新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

何でそうなるのかな

2022-06-19 08:29:55 | コラム
兎角この世には良く解らないことが多くなった:

多分、当方が老化して時代に遅れた為だろうと思わせられることが多くなってきた。そのような例を幾つか挙げておこう。

あれから50年経った:
2022年となってしみじみと回顧した事は極めて私的な問題なのである。それは、今を去ること50年も前に、不肖私が17年もお世話になった会社からアメリカの会社に転進していたのだった。ふと、それに気が付いて「あれから半世紀も経っていたか」と感無量などとは言わないが、陳腐な表現を用いれば「昨日のことでもあるようだし、遙か昔の出来事だったよう」な気もするのだ。

そこに、産経新聞の「新聞に喝」の欄に京都府立大学の岡本隆司教授が「日中国交正常化から50年だが、新聞はこの事を余り取り上げていない」旨の指摘をしておられた。「なるほど。そうだった」と思い出させて貰えた。実は、この重大な事柄についての記憶はそれほど鮮明ではなかったのだ。何故かと言えば、故田中角栄総理がその年の9月に国交正常化を果たされる前の7月5日に、福田赳夫を破って自民党総裁に選出されたことの印象が鮮烈だったからだ。

私的な事情の回顧になるが、私は6月30日に漸く自己都合での退社が認められて、そこに至るまでの諸々の事情で精神的にも疲労困憊していたので、伊東の民宿に休養に行く途中の熱海の駅のテレビで見た田中角栄氏が総裁に選ばれる物凄い熱気の中継で「人が言い知れぬ苦労をしている間に、こんな事が起きていたのか。その時に、俺はお世話になった会社を辞めてアメリカの会社に転進するのか」と、何と形容して良いか解らない感覚に囚われていたのだった。

別な見方をすれば、田中角栄氏のような経歴の政治家が福田赳夫氏のような、我が国としては代表的な出世街道を歩んできた方が、田中角栄氏に負けたということの印象が余りにも強く、総理就任後の日中国交正常化の方の印象が不鮮明だったのだ。その正常化から50年を経た現在の「世界における中国の地位と立場」及び「日中関係」に思いを致せば、また陳腐な表現になるが「隔世の感あり」なのだ。

佐藤心結さん:
今朝ほど、新聞で「ニチレイレデイス」のゴルフの途中経過を偶々見ていた家内が、そこに出ている女性プロゴルファーたちの名前が読めないと言いだした。中でも、同率首位に立っている佐藤心結さんの「心結」を「ミユ」と読ませるのだと知って嘆いたのだった。私は確か親の虐待に遭って可哀想に亡くなった子供が「心結チャン」だったと記憶していたので読めたに過ぎないのだ。

そこで、「何故心結と書いて『ミユ』なのか」を検索して見た。すると、この名前は決して珍しいものではなくDQNなのだ」とあって、またまたDQNなどと解らない言葉に遭遇してしまった。そこで、更に検索するとWeblioに、

「dqn(どきゅん)とは、軽率そうな人、非常識な行動をする人、教養がなく品位がない人を侮辱的に表すときに用いるネットスラング。読み方は「ドキュン」が主流だが、近年では「ディー・キュー・エヌ」と読まれることもある。」

と出てきた。「なるほど。これでは超高齢化した私が知らなくても別に屈辱ではないことのようだ」と、妙に安堵したのだった。もしかすると、ネット上ではそういう命名をする人(親?)たちをそういう目で見ているのかなとも感じた。何れにせよ、私には「キラキラネーム」を選択する現代の若き親御さんたちは理解不能だし、理解しようとも思わない。

全く別なことを言えば「ニチレイレデイス」の「レデイス」もカタカナ語排斥論者は好ましくないのだ。“lady”の正確な発音は「レィデイ」なのだから。何処かで誰かが辞書を見ずに「レデイ」としたのだろう。しかも、レデイでは英語の単語では“ready“になってしまう。

渡辺謙さんがMLBで始球式に:
ここで理解できないと批判したい相手はマスコミだ。何度も批判してきたことで「彼らは戦後70年以上も経った今でも、誰かが海外で大活躍するか、何らかの賞を獲得すると『さー、喜べ』か『それ、皆で褒め称えよ』と大騒ぎだ。私には彼の感覚は未だに敗戦から立ち直れていなかった戦後の荒廃から立ち上がって、先進国に追い付こうとしていた時代の感覚の儘」であるのが何とも情けないのだ。

言いたくないがアメリカを含めて長い年月、多くの機会に海外を経験してきた私は「我が国ほど優れた国と国民はない。アメリカなどは100人いれば本当に抜群に優秀な者は精々1%だ。皆均一に優れていたムラがない我が国と比較するのも不適切だ。日本国民はもっと自信を持って海外の諸国と対峙して良い」と繰り返して指摘して来た。

だが、マスコミは未だに覚醒できていない。映画などで海外の賞を獲ったとか、アメリカで映画や演劇に出た事などを如何にも素晴らしい名誉であり誇るべき実績のように礼賛する。それは、その分野では確かにそうなのだろうが、実業の世界では世界の何処にも勝るとも劣らない企業など幾らでもある。ノーベル賞獲得の会社がどれだけあったかを考えろと言いたい。

彼らはそういう視点にしか立っていないから、渡辺謙さんを英雄の如くに扱うが、彼の私生活面での振る舞いについては触れない。MLBでの始球式では嘗て読売の務臺氏がシアトルで、それまでの慣例ではない球場に降りてマウンドまで行かれて投げられたことなどの回顧など一切していない。しかも、務臺氏は靴を脱いで登板されたのだった。

私の記憶では、あれ以来アメリカでは客席から投げ込んでいた“first-pitch (ceremony)”に、登板方式が増えてきた気がするのだ。渡辺謙さんがどうのと言う前に、このくらいのことに触れても良くはないか。