新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

我が国とアメリカの企業社会における文化比較論 #5(加筆訂正版)

2022-01-03 14:33:57 | コラム
我が国とアアメリカの企業社会に於ける文化比較論 #5 (加筆訂正版):

この私の得意とする文化比較論は、今年になって見れば14年近くにもなってしまった2008年の3月に掲載したものである。有り難いことにこの比較論を今でも読んで頂いていると知ったので、ここにあらためて時代の変化に合わせて加筆訂正して見ようと考えた次第である。その変化の最も著しい流れは「ある程度以上の規模の会社で出世するか、激化する一方の競争に耐えて生き残ろうとすれば、MBAを取得してから就職することが最早必須に近い状況にあると、現地の友人たちから聞かされているのだ。

我が国とアメリカの企業社会に於ける文化の違いを考えて見れば:

(1)両国では同じように会社と称していて何処が、どのように違うのか:
Job Security:
これは我が国の企業社会にはない概念だろうと思われることで、その意味は「雇用確保」、「雇用保障」、「職業の安定」、「職の保障」辺りになるだろう。その詳細を具体的な例を挙げて説明していこう。

“Nobody is indispensable.” :
これは私に外資に転職を勧めてくれた日系カナダ人で英国の大手製紙会社の日本代表だった業界の有名人のGN氏が、いわば「座右の銘として肝に銘じて覚えておけ」と言って教えてくれた教訓である。

 如何なる意味かを具体的に述べてみれば「自分のことを“余人をもって代え難し”などと絶対に思うな。貴方を簡単に採用したということは、もしもその職務に不適格と上司が判断すれば、直ちに代わりの人を採用して君を辞めさせるぞ」ということなのである。会社側が好条件で誘ってくれたということは、その高給に見合う働きがなければ、雇った側は何時でも解雇する権利を保有するものだと理解すべきなのである。

 私はこの点はかなり明瞭に日本の会社とは違うと思うし、実際にそうされてしまった実例も見てきた。アメリカの会社に職を得ようとするか、転進しようとするならば、そのような仕組みになっている社会であると事前に十分に理解して心得た上でなければならないという意味でもある。

 「99%自分の職は安全だと思うが、残りの1%の失職の危険から身を守るために常に最善の努力をする」:
これはW社の日本代表だった、日本の大手商社から転進してきた大先輩にして業界の有名人の言葉である。彼は良く言っていた「彼らアメリカ人がこの俺をクビにすることなどは99%あり得ないと思っている。それほど自信もあるし、評価されていると信じている。だが、彼らの手法というか社会通念では、何か一寸した失敗をすれば、いともあっさりとどんな有能な者でも辞めさせる。普段はその切られる確率が1%であっても、何か過ちがあると一気に99%にまで膨れあがってくるものだ。私はその1%を何としても1%に押し止めておこうと、常に全力で動いていなければならないし、会社もそれを期待していると考えている」のように。

ここにも日本の会社とは決定的に違う点があるのだが、その「辞めさせる権限」の所有者は彼の(私のでも良いが)直属上司か、部門の最高責任者ただ一人であることを良くご理解願いたい。

 “I’m not paid for that.” :
これを意訳すれば「自分は自分に与えられた仕事をするための給与しか貰っていないので、それ以外の仕事をする分は貰っていない」である。即ち、他人の仕事がどうなろうと自分は関係ないという、日本の会社の組織から考えれば「とんでもない」主張なのである。アメリカの企業では各人の仕事の内容・詳細・割り振りは“Job description”に詳細に規定され明記されている。そして、その範囲内で給与を貰っているのであるから、Job descriptionにないことを引き受ける理由はないのである。

例えば、同じ事業部で隣接するオフィスの人が休暇だからといって善意から手伝っても、一銭にもならないのである。ましてや、そこで何らかの間違いでも犯したら、その責任はどうなるという問題が発生する。だから、他人のことは構わないで良いのだ。であるから、ボスが休暇中に秘書がその代理を務めることはないと言える。彼女(または彼)はその秘書の分の給与しか貰っていないのだから、ボスの仕事にまで責任を持たないのは当然なのである。

 だが、別な問題もある。Job descriptionの範囲内の仕事だけしかいないでいれば、先ず絶対と言える程大幅な昇給もしなければ、昇進もできない世界である点である。換言すれば、現状で満足ならば無理せずに言われただけのことをしていればよいかも知れないが、それでは何時か職を失う危険がある。守りの姿勢よりも、同僚かまたは他人の仕事を奪ってまでもと言うのは極端だが、積極的に仕事の範囲を拡大して上司に認めさせなければ、出世乃至は生存競争から取り残されるか、職を失う結果となることを忘れてはならない。

 別な言い方をすれば「これだけやったのだから、これだけ貰いたい」と主張する世界なのである。故に「日本人向きかな」という疑問は残る。何故ならば、昇給したら、来年はまたその上を行く働きをして結果を出すと期待される。さらにそのまた来年はとなると、どうなるだろうか?

 (2)人事制度の違い:
貴方の昇進はない:
アメリカに面接試験を受けに行く:
1975年1月、アメリカはワシントン州のW社にインタビューを受けに行った時のことだった。私を採用すると営業担当のマネージャーが決めた後で、人事の担当者にも会っておけと、人事部に回された。この人事部は日本のそれとは全く異なる存在で、いわば社員の出入りの記録を取っているような仕事をしているだけだと聞かされた。この辺りは別途詳しく説明するが、日本の組織と採用のシステムとは全く異なっている。

 中途入社の世界に飛び込む:
この際に人事部ではかなりきついことを言われた。これもここでは詳細は省くが、飽くまでも中途入社が主体の会社である。しかも本部の営業担当マネージャーの代理のような形で、日本担当の営業マンとして採用されるのだ。人事部では「貴方には昇進の道はない。どれだけ年数が経っても東京のマネージャーの地位に止まるのだが、それを承知で応募したのか」と念を押された。承知はしていたが、それほどハッキリと引導を渡されると少しは気持ちが揺らいだ。だが、ここまで来て引き返すことはないので「承知している」と答えてこの面接は終わった。

 日米の人事部門と制度の違い:
新卒は何処へ行く?:
90年代前半にDivision最大の日本の得意先○社のT部長を本社にご案内したことがあった。広い事務所の中を一回りした慧眼のT氏は「この会社には新卒とおぼしき若手社員が見あたらないが、何か理由があるのか?」と、重要会議の後の夕食会の席上で鋭い質問を投げかけてきた。

 これは彼らが好んで使う表現の“Good question!” であり、「良い質問です」とも言っているが「困ったことをお聞きになる」でもある。そして、日米企業社会における最も大きな相違点の重要な一つである。

 アメリカ側から先に説明すれば、彼ら、特に一定規模以上の大手企業、には新卒(予定)者を(就職浪人も含めて)定期採用するために入社試験をして、自社独自の教育を(給与を支払いながら)施して戦力として養成していくという考え方は全く取っていない。序でことで言っておけば、採用された直後は「組合員」という制度も存在しない。それでは、4年制大学(undergraduate)の新卒者は何処に行くのか-という問題にぶつかる。大企業が採用しない以上、中小企業で経験を積んで希望の会社に空席が出来るまで待つか、インタビューのチャンスが巡ってくることを期待して希望する会社の事業部の責任者宛に履歴書を送り続けるか、ひとまず採用された職場で何処かにスカウトされるほどの業績と名を上げるか、人材派遣会社からパート・タイムで送り込まれた際に売り込むか、学生時代にアルバイトをしてその会社にコネを作っておくか等しかチャンスがないと思って良いだろう。(なお、この新卒者を採用しないのは製造業だけのことのようで、銀行や証券業界ではそうとはなっていない)

 さらに、日本の会社と根本的に違う点が二つある。第1はアメリカ(あるいはヨーロッパも?)では学生ないしは社会人がある会社に採用されることを狙うのではなく、特定の会社の特定の職、例えば営業や製造や経理を指す、を希望するのである。採用されても、研修期間を経なければどの部のどの仕事に配属されるのかが明らかではない我が国の制度とは違う。言うなれば日本式は「就社」で、アメリカ式こそ「就職」である。

MBAの世界:
上述のように、「今や一流企業で生き長らえるためにはMBA(経営学修士)は今や最低限の条件というか資格なのである」と、アメリカの友人知己たちから聞かされている。換言すれば、私が在職していた1990代前半よりも遙かに厳しい「学歴社会」となってきたということ。その資格には修士よりも長い学歴である博士、即ちPh.D.も含まれている。因みに、全盛期の我が社の中央研究所などには「意志をなげばPh.D.に当たる」状況だった。

アメリカにおけるビジネススクールの入学資格は「実務世界に於ける4年以上の経験」がある。私は詳しい事情は承知していないが、この資格は我が国とは違うのかも知れない。そこで2年間の受講よりも皆で討論をしあって課題を研究していく形になっているそうだ。勿論、アメリカ式乃至はヨーロッパの大学式とでも言える膨大な量の宿題が与えられるし、十分に調査研究しておかないと書くことが出来ないようなリポートの提出が常時求められるそうだ。

スタンフォード大学、プリンストン大学、ペンシルベイニア大学等のビジネススクールで合計8年間も教鞭を執っていた我が友YM氏が言うには「90乃至は120分間の授業の間に彼が抗議をしている時間はごく僅かで、残る時間が全て院生たちの間での討論と意見の発表に充てられているので、英語力と論旨の纏め方の力が極めて重要なのだ」そうだ。この点では「我が国からの留学生たちにとってハヤや過酷な条件になっている」と彼は指摘していた。

ビジネススクールで学ぶことの妙味を語ることも忘れてはなるまい。YM氏はハーバード大学でMBAを取得していたのだが、この大学には卒業生の為の「ハーバード・クラブ」という組織があって、ここに加入することで強力な人脈を築き上げられるのだそうだ。例えば、YM氏はオバマ大統領の就任式の参加した際に「ヤー、暫く」と声をかけられたのが、ブッシュ政権のポールソン財務長官だったというようなことだ。

また、我がW社ジャパン社長のフランクリン氏はハーバード大学のビジネススクールの短期コースの出身者だったのでクラブの組織のお陰で私と高校の同期で密物産の常務だったNK君の知り合いだったのだ。YM氏はビジネススクールの同期のスタンフォード大学のビジネススクールの教授の推薦で68歳にしてスタンフォード大学のビジネススクールの教授に就任したのだった。

アメリカでは製造業では4年生の歳学の新卒者を採用しないと述べたが、銀行と証券会社の世界では採用するのだ。それ故に、新卒者はこういう分野で実務の経験を積んでからIvy League等の有名私立大学のビジネススクールを目指すのである。私はここまでに述べてきたことが、我が国との文化の相違点であると見ているのだ。

長くなるので、以下は次回に譲ろう。