新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

人にはそういう予感があるものだろうか

2022-01-15 08:59:57 | コラム
そういう事だったのか:

どうしているのか:
今となっては5年前のことになってしまったが、昭和30年4月に同期入社だったもう50年以上も会っていなかった芦屋高校から関西学院大学出身の如何にも洗練された感に満ちた学歴のO君から電話があって驚かされた。彼は私の古巣だった会社の役員を引退されて関西の大地震で破壊された芦屋の家を建て直して暮らした後で、お嬢さんの嫁ぎ先である熊本市に移転したとは風の便りに聞いていた。その彼からの突然の電話にやや驚かされてナンバーディスプレー方式で留守電になっていたところから受話器を取った。全くの余談だが「当時は関西学院大学が『関西の慶応大学』などと呼ばれていた。

O君曰く「新年に当たって年賀状を整理していたら君の賀状を発見して懐かしくなったのでどうしているのかと声をかけた」と言った。更に「もうあちこちが悪くなって50 mも歩けへんねや」と言った。そこで「熊本は良い所だと聞いているので、動けるうちに一度お邪魔しようか」と返してみると「良い話だ。待っているから是非来て下さい」と言って半世紀ぶりの会談が終わった。その頃に、私が知っていた彼の消息は「彼は不運にも芦屋で被災し、転出先の熊本でも大地震に遭っていたようだ」というだけだった。

その後の初夏になった頃に、3期下だった別のO君に「熊本のO君から電話を貰った」と言った所「ご存じなかったようですが、Oさんは4月に亡くなっていたのですよ。恐らく何らの予感があって懐かしき同期生の貴方に電話されたのでしょう」と言われて、驚きと同時に何とも表しようがない感傷と感覚で言葉が出てこなかった。「人はそういう感覚に囚われるものなのか」と、痛感させられたのだった。

寒中お見舞い申し上げます:
昨日、見慣れない女性の名前のこのような葉書が来たので、何事かと読んでみた。それは、昭和38年(1963年)頃だったかに当時勤務していた大阪支店の関係で知り合った仲間(紙流通業界の隠語で「同業者」の意味)だったW氏が令和2年の12月に亡くなっていて、彼のお嬢さんから訃報のお知らせが遅れたことと、年賀状を貰っていたことに対するお詫びの葉書だったのだ。

同志社大学出身の切れ者のW氏とは何故か良く気が合って、彼が住友商事の紙パルプ部門の内販会社に引き抜かれ、私がアメリカの会社に転進した後からも、50年以上も連絡を取り合う業界内の親友という間柄だったのだ。そして、常に私の得意とする「関西弁」を駆使して、情報を交換しあう付き合いとなっていた。そのW君が一昨年の10月頃だったか、「心不全で入院してもうたんじゃ」と、朗らかな声で病室から携帯で電話があった。

彼は「症状は大したことはないので、主治医からこうしてベッドを離れて電話しても良いと許可も貰っている」と言うので、「早く良くなって、また帝国ホテルででも語り合おうやないか」と返して「大事にせーや」と言って終わった。だが、上述のあのO君の辛い思い出があるので「もしかして・・・」との感は拭いきれなかった。「まさか」とは思っていたが、一昨年は年賀状が来ていなかった。今年も来ていなかった。そこにこのお嬢さんからの葉書だった。彼も矢張り何かを感じて電話をしてきたのかと解釈する以外なかった。電話を貰って暫くしてから連絡すべきだったかと悔やんだ。

会おうじゃないか:
正月の2日には現職時代とその後にも親交があり、私のリタイア後にも色々と仕事を頂戴していた大手取引先会社の副社長だったK氏からショートメールが来て、急遽10年振りの会談となった。K氏は未だ70歳台半ばのはずだし、久しぶりに語り合ってみれば往年の論客振りは一向に衰えてはいなくて、相変わらず天下国家を滔々と論じておられた。だが、10年も音沙汰なしで急に会おうと言われると、何となく胸騒ぎがしてしまうものなのだ。

そう言って、我が身のことを考えて見ると、近頃は「あの人には電話をしてみようか」とか「確かメールアドレスは残っているので、連絡してみようかな」などと思いつくことは増えてきた。そして「まさか、俺にもそういう予感があるのか」などと考え込まされている。そこに、去る11日の国立国際医療研究センターでの定期検査と診断の結果が、これまでに無かったような悪い数値が出ていた。そして、主治医の医長先生に厳しく警告されたので、少なからず落ち込んでいるところなのだ。