新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

1月26日 その2 私は新型コロナウイルスを正しく恐れている

2021-01-26 10:27:19 | コラム
今感染すれば死は免れないと覚悟している:

第2回目の緊急事態宣言発出で東京都ではその効果が漸く出たのか、感染者が800人台に減少した。だが、私はこんな程度では未だ未だ安心するどころではないと思っている。それは、自宅療養せざるを得ない無症状者が言わば無数にいても、中乃至は重症の患者を受け入れる病床がないと、朝から晩まで報道されては、心不全(BNPは180)と弱り気味の腎臓(クレアニチンが1.8)を抱える超後期高齢者としては、保健所が付けて下さるだろう優先順位が高いとは思えないからだ。

常日頃から極力厳守している事は、国立国際医療研究センターの主治医の先生に厳命されている「日頃の行動範囲を逸脱するところまで出ていかない事、及び公共交通機関でも利用を回避する事」なのである。勿論ウイルスの感染が本格化して以来、誰とも外での会食などしないし、覚悟を決めてJRを利用して新橋まで行き、そこからタクシーで京橋のいき付けの理髪店に出掛けたのが最長不倒距離だっただろう。今年になってからの最長歩行距離は、トボトボと老いたる翁のように15分歩いた永年お世話になっているクリニックだ。

折角苦心惨憺して3度の心筋梗塞と2度の心不全による入院という重病を切り抜けたのだから、ウイルス如きに負けて堪るかと歯を食いしばって88歳を迎えたのだから、むざむざとやられたくはないのだ。だが、都内の感染者の受け入れ体勢を見ていれば、到底88歳の私などには優先順位が回ってこないだろう事は明らかだとしか思えないのだ。即ち、感染即ち終末への道だと覚悟をしているのだ。その人生の終わりに至らないで済むだろう方法に、ワクチン接種が徐々に現実のものとして浮かび上がってきたかの感もなきにしもあらずだ。

だが、それでさえ厚生労働省は高齢者に接種を終えるのに3ヶ月を要すると発表した。落胆する前に、これですらも些か楽観的ではないのかと、悲観論者は考えている。その根拠はテレビ報道にあった神奈川県海老名市役所による模擬実験(シミュレーションと言うらしいが)によれば、最低限でも接種会場に5人の医師とそれ以上の看護師さんを配置しなければならないとあった。海老名市側の不安材料は、それだけの医師と看護師さんを大病院か開業医のクリニックが割愛してくれるのかと懐疑的だった事。ここには、その前にある事務手続きの時間等は入っていない。

実は、不安材料はここまでにしようかと思っていたが、先ほどチラと見た(悪名高き?)「羽鳥慎一のモーニングショー」では長崎大学の教授が「75度に冷却されたワクチンを溶かして食塩水と混ぜで注射する技術を持つ医師がどれほど揃うのか」との問題を提起しておられた。また接種後に副反応を見る為に患者(と言うのだろうか?)を30分留め置いて観察する場所が常時取れるのかと、そこで見守っている看護師さんが1人で足りるのか」との疑問も語っておられた。要するに、数十万人もの高齢者に2回接種するには、多くの常設会場と時間がかかるという話だった。

こういう事を採り上げるので、このショーには兎角の噂というか評価が出てくるのかも知れない。だが、私の持論である「現場と実務を知らない人には任せておけない」を当て嵌めれば、かかる議論は必要になってくるし、河野太郎担当大臣が明27日に川崎市で実験を行うのは「正しく恐れている」良き例であると思うのだ。その結果次第では、私は後少なくとも3ヶ月は在宅に努めて自粛態勢を採り続けておくべきであるとの結論が出てくるのだと思う。矢張り、現時点では「正しく恐れる事」以外に何があるのかだと自覚している。



再び「顔相学」関連の話を

2021-01-26 08:36:30 | コラム
表情が何を物語るのか:

私は先日「顔相学」を論じた際に、西村康稔大臣が確信を持って対策を打ち出しておられない事が顔付きに表れていると指摘した。更に、坂井学官房副長官の風貌が自信のなさの表現ではないかと批判した。これらの指摘は決して根拠がない事ではないと述べておこうと、あらためて採り上げてみようと思う。

その根拠の一つに日本大学フェにクス元監督の故篠竹幹夫氏の言葉がある。篠竹氏は「俺に体調が悪いとか、僅かでも何らかの悩み等があった場合には、その弱味が何処からともなく顔付きなり何なりに隙となって現れるようだ。すると、部員たちはその微妙な隙というか変化を感じ取って、微妙に手を抜いた練習をしてしまうか、気合いが入っていない試合振りにしてしまうのだ。即ち、指導者足る者は常に心身を万全に整えて、その場に臨まねばならないのだという事だ」と語られた。「あの強気一辺倒の如き篠竹氏にしてこの言ありか」と痛感した。

この篠竹監督の言わば反省の弁を何人かの同大学の先生方と、他の大学の教授にも語ってみた。反響はと言えば全員が肯定されたのだった。即ち、皆が「教壇に立つ際に常に心身共に完全な状態ではない事はあり得るし、何らかの悩みか弱い点があるものだ。すると、恐ろしい事に学生たちは瞬時にその辺りを見抜いて、適当にしか講義を聴いていない状態になってしまうのである。我々は一瞬たりと雖も、学生たちに隙であるとか弱みを見せてはならないのである」と認められたのだった。組織の指導者や教員足る者の心構えの基本を聞かされたのだと受け止めた。

不肖私の経験も振り返ってみれば、リタイア後の1994~96年にかけてはアメリカの民主党政権からの「紙類の輸入を増やせ」との圧力があって、業界の言わば至るところで「アメリカの紙パルプ業界の実態と、アメリカの製紙業か恐るるに足らず」との講演をする機会を与えられていた。そこで見えてきた事に「一段高い演壇に立てば、聴衆がどれほどおられても、どの方乃至はどの辺りの方々が聞いておられないかは手に取るように見えてくるし、こちらが自信がない事を語っていれば、まるで手応えがないことなど、聴衆の表情が無残に教えて下さる」という点だった。

換言すれば、「多くの聴衆に語りかける時には、事前に十分に原稿を練り上げておく事も肝腎だが、自信を以て語りかけねば、ほぼ間違いなく相手にされないという厳然たる厳しさがあると認識してかかるべきだ」なのである。国会では野党が屡々「事前通告をしていませんでしたが」と断って質問するのを聞く事がある。そう言う時に自信がないと言うか、揚げ足を取られるような答弁をすれば、その表情を読んだ野党に付け込まれるのだろうと思いながら聞いている。

今回申し上げておきたかった事は「講演や講義などをする場合には、準備不足による自信のなさや、知識の不足等が表情に出ないように、万全の態勢でその場に立つべきではないか」なのである。新型コロナウイルス制圧対策などには、未だに全世界に確立された手法もなく特効薬もない時点である以上、「これで万全であるとは断言しないが、我々を信じてついてきて頂きたい」くらいの宣言をして「緊急事態宣言」を発出されても良かったのではないか。小池都知事のように「ご協力頂きたい」では、言葉は丁寧でも弱すぎる恨みが残るし、表情を読まれてしまう。