新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

6月5日 その2 「カタカナ語の濫用を戒める」をお詫びして加筆訂正します

2022-06-05 16:27:42 | コラム
日本語と漢字文化を破壊しつつあるのではないか:

先ほどサッカー協会が「Jリーグアウオーズ」と表記した事を快挙とした際に、何故快挙なのかの説明が欠落していましたので、ここに改めてお詫びして加筆訂正する次第です。加筆したところを太字にしてあります。失礼致しました。

今回もカタカナ語排斥論者としては、これまでと同じような主張をするとご承知置き願いたい。こうまでしてカタカナ語を批判し排斥するのには、勿論それなりの根拠がある。それは、「日本語はフランス語のように言葉の数か少ないので、外来語に依存しない事には思うような表現が出来なくなったので、政府がそれを嫌って外来語の混用を禁止したような事情はない」のである。そもそも英語を基にしたカタカナ語の助けなど必要がないのだ。

我が国には平仮名と片仮名があり、そこに漢字を加えればほぼ自由自在な表現が可能なのである。それにも拘わらず、何を血迷ったか英語その他の外国語の単語をカタカナ書きにして使っただけに止まらずに、漢字の熟語までをカタカナ語に置き換える暴挙に出る輩が幅をきかせるようになってしまった。私に言わせれば「英語擬き」の表現を混ぜて使う事が、何か格好が良いとか、近代的であるという類いの錯覚を起こしているだけだ」となる。

 今を去る事7年も前の15年12月の事だった。私が22日にサッカー協会がJ―League awardsを「J-リーグアウオーズ」と表記した事を快挙であると語ったところ「貴方は何故そこまでカタカナ語否定に執着するのか。寧ろ嫌味にさえ聞こえる」と、かなり厳しい批判に出会った。

ここでは「何故『アウオーズ』と表記した事を快挙というかを説明しておかねばなるまい。それは、殆どの新聞もテレビも“award”を「アワード」という誤ったカタカナ語表記をするからだ。何時も言ってきた事で、カタカナ語にする前に英和辞典で発音記号を確かめれば「アワード」などではなく「アウオード」が正確な発音だと解るはずだ。それに「戦争」を意味する“war”を誰が「ワー」と発音するかという事だ。

私のカタカナ語排斥論がこのように受け止められているとは、何となく虚を突かれたように感じて非常に残念に思った。しかも、この方は私がカタカナ語排斥論者である事を承知で言っておられるので、余計に衝撃的だった。この人物に私の主張を理解して頂くのに少々時間がかかったが、何とかその場は収められた。

念の為に確認しておくと、私の持論は「カタカナ語を誰が何時どこでどう使おうと妨げるつもりはない。だが、その99%は元の英語の単語乃至は表現とは異なる意味で使われている、我が国の先人たちが知恵を絞って作り上げた英語風の造語なのである。従って、英語での会話か書き物の中で使ってしまうと通用しないことになると承知しておく事」なのだ。

私は今や問題はそれだけに止まっていないと思うのだ。それは、造語的な使い方ではなく、英語の単語そのものをローマ字表記して、そのまま日本語本来の表現と漢字の熟語の代わりに使われている例が急増しているのだ。例えば、「ストップ」、「オープン」、「サポート」、「コンパクト」、「アピール」、「インパクト」、「イメージ」「セキュリティ」、「パフォーマンス」、「テイームメート」、「メイン」等々である。

これらを日本語というか漢字に置き換えてみると「停止」、「開店か開業」、「支持か支援」、「簡潔な、圧縮する」、「訴えかける、興味を惹こうとする」、「影響を与える、衝撃」、「印象、表象、観念、概念、心象」、「安全、防衛、警備、安全確保、機密保護」、「上演、演奏、実績なのだが、振る舞いか出来具合の意味で使われている」、「仲間、同僚」、「主に、主体なのだが、英語ではその後に名詞が来るようにしか使えないのだ。例えば“main street“のように」辺りになるだろう。ここに挙げた漢字の表現は主にジーニアス英和から引用した。

 敢えて「無知蒙昧な」と形容したいテレビ局や社会の木鐸であるはずの新聞でも、一般人は言うに及ばず、さぞかし高い知性と教養を備えておられるはずの国会議員や閣僚までもが、これらのカタカナ語を躊躇う事なく使っておられるのは何とも言えない悲しい現象だし、情けない出来事なのだ。

私がそうまで言う根拠は、カタカナ語の濫用はわが国固有の漢字を使用して物事を表現するのは文化の破壊であると考えているからであるだけではなく、彼らは意図しているかいないかに拘わらず、日本語までも破壊しつつあるからだ。私は「彼らは英語の単語から派生したカタカナ語を漢字の熟語のような深くて広い意味があるかのように使っているのではないか」または「漢字の意味や使い方が解っていないのではないか」と本気で疑っている。

英語という表音文字の言語の単語には、そのような性質はないのである。または、彼らは漢字が何であるかを良く理解できていないので、安易にカタカナ語に依存しているのではないかとも疑っている。

 前記の他に、私が困った使い方だと見ている例を、幾つか採り上げてみよう。先ずは「トラブル」から行こう。この言葉は濫用されているどころではないのだ。テレビ局でも新聞でも「揉め事」、「事故」、「故障」、「何らかの製品の品質問題」、「諍い」等々は全て「トラブル」を使って済ましている。例えば「何かトラブルを抱えていませんでしたか」などと表現している。彼らは平気で「エンジン・トラブル」などと言う。私には“engine failure”しか思い浮かんでこないのに。“trouble”は「心配、苦労、悩み、人にとっての心配事」とジーニアス英和には出ている。

また「スタッフ」も完全に「従業員等々のように使われて、日本語として定着してしまった。私はファミリーレストランから居酒屋のような場所では「ホール・スタッフ」という役目をする人がいると聞いたときに、"whole staff"とは何のことかと一瞬判断に迷った。あれは「hall staff」のことのようだ。「接客係」では何故いけないのだろうか。

“staff”とは「職員、部員、局員、社員、従業員」という意味であり、アメリカ軍では「参謀」と言う意味である。そのstaffがカタカナ語となって、これほど普及したのには驚き呆れている。余談になるが、"the chief of staff”とは「参謀長」を意味するのだ。

 上述したもの以外にも「コラボ」、「何とかアップまたはダウン」、「アップ(ダウン)する」、「インとアウト」、「ノミネート」等々はテレビに出てくる芸人やタレントどものみならず、普通の人(マスコミ用語では一般人)までが真似して使っているのは、本当に宜しくないと思う。一つだけ例を挙げておくと、テレビ中継されるマラソンではアナウンサーが「ゴール・イン」などと叫ぶが、テープにはチャンと“FINISH”と表示されている。“Goal in“などという英語の表現はないのだ。また、“up”と“down"は「動詞」ではないのにも拘わらず安易に「上がる」と「下がる」と言いたくて使っているのは、英文法を正しく教えていないからではないかと疑っている。何れも「副詞」だ。

「ノミネート」は言うまでもなく”推薦”だが「~賞にノミネート」という表現は厳密に英文法で言えば体をなしていないのだ。英語では“He was nominated for 何とかaward.“のように受身の形になるのだ。「

「コラボ」なるカタカナ語は私を驚かせてくれたのだった。私は"collaborate"か"collaboration"という単語がある事は承知していた。だが、これらは日常的に使われる表現ではなく、言うなれば「文語」なのである。その意味は“to work together with ~“だとは知っていたが、社内の報告書に使う事などあり得ないのである。ジーニアス英和には「(文芸・科学の分野で協力(共同する)、合作する、共同で研究する」とある。それが「コラボ」などと省略した形で当たり前のように使われているとは、カタカナ語製造業者たちの豊富な単語の知識には敬意すら表したくなる。

 私から見れば、事態は日本語とその中ある漢字文化の破壊の第一歩どころか、二乃至はそれ以上に進んでしまったのではないかと大いに心配しているのだ。

 締めくくりにお願いして置きたい事がある。それは「カタカナ語は英語とは全く異なった性質の言葉であり、恣意的に妙に歪められた日本語であり、英語のつもりで使う事などされないように」である。願わくは、漢字文化をもうこれ以上破壊しないように」なのである。仮令、無意識にでも、これ以上日本語を破壊しないように十分に注意して欲しいのだ。

なお、上記は7年前の2015年12月に一度発表した一文をアップデート(改訂して最新のものにする)したものである。


カタカナ語の濫用を戒める

2022-06-05 10:46:19 | コラム
日本語と漢字文化を破壊しつつあるのではないか:

 今回もカタカナ語排斥論者としては、これまでと同じような主張をするとご承知置き願いたい。こうまでしてカタカナ語を批判し排斥するのには、勿論それなりの根拠がある。それは、「日本語はフランス語のように言葉の数か少ないので、外来語に依存しない事には思うような表現が出来なくなったので、政府がそれを嫌って外来語の混用を禁止したような事情はない」のである。そもそも英語を基にしたカタカナ語の助けなど必要がないのだ。

我が国には平仮名と片仮名があり、そこに漢字を加えればほぼ自由自在な表現が可能なのである。それにも拘わらず、何を血迷ったか英語その他の外国語の単語をカタカナ書きにして使っただけに止まらずに、漢字の熟語までをカタカナ語に置き換える暴挙に出る輩が幅をきかせるようになってしまった。私に言わせれば「英語擬き」の表現を混ぜて使う事が、何か格好が良いとか、近代的であるという類いの錯覚を起こしているだけだ」となる。

 今を去る事7年も前の15年12月の事だった。私が22日にサッカー協会がJ―League awardsを「J―リーグアウオーズ」と表記した事を快挙であると語ったところ「貴方は何故そこまでカタカナ語否定に執着するのか。寧ろ嫌味にさえ聞こえる」と、かなり厳しい批判に出会った。

私のカタカナ語排斥論がこのように受け止められているとは、何となく虚を突かれたように感じて非常に残念に思った。しかも、この方は私がカタカナ語排斥論者である事を承知で言っておられるので、余計に衝撃的だった。この人物に私の主張を理解して頂くのに少々時間がかかったが、何とかその場は収められた。

念の為に確認しておけば、私の持論は「カタカナ語を誰が何時どこでどう使おうと妨げるつもりはない。だが、その99%は元の英語の単語乃至は表現とは異なる意味で使われている、我が国の先人たちが知恵を絞って作り上げた英語風の造語なのである。従って、英語での会話か書き物の中で使ってしまうと通用しないことになると承知しておく事」なのだ。

私は今や問題はそれだけに止まっていないと思うのだ。それは、造語的な使い方ではなく、英語の単語そのものをローマ字表記して、そのまま日本語本来の表現と漢字の熟語の代わりに使われている例が急増しているのだ。例えば、「ストップ」、「オープン」、「サポート」、「コンパクト」、「アピール」、「インパクト」、「イメージ」「セキュリティ」、「パフォーマンス」、「テイームメート」、「メイン」等々である。

これらを日本語というか漢字に置き換えてみると「停止」、「開店か開業」、「支持か支援」、「簡潔な、圧縮する」、「訴えかける、興味を惹こうとする」、「影響を与える、衝撃」、「印象、表象、観念、概念、心象」、「安全、防衛、警備、安全確保、機密保護」、「上演、演奏、実績なのだが、振る舞いか出来具合の意味で使われている」、「仲間、同僚」、「主に、主体なのだが、英語ではその後に名詞が来るようにしか使えないのだ。例えば“main street“のように」辺りになるだろう。ここに挙げた漢字の表現は主にジーニアス英和から引用した。

 敢えて「無知蒙昧な」と形容したいテレビ局や社会の木鐸であるはずの新聞でも、一般人は言うに及ばず、さぞかし高い知性と教養を備えておられるはずの国会議員や閣僚までもが、これらのカタカナ語を躊躇う事なく使っておられるのは何とも言えない悲しい現象だし、情けない出来事なのだ。

私がそうまで言う根拠は、カタカナ語の濫用はわが国固有の漢字を使用して物事を表現するのは文化の破壊であると考えているからであるだけではなく、彼らは意図しているかいないかに拘わらず、日本語までも破壊しつつあるからだ。私は「彼らは英語の単語から派生したカタカナ語を漢字の熟語のような深くて広い意味があるかのように使っているのではないか」または「漢字の意味や使い方が解っていないのではないか」と本気で疑っている。

英語という表音文字の言語の単語には、そのような性質はないのである。または、彼らは漢字が何であるかを良く理解できていないので、安易にカタカナ語に依存しているのではないかとも疑っている。

 前記の他に、私が困った使い方だと見ている例を、幾つか採り上げてみよう。先ずは「トラブル」から行こう。この言葉は濫用されているどころではないのだ。テレビ局でも新聞でも「揉め事」、「事故」、「故障」、「何らかの製品の品質問題」、「諍い」等々は全て「トラブル」を使って済ましている。例えば「何かトラブルを抱えていませんでしたか」などと表現している。彼らは平気で「エンジン・トラブル」などと言う。私には“engine failure”しか思い浮かんでこないのに。“trouble”は「心配、苦労、悩み、人にとっての心配事」とジーニアス英和には出ている。

また「スタッフ」も完全に「従業員等々のように使われて、日本語として定着してしまった。私はファミリーレストランから居酒屋のような場所では「ホール・スタッフ」という役目を人がいると聞こえたときに、"whole staff"とは何のことかと一瞬判断に迷った。あれは「hall staff」のことのようだ。「接客係」では何故いけないのだろうか。

“staff”とは「職員、部員、局員、社員、従業員」という意味であり、アメリカ軍では「参謀」と言う意味である。そのstaffがカタカナ語となって、これほど普及したのには驚き呆れている。余談になるが、"the chief of staff”とは「参謀長」を意味するのだ。

 上述したもの以外にも「コラボ」、「何とかアップまたはダウン」、「アップ(ダウン)する」、「インとアウト」、「ノミネート」等々はテレビに出てくる芸人やタレントどものみならず、普通の人(マスコミ用語では一般人)までが真似して使っているのは、本当に宜しくないと思う。一つだけ例を挙げておくと、テレビ中継されるマラソンではアナウンサーが「ゴール・イン」などと叫ぶが、テープにはチャンと“FINISH”と表示されている。“Goal in“などという英語の表現はないのだ。また、“up”と“down”は「動詞」ではないのにも拘わらず安易に「上がる」と「下がる」と言いたくて使っているのは、英文法を正しく教えていないからではないかと疑っている。何れも「副詞」だ。

「ノミネート」は言うまでもなく”推薦”だが「~賞にノミネート」という表現は厳密に英文法で言えば体をなしていないのだ。英語では“He was nominated for 何とかward.“のように受身の形になるのだ。「

「コラボ」なるカタカナ語は私を驚かせてくれたのだった。私は"collaborate"か"collaboration"という単語がある事は承知していた。だが、これらは日常的に使われる表現ではなく、言うなれば「文語」なのである。その意味は“to work together with ~“だとは知っていたが、社内の報告書に使う事などあり得ないのである。ジーニアス英和には「(文芸・科学の分野で協力(共同する)、合作する、共同で研究する」とある。それが「コラボ」などと省略した形で当たり前のように使われているとは、カタカナ語製造業者たちの豊富な単語の知識には敬意すら表したくなる。

 私から見れば、事態は日本語とその中ある漢字文化の破壊の第一歩ところか、二乃至はそれ以上に進んでしまったのではないかと大いに心配しているのだ。

 締めくくりにお願いして置きたい事がある。それは「カタカナ語は英語とは全く異なった性質の言葉であり、恣意的に妙に歪められた日本語であり、英語のつもりで使う事などされないように」である。願わくは、漢字文化をもうこれ以上破壊しないように」なのである。仮令、無意識にでも、これ以上日本語を破壊しないように十分に注意して欲しいのだ。

なお、上記は7年前の2015年12月に一度発表した一文をアップデート(改訂して最新のものにする)したものである。