新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

海外に向けての情報発信を考える

2022-01-31 09:37:35 | コラム

何故、我が国の情報発信が質量共に不足なのか:

この度の佐渡島の金山を世界文化遺産に登録をしようというときに、例によって例のごとく韓国から不当な横槍が入ったことが、何故起きたかを考えて見た。韓国からの「歴史認識」とやらを理由とする不当な干渉は今に始まったことではないないのだが、私が遺憾に思っていることは、何時でも韓国に対する掩護射撃は何処からともなく出てくるが、我が国を掩護する国も論客も少ないことだ。

例えば、ハーバード大学のマーク・ラムザイヤー教授(J. Mark Ramseyer)のように慰安婦問題で韓国の嘘を暴いてくれた方に対する韓国の攻撃は凄まじいのだが、我が国から誰かがラムザイヤー教授の掩護に回ったという話は残念ながら聞いていない。日頃から我が国とは如何なる国なのかとの正確にして公式な情報に接していない(のだろう)国々はどうやら韓国が発信する不当な情報を信じてしまっているようにしか思えないのだ。

とは言うが、私は我が国の政府(外務省?)から全く情報が発信されていないとは思いたくないし、そうまで思ってはいない。私は我が国から発信された情報の量も兎も角、その質に問題がありはしないのかと考えたいのだ。だからこそ、何時まで経っても理解されざる国であり続け、アメリカの一般人の中にも「日本とは中国の一部ではなかったのか」などと言う者に出会ってしまうのだと思うのだ。

ヨーロッパの人たちとはアメリカ人たち程に接触する機会がなかったが、アメリカ人たちは自分の州のことしか脳裏になく、外国の事情などには我が国の人たちほど関心がないと思っていて間違いではないだろう。私の嘗ての上司や同僚という知識階層の人たちでも「日米安保条約」の存在を知らなかったのだ。極論かも知れないが、同盟国であるアメリカがこの有様では、ヨーロッパの人たちにも我が国とは如何なる国かとの理解を期待するのも無理がありはしないか。

ここで、考えて見ることは「我が国から発信される情報の質」である。その大部分が英語によるものと仮定してみよう。英語は確かに今や世界の何処でも通用する国際語になっているのは間違いないだろう。だが、だからと言って発信する情報の英語の質が「我が国独得の学校教育的な英語であっても宜しい」とはならないと思う。私は何度も指摘してきたことで「あれは『英語』であってもEnglishではない」のである。

だから、私は「何とか読んで貰っても、中々真意まで理解されないのではないのかな」と懸念するのだ。日本語の文章だって、今日では難しい漢字を多用した紙面が真っ黒く見えるような文章は、それだけで敬遠される傾向があると聞いたことがある。論旨の飛躍をお許し願えば「だから安易に『トラブル』だの『シンプル』だの『スタッフ』などと言うカタカナ語に逃避するのだろうと、私は本気で疑っている。

以前に安倍元総理の通訳を務めておられた方の英語を「難しい言葉(英語ではbig wordなどという文語的な単語)を多用されていて立派な文章になっているが、如何にも大仰で堅苦しい」と失礼にも批評したことがあった。相手には解って貰えても「堅苦しい格式張った人だ」との印象を与えかねないのだ。私はこれと似たような感があった文章を見たことがあった。その英文は立派なのだが、大時代的で難解で格調高いので、万人が喜んで読むような易しいものではなかった。そこで訊けば、外務省のOBで立派な文章家だと尊敬している方のものだというのだった。

それを聞いて「なるほど」と解った気がした。その意味は「我が国の諸官庁からは余りに立派すぎるし堅苦しくて、読んでいる途中で草臥れてしまうような美文調の、万人向きではない情報を発信していたのではなかったか」なのである。それは、私が常に唱えてきたことは「文章は簡単というか中学1年の教科書に使われているような易しい言葉を沢山使って、誰にも解りやすいように書きなさい」という、何人ものアメリカ人に教えられた大原則から遊離していると指摘したいのだ。

別な言い方をすれば「我が国の学校教育では単語を覚えることに重点を置いているようだが、そこにはどれが口語でどれが文語であるというような仕分けがされていないのでは」という疑問を感じるのだ。また、文法で8品詞を教えていても「口語体」と「慣用句」の区別も教えていないようなのだ。だから、ごく普通に日常会話の中でもbig wordを登場させるような結果になるのだ。

例えば、何度も非難してきたcollaborateのような単語を、平気でカタカナ語にしてしまうのだし、何でもかんでも「コミュニケーションを取る」などとしてしまうのだ。私は「コラボレーション」という単語があるとは承知していたが、上司や同僚たちが使ったのを聞いた記憶がないし、自分では使えない大袈裟な単語だった。その意味を言いたければ、“to work together with George“のように言うだろう。日常会話や社内の報告書に出て来ない文語なのであるから。

「コミュニケーションを取る」というのも、未だに良く解らない。我々というか彼らは“Let’s take a communication.”などとは言わないのだ。コミュニケーションとは「意思の疎通を図る行為」を総称しているが、日常で使うことなど聞いたこともない。「話し合いをしよう」と言いたいのだったら“Why don’t we get together and talk about it among the two of us.”などとは言うかも知れない。良く聞いた表現は“Let’s sit down to have a chat about that issue.”のようなものだった。これならば平易で解りやすくないか。

言いたい事は「万人に解りやすく平易であり、且つキチンとした言葉を沢山使って論点を詳細に論じて主張するような文章で情報を、定期的に発信されたら如何か」なのである。即ち、韓国が言う佐渡の金山において強制労働などなかったと、詳細にしっかりと述べることを指摘し続けるのだ。堅苦しい国家を代表しているような気負った文章である必要はないのだ。アメリカ人の社会に長い間務めて解ったことは「知性が高く、地位が高くなった人が書く文章は、平易な言葉を使って解りやすいのだが、そこにも十分格式が備わっていること」だった。