュースは詰まらないので、相撲を見ている時もあります。そこで見えてきた事の中には「朝乃山」は一度優勝した後からは「どうだ、俺様は」という思い上がり(傲慢さ)がハッキリと顔に出るようになり、大関になっても負けが込んだり負傷欠場したりという体たらく。今場所で無残に負けてばかりいた貴景勝は、一場所置きにまるで気力がない表情で出てきては、コロコロと転がされます。要するに押すもさんの場合は彼らの顔相で読めるのです。
政治家では、私が何時も批判している西村康稔大臣は「何時まで経っても、自分がやっている事に確信が持てないのだが」という弱気が出ている顔付きです。加藤勝信官房長官はどちらかと言えば、無表情で強気とも思わせる事を言いますが、私は「あれは自信がない事を隠そうとしている証拠」だと判定します。安倍晋三前総理は比較的に顔に出ていませんでしたが、野党に揚げ足を取られて答弁される際に喋りすぎに聞こえる時は「ひたすら防御の姿勢に徹しているのでは」が見え見えでした。
最後に顔相からは離れた話題を。誰だったか失念しましたが「菅首相の辛いところは、いざ総理大臣になってみたら、菅官房長官がいなかった事」というのがありました。良い(痛い)ところを衝いていると思いました。別な読み方をすれば「良き補佐役に恵まれていない事」でしょうか。
ある海外のメーカーに、その分野では我が国で最強であると広く知られていたある商社から、アメリカ市場でもその実力を高く評価されていた遣り手が転進したことがありました。ところが、彼が転進してきて直ちには実績が上がりませんでした。それは「彼はアメリカの大手メーカーに転進すればその優位性を活かしてどのように拡販するかを、商社マンとして研究してあったのです。彼は「必ずその知識と経験を活用できる」と確信していたのです。
ところが、彼が転進して間もなく、その主力として活用する計画だった彼の出身の商社が崩壊してしまったのでした。彼は折角の計画は根本的に練り直しになったしまったと嘆いていました。上記の菅首相の苦境論を聞いて、この遣り手の苦い経験談を思い出した次第です。
私はここでは菅首相に対しては「激励の意を込めていた」つもりで、嘗て故大谷英彦氏が唱えておられた「顔相学」に触れてみようと思うのです。
私が見るところでは、菅首相は大きく分けて「やる気というか闘志が全面に現れてこない型」だと見ています。やや皮肉な見方をすれば「やる気はあっても、そのやる気を如何なる形で表すかに戸惑っているように見える」となります。これでは、何れにせよ批判ですが、見ていて歯痒い思いに囚われてしまうのです。経験上からも言うのですが闘志が表に出ないと、回りと同じように振る舞っていても「やる気不足」という評価になってしまうことになる場合があると思います。
菅首相はその意味では、気を許しても良い場合には笑う事がありますが、常に無表情で感情が出てこないのです。言わば、形だけでも「やる気」を見せないお方なので、損をしていると思えてなりません。菅首相はもっと自信満々の表情で「何ものをも恐れずに突き進むぞ。皆ついてこい」のような強い姿勢というか表情を出して頂きたいと思うのです。私のこの辺りの考え方(人の見方)は故大谷英彦さんが嘗て主張された「顔相学」を取り入れて論じています。
話は飛びますが、私の母親は明治38年生まれにしてはスポーツに詳しく、特にプロ野球を見ていて選手たちが伸びるかどうかを「いい男であるか否かで決まる」と主張していました。だが、不思議な事に良く当たっていました。これも「顔相学」の一種でしょうか。私の顔相学では会社組織内で「急に偉くなった人」や「突然抜擢された人」や「位人臣を極めた人」等が、その地位に相応し力量があるかないかを「何時になれば、それらしい顔付きになるか」で判断してきました。
「それに相応しい顔付きになるかどうか」という点では、別な視点もあります。その顔にならずに「思い上がった顔付きになる人」も案外に多いのだし、その地位に適した実力がない人ほど「偉そうな顔付か、威張った顔になる」ものなのです。我が国の会社組織ではややもすると年功序列で順番が回ってきたか、上司に諂った効果(失礼!)で昇進した人がいる場合が多々あります。そう言う方々は概ね非常に偉そうな顔になって、実力不足を(無意識に?)に補おうとされるようです。
私は「相撲に関心はない」と常日頃言ってきましたが、実は夕方のニュースは詰まらないので、相撲を見ている時もあります。そこで見えてきた事の中には「朝乃山」は一度優勝した後からは「どうだ、俺様は」という思い上がり(傲慢さ)がハッキリと顔に出るようになり、大関になっても負けが込んだり負傷欠場したりという体たらく。今場所で無残に負けてばかりいた貴景勝は、一場所置きにまるで気力がない表情で出てきては、コロコロと転がされます。要するに押すもさんの場合は彼らの顔相で読めるのです。
政治家では、私が何時も批判している西村康稔大臣は「何時まで経っても、自分がやっている事に確信が持てないのだが」という弱気が出ている顔付きです。加藤勝信官房長官はどちらかと言えば、無表情で強気とも思わせる事を言いますが、私は「あれは自信がない事を隠そうとしている証拠」だと判定します。安倍晋三前総理は比較的に顔に出ていませんでしたが、野党に揚げ足を取られて答弁される際に喋りすぎに聞こえる時は「ひたすら防御の姿勢に徹しているのでは」が見え見えでした。
最後に顔相からは離れた話題を。誰だったか失念しましたが「菅首相の辛いところは、いざ総理大臣になってみたら、菅官房長官がいなかった事」というのがありました。良い(痛い)ところを衝いていると思いました。別な読み方をすれば「良き補佐役に恵まれていない事」でしょうか。
ある海外のメーカーに、その分野では我が国で最強であると広く知られていたある商社から、アメリカ市場でもその実力を高く評価されていた遣り手が転進したことがありました。ところが、彼が転進してきて直ちには実績が上がりませんでした。それは「彼はアメリカの大手メーカーに転進すればその優位性を活かしてどのように拡販するかを、商社マンとして研究してあったのです。彼は「必ずその知識と経験を活用できる」と確信していたのです。
ところが、彼が転進して間もなく、その主力として活用する計画だった彼の出身の商社が崩壊してしまったのでした。彼は折角の計画は根本的に練り直しになったしまったと嘆いていました。上記の菅首相の苦境論を聞いて、この遣り手の苦い経験談を思い出した次第です。