新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

W杯サッカー最終予選対中国戦観戦記

2022-01-28 10:10:18 | コラム
良かったのは勝ったこと:

この試合は事前にマスコミが「デイフェンスの要である主将の吉田とヨーロッパでもその存在が認められている若手の部類に入る富安の両名が負傷欠場することを大いなる不安材料」として取り上げていた。しかしながら、当てにならないとは言え、FIFAのランキングでは我が方は26位なのに対して中国は74位である。それでも不安視されるとは、森保監督は余程信頼されていないのかなと感じていた。

結果としては、中国は放ったシュートは狙いがはずれたFKからのキックをシュートと看做しても、これ一本のみに終わった有様で、ランキングの通りの結果が出たということだった。特に前半にはアナウンサーが伝えていた事で、我が方のボール支配率が70%を超えていたことが示したように圧倒的に中盤を支配して、ただ単に味方同士で安易にボールを回し合うという、実に歯痒い試合運びだった。解説者というよりも応援団に近い感がある松木安太郎ですら「この相手ならば前半に3点取れても」と言っていたほど。

私が「歯痒い」という根拠は「前半でのパス回しには、何かやってやろうというような積極果敢な(カタカナ語では「アグレッシブ」だが)意図が感じられるパスではなく、ただ単にフリーで近くにいる味方に回しているだけ」だったからだ。中国は案外に引いて守っていると言うよりも比較的突っかけてきてくれていたので、その気になればアナウンサーたちが言う『ラストパス』を出せたと見ていたが、弱気なのか慎重なのかは不明だが、相手にボールを触らせない時間をひたすら引き延ばしているだけの感があった。

それでも、前半早々にゴールラインに向かって突っ込んだ伊東純也のセンターリングが首尾良く?相手デイフェンスの腕に当たってPKを獲得して、1点先行できたのだった。我が方は確かに何本かシュートを放ってはいたが、永年の欠陥である決定力不足振りを見せただけの結果に終わっていたのは残念だった。この点は今後とも強化が必須だと思う。

後半に入って監督の指示が変わったのか、交代で入った者たちが良かったのかは知らないが、意図を感じさせる鋭さを感じさせる「前へ」や「裏へ」のパスが出るようになって、無意味なパス交換が減ったのは良かった。私には森保という人の考え方が良く解らないのだが、彼は久保や堂安のような「最早育てる段階にはない」若手の起用を避けるのだ。昨夜も、久保を入れてからは私の目には意図的なパス交換が増えたと見えたし、堂安も得点を狙う意図を見せる動きをしたので、全体的に活気が出たと思えた。

マスコミが懸念して見せたデイフェンスには何らの問題はなかったと思う。というよりも「あれは不味いのでは」と思わせた守り方は1~2度あっただけで、ほぼ完全に中国を抑えきっていたのは大変良かったとは思う。忌憚のない所を言えば「勿論、彼らが中国を完封してくれたのだが、中国の選手たちは身体能力には優れていて鋭い動きも散見されたが、所詮は我が方の守りを突破できるだけの形ができていな次元に至っていなかっただけ」となる気がする。

先ほどは「決定力不足」を批判したが、私が見るこの選抜(寄せ集めとも言えるが)テイームの問題点はといえば、大迫には力強くシュートを決める力が不足していることと、皆が寄って集って褒める伊東純也のサッカーが未だ未だ粗雑であることなのだ。ずっと言い続けてきたことで、伊東は確かに足が速くデイフェンスを抜き去ってくれるが、そこから先では「私は未だ嘗て彼が正確なクロスパス(往年はセンタリングと呼んでいた)を中にいるFWに供給して得点になったのを見たことがない」のである。私は誰が何と言おうと不満なのだ。

私の希望は森保監督が74位に勝ったからといって安心することなく、次なる重要な試合であるサウジアラビア戦に向けて万全の態勢を整えておいて欲しいのだ。確かに昨夜は弱敵が相手では守りは破綻しなかったが、矢張り吉田と富安の復帰が待ち遠しい気がしてならない。

最後に矢張り「言葉」の問題を二つ取り上げたい。試合開始前に川平慈英がしたり顔で伊東純也を「スピードスター」と表現していたのには困った。彼は上智大学の比較文化学部という記憶違いでなければ講義が英語だった所の出身者なのだ。スピードスター(=speedster)は以前にも触れたことで「スピード狂」のことで、誤解されてカタカナ語化された“speed star”即ち「スピードがあるスター選手」ではないのだ。

次は何時も方々でアナウンサーが「主将としての統率力」の意味で誤用する「キャプテンシー」(=captaincy)である。これは「主将としての地位」を意味する単語。「主将としての統率力」はジーニアス英和には“captainship”とある。だが、Oxfordにはこの言葉は載っていないが。私は矢張り「キャプテンシップ」と言うか「主将としての統率力」と普通に日本語で言う方が良いと、テレビ局の方々に苦言を呈したい。