何とも情けない我が代表のサッカーだった:
いきなり脱線するが、14日夜の試合は1942年にディズィ・ギレスピーが作曲した“A night in Tunisia”ではなく「A night in Osaka」だったのだ。即ち、チュニジア対我が代表のキリンカップの決勝戦だったのだ。
当方は「FIFAのランキングほど当てにならないものはない」と見ているので、昨14日の雨中の一戦は、アナウンサーが幾ら過去の戦績は日本の4勝零敗と叫んでも、陳腐な言い方で申し訳ないが「そうは問屋が卸さないだろう」と思っていた。キックオフの瞬間に来た「閃き」では非常に残念ながら「我が方に勝ち目がない」と感じたほど暗い雰囲気だった。
森保監督は私が言うA級の者どもを揃えた顔ぶれを先発させた。そう来るだろうとは思っていたが「頼りないな」としか感じられなかった。果たして始まってみれば、後陣での横パスの交換ばかりに加えて、前線にいる連中が一向にマークを外してフリーになろうとする動きがないので、無駄にボール占有率を60%にまで高めるだけだった。要するに、かなり強力なチュニジアの守りを突破しかねていたということ。
前半は双方とも無得点だったが、我が方にもチャンスがなかったのではなかった。アナウンサーも解説者も誤ったカタカナ語で「スピードスター」と呼ぶ伊東純也が綺麗なセンタリングを返したにも拘わらず、左側からフリーで飛び込んで来た鎌田が物の見事に外して、またとない先取点の好機を逸してしまったこともあった。(筆者注:“speedster”は「スピード狂」の意味で、俊足のことではない。“speed star”という英語はない)
この時は綺麗にタイミングが合っていたが、彼らは何時だったか木村和司が指摘したように「上がり過ぎ」か「詰め過ぎ」で、得点機を逃す欠陥がある。これは考え直すべきだと思うし、修正するように指導するのが監督・コーチの役目だろう。前に出すぎていれば、相手のデイフェンスと並んでしまうので、如何に良いパスが来ても、思うように処理できなくなるという意味だ。あの時の鎌田は完全に「ノーマーク」だったが外した。FW失格だ。
それにしても、ウンザリするくらい、味方同士で相手が誰もいないところでのパス交換ばかり見せられては興醒めだ。前半には伊東が果敢にデイフェンスを抜いて上がって行ったし、後半にはB級のスター三苫が何度もゴールライン際まで上がってセンタリングを仕掛けたが、真ん中にいる者どもが上がり過ぎていたので、チュニジアのデイフェンスも一緒になって下がってきた為に守られて無為に終わった。
後半に与えてしまったPKも、2失点目の不用意だった守備も、主将の吉田麻也の失態だったのでは如何ともし難かった。3点目などは、最早気が抜けてしまったのかと、寧ろ笑いたくなったほど情けない取られ方だった。前の試合の後で、吉田は問題点が分かったと回顧したが、昨夜の惨敗振りでは問題点どころではない欠陥ばかりが出てしまった。修正じゃなくて、基本からやり直せということ。
欠陥では先ずは「決定力不足」で次は「中盤で35位との競り合いで負けすぎだった勝負の弱さ」を挙げたい。チュニジアは体格にも優れていたが、寄せも早く当たり方も巧妙で、ルーズボールも素早く確保していた。あれほど中盤で勝てなかったので、あのPKで失点した後は、言ってみれば電池切れ状態で焦れば焦るほどチュニジアの術中に嵌まった感があった。
WMフォーメーションの時代に育った者としては、矢張り「もう少しキープ力を上げて向かってくる相手を抜くとか、背中を向けて後ろからのパスを受けたときに後ろに返すのではなく、フェイントでもかけて抜き去る努力をしたらどうか」と言いたくなる。だが、これらよりも遙かに重要なことは「得点をする形を作り上げておくこと」だろう。これは、寄せ集めの代表テイームでは短期間の合同練習では、格好が付くかどうかは疑問に思う。
それにも増して肝腎なことは「得点力があるFWを育てること」だ。言うなれば、大谷翔平か山川穂高が見せる「一発ホームラン」のような強力なポイントゲッターである。それは大迫勇也には望めないし、鎌田大地でもないし、浅野拓磨でもないだろう。言いたくはないが「パス交換の名手」ばかりを選んできていてはW杯の8強進出などは夢のまた夢だ。
実は、昨夜に見た夢では監督が交代していた。2018年にW杯前の4月にハリルホジッチ氏を解任して西野朗氏を任命したことがあったのを思いだしていたようだった。代表に選ばれるだろう23人(26人?)には、何としても奮起して貰いたいものだ。35位に惨敗したようではW杯本番での勝ち上がりは非常な難事業になるだろうから。