新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

1月10日 その2 何故ラグビーの試合の方がサッカーよりも面白いのか

2022-01-10 14:27:10 | コラム
サッカー出身者の嘆き:

昨9日の大学ラグビーの決勝戦、帝京大学対明治大のし合いは残念ながら最後まで面白く、と言うか飽きずに見てしまった。そこで感じたことはといえば、日本代表もそうだがこれというサッカーの国内でも国際試合でも、最後まで興味を以て見ることが極めて希になってしまったことが、あらためて残念に思われてきたのだった。

私には何もラグビーを礼賛しようという気まではないが、単純に言って「現在の我が国のサッカーの試合には、手に汗握りたくなるような感動も興奮も味わえなくなってしまったと嘆いている一方なのである。残念ながら同じ「フットボール」の範疇に入るラグビーの試合を見ていると、サッカーにはない面白さを感じてしまうのだ。

昨日も、明らかに帝京大学の方が一枚上で、私にはアナウンサーの語り方が肩入れしているかのように聞こえる明治大学には、どう転んでも勝ち目はないと思っていた。但し、帝京大学のキッカー兼スタンドオフだったと思う者が、あれほどトライの後のコンバージョンのキックを外していては、もしかすると明治が少ないトライ数でもひっくり返せる危険性が出てくるのではないかと懸念していた。このキックの失敗を除けば「両校とも良くやっている」と、サッカーにはない熱戦の鑑賞を楽しんでいた。

では、敢えて日本代表のサッカーを槍玉に挙げて「何処が駄目か」を言えば「彼らはラグビーとは違って攻め続けないのが怪しからん」となるのだ。しかし、ラグビーの場合は、あの競技の性質からして、サッカーのように後陣で無意味なパス回しをし、前線にいるFWたちが消極的な責任逃れのパスに耽ってはいられないのだ。彼らは兎に角ボールを持てば、往年の明治大学北島監督が指導方針とされた「前へ」と出て、攻める以外にはないようになっているのだ。

スポーツ担当のマスコミは、その雄々しさと勇敢さを賞賛して「これぞ男のスポーツ」などと持ち上げているのは正直に言って気にくわない。後陣で深く蹴り込まれたパントを捕球したFBが、もしも下がってきたTBたちとパス交換などをして遊んでいれば、相手の第一戦にいる勇士たちが突っ込んできて「ターンノーバー」(turn overは「ターンオーバー」とは発音しないのである、念の為)されてしまうことだってあり得るのだ。ラグビーというフットボールでは「攻める」と「守る」が常にそれこそ火花じゃなかった、汗を散らして争うものなのである。

我らのA代表のサッカーではそうとは行かないのである。昭和一桁生まれでWMフォーメーションの時代に育てられてきた者には間怠っこくて、とても見ていられないのだ。彼らは何が何でも安全第一のようで、一寸でも相手のデイフェンスが近寄ってくれば躊躇せず後ろに蹴ってしまい、その後でも少しでも何処かスペースを見つけて走り込んでチャンスの芽を見出そうといった積極的な動きをしてくれないのだ。私はもしも各選手が球に触れた数を正確に記録しておけば、もしかすると吉田麻也と富安が最も多くないかとすら疑っている。

回りくどいことを言わずに簡単に言えば「一旦ボールを持って攻撃権を得れば、まともに攻めて行かざるを得ないラグビー」と「後方からGKまでを含めてピッチを広く使ってまでもパス回しに重点を置いて、積極果敢な攻撃は絶対安全なチャンスが来るまでは無闇にシュートを狙わない」サッカーとでは、何れが観客の興味を引き、感動と興奮を与えられるかという問題だと思っている。言いたくはないが、マスコミ的な俗説「これぞ男のスポーツ」はこの二つのフットボールの違いを正確に表していないのだという点を指摘したいのだ。

正月の間に高校のサッカーも何試合か観察する機会があった。不思議なことに「高校の段階では目に余る『後ろから横→横』と消極的なパス回し」はごく希で、皆懸命に前を向いて攻めようしていると見た。すると、あのA代表の消極性は森保監督の方針なのだろうかと考えさせられた。現在の高校生たちは昭和20年代に我々が到底為し得なかった軽業に近いとすら感じるほど球扱いの技術が高く、また球慣れしている。その技術と現在の体力と身体能力を備えていていながら、あの消極性は何処から来るのだろう。

もう一つ、ラグビーと比較した場合の「何でだ?」と言いたい疑問点を挙げておこう。これは20年以上も前にジムで知り合ったXリーグのフットボールテイームのトレーナーたちが指摘していたことで、「サッカーの選手たちの体幹の強化訓練の不足」である。私は以前から彼らの「当たられ弱さ」を挙げて、その大きな原因が「ウエイトトレーニング不足にあるのでは」と指摘してきた。また、前出のトレーナーたちもそう指摘していた。

大学生と高校生を比べるのは適切ではないが、昨日の両大学の選手たちの体格と決勝戦に進出する青森山田高校のサッカーの選手たちを比較すると、残念ながら高校生たちの体格は「貧弱」としか見えなかった。いや、A代表にしたところで、ラグビーの全日本級とは比べものにはならないと思う。競技の仕組みと内容が違うと承知で言っているのだが、サッカーの指導者たちには基本的な鍛え方を考え直した方が良くはないのかと申し上げたい。私は基本技も在り方にも言いたい事が多々あるが、その点は本稿の主旨ではないので触れないことにする。

正月のスポーツに思う事:

2022-01-10 09:27:18 | コラム

東京一極集中と名前:

元日の社会人の駅伝競走に始まって、昨日の帝京大学対明治大学のラグビーまで、多くの競技を見てきた。私が競技そのものよりも特に注目していることがある。それらは「各選手の出身高校と大学」と「名前」である。「名前」に敢えて注釈を付ければ「馬鹿な言葉で言う『下の名前』であり、氏名の名前の方のこと」だ。

一極集中:

対象を実質的に関東地方で開催された競技に絞って見ているのだが、数多くの選手たちの中に東京都と東京都下の高校の出身者は一割もいないと見た。社会人の場合は一先ず除外して考えて見ると、あれほど多くの若者たちが上達乃至は究極的にオリンピック代表にまでなれるような機会を求めてというか、大学や社会人に勧誘されて広義の東京の学校や企業に出てくるのだから、東京一極集中の傾向が止まらない訳だと思わせられている。

即ち、競技の種類によって異なるだろうが、選手たちは地方の高校で目立った働きをして、各種競技の関東大学リーグの大学に入学して実績を残し社会人の一流テイームの一員になるか、社会人リーグのテイームに入団するか、プロの道を選ぶか、または指導者等々になって行くのだ。そして、やがては所帯を持って東京都か都下、乃至は近郊の関東地区内に生活拠点を設けるのだろう。何となく「風が吹けば桶屋が儲かる」的な論調かも知れないが、私はこのようにして人口の東京都と関東地方の一極集中傾向が止まらないのだろうと考えている。

昨日の大学ラグビーでも彼らの出身高校に注目していると、帝京大学に國學院久我山高校出身者が数名発見できた以外は、殆どが東京都外の強豪校の出身者だった。それを良いと悪いとか言うのではなく、東京一極集中がこのように進み続ければ、大袈裟に言えば地方の過疎化と、若者は東を向いて東京を目指すという流れは止まるところを知らないことになりはしないのかと言いたいのだ。

以前にも指摘したことだが、立命館大学のあるコーチは「高校の有望な長距離走者の勧誘は諦めている。それは、彼らは皆箱根駅伝に憧れているからだ」と嘆いていたことは紹介した。この嘆きが示すように、一事が万事「我こそは東京の大学に」となってしまうようなのだ。しかし、フットボールのように明らかに「西高東低」であれば、関西の強豪大学に東京都下の高校出身者がいるようになっている例もある。

名前:

これは超後期高齢者から見れば「最早絶望的だ」となる。それは、彼らの名前は「辛うじて読める」、「全く読めないどころか、読み方が想像出来ない」、「意味不明」、「当て字ばかりか?」、「外国人の名前(ファーストネーム)のもじりか」、「こじつけでは」という具合だ。特に目立ってきたのは「在来の漢字に草冠だの人偏だの行人偏を付けた漢字の多用」がある。

また、「大」という字を使って「ヒロ」や「タ」と読ませる例がやたらに多いのは、かの田中将大の影響があるのかと疑いたくなるし、「雄大」も多い。また「太」、「斗」、「翔」等の我々世代にはあり得なかった漢字も多用されている。「翔平」も増加傾向にあるのは、何と言っても大谷翔平君にあやかろうとしたのかと勘ぐっている。

上記の例などは未だましな方で、私が寒心に堪えないと嫌っているのが「こじつけ」と「無理筋の読み方」なのだ。例えば、甲子園を湧かせた金足農高の吉田輝星君の「コウセイ」などは未だお手柔らかな方で、読み方を想像も出来ないような命名をする現代の親御さんたちは「我が国の伝統と文化を何処まで破壊する気なのか」あるいは「そういう事に全く無頓着」の何れかだろうと思って、ただただ嘆いている。このような現象は、果たして国語力の低下なのか、新時代の創造の始まりなのかと思い悩んでいる。