東京一極集中と名前:
元日の社会人の駅伝競走に始まって、昨日の帝京大学対明治大学のラグビーまで、多くの競技を見てきた。私が競技そのものよりも特に注目していることがある。それらは「各選手の出身高校と大学」と「名前」である。「名前」に敢えて注釈を付ければ「馬鹿な言葉で言う『下の名前』であり、氏名の名前の方のこと」だ。
一極集中:
対象を実質的に関東地方で開催された競技に絞って見ているのだが、数多くの選手たちの中に東京都と東京都下の高校の出身者は一割もいないと見た。社会人の場合は一先ず除外して考えて見ると、あれほど多くの若者たちが上達乃至は究極的にオリンピック代表にまでなれるような機会を求めてというか、大学や社会人に勧誘されて広義の東京の学校や企業に出てくるのだから、東京一極集中の傾向が止まらない訳だと思わせられている。
即ち、競技の種類によって異なるだろうが、選手たちは地方の高校で目立った働きをして、各種競技の関東大学リーグの大学に入学して実績を残し社会人の一流テイームの一員になるか、社会人リーグのテイームに入団するか、プロの道を選ぶか、または指導者等々になって行くのだ。そして、やがては所帯を持って東京都か都下、乃至は近郊の関東地区内に生活拠点を設けるのだろう。何となく「風が吹けば桶屋が儲かる」的な論調かも知れないが、私はこのようにして人口の東京都と関東地方の一極集中傾向が止まらないのだろうと考えている。
昨日の大学ラグビーでも彼らの出身高校に注目していると、帝京大学に國學院久我山高校出身者が数名発見できた以外は、殆どが東京都外の強豪校の出身者だった。それを良いと悪いとか言うのではなく、東京一極集中がこのように進み続ければ、大袈裟に言えば地方の過疎化と、若者は東を向いて東京を目指すという流れは止まるところを知らないことになりはしないのかと言いたいのだ。
以前にも指摘したことだが、立命館大学のあるコーチは「高校の有望な長距離走者の勧誘は諦めている。それは、彼らは皆箱根駅伝に憧れているからだ」と嘆いていたことは紹介した。この嘆きが示すように、一事が万事「我こそは東京の大学に」となってしまうようなのだ。しかし、フットボールのように明らかに「西高東低」であれば、関西の強豪大学に東京都下の高校出身者がいるようになっている例もある。
名前:
これは超後期高齢者から見れば「最早絶望的だ」となる。それは、彼らの名前は「辛うじて読める」、「全く読めないどころか、読み方が想像出来ない」、「意味不明」、「当て字ばかりか?」、「外国人の名前(ファーストネーム)のもじりか」、「こじつけでは」という具合だ。特に目立ってきたのは「在来の漢字に草冠だの人偏だの行人偏を付けた漢字の多用」がある。
また、「大」という字を使って「ヒロ」や「タ」と読ませる例がやたらに多いのは、かの田中将大の影響があるのかと疑いたくなるし、「雄大」も多い。また「太」、「斗」、「翔」等の我々世代にはあり得なかった漢字も多用されている。「翔平」も増加傾向にあるのは、何と言っても大谷翔平君にあやかろうとしたのかと勘ぐっている。
上記の例などは未だましな方で、私が寒心に堪えないと嫌っているのが「こじつけ」と「無理筋の読み方」なのだ。例えば、甲子園を湧かせた金足農高の吉田輝星君の「コウセイ」などは未だお手柔らかな方で、読み方を想像も出来ないような命名をする現代の親御さんたちは「我が国の伝統と文化を何処まで破壊する気なのか」あるいは「そういう事に全く無頓着」の何れかだろうと思って、ただただ嘆いている。このような現象は、果たして国語力の低下なのか、新時代の創造の始まりなのかと思い悩んでいる。