外国を経験することのプラスとマイナス:
先に指摘しておきたいことを言ってしまえば「今時、『時差ボケ』なというような時代遅れの表現を使わないで欲しい」とマスコミに告げたいのだ。
昨17日の夜は、交流戦が終わって同一リーグ内の試合に戻ったNPBの野球の中から、主としてホークス対イーグルスの一戦を見ていた。見所は千賀滉大対田中将大の投げ合いにあるようだった。海外経験が豊富な方だろうと思っている私からすれば、中々物思わせてくれる展開だった。言葉を変えれば、選ぶに事欠いて、ニューヨーク・ヤンキースに出ていった田中将大君の凋落振りを目の当たりにさせられたと感じていた。
これまでに何度も何度も、アメリカの社会のような何処まで行っても個人が主体で、自分以外には誰も頼りに出来ない世界に、それとは知らずにノコノコと参入した場合に遭遇する大変さ(辛さでも良いだろう)を経験すれば、それこそ骨身を削ってでも、その中で生き残るべく可能な限りの体力的な努力が、頭脳的な努力の他にも絶対的に近いほど必要なのだと解るのだ。
私が強調したいことは「先方が我が国よりも優れた世界だから対応するのが大変だ」と言っているのではない。即ち、「異文化(言語・風俗・習慣・思考体系等の意味)の世界にどれほど速やかに対応できるか、乃至は出来たか」が問題なのである。私は愚かにも「会社である以上、日本でもアメリカでもさしたる相違点はあるまい」と考えて入っていき、文化の違いという高くて厚い壁にぶつかった。「壁」には宗教も含めておいても良いだろう。
この考え方を野球の世界にも当て嵌めてみれば、私は繰り返して「野球とbaseballは似て非なるものだ」と指摘してきた。しかも、アメリカでかなり数の試合を見てきたMLBでは「基調に我が民族とは異なる体格と基礎体力と身体能力を備えた民族が、その全てを備えた個人の力を主体にしたbaseballをやっている」と見て取ってきた。企業の社会でも、これと同じような点があると指摘して誤りではないだろう。
その「個」の力を基調にしたbaseballの世界に入っていって、北と南アメリカの世界から来た者たちの中に混じって、彼らに勝るとも劣らない実績を残した真の意味での成功者は野茂英雄、鈴木一朗、松井秀喜くらいのものではないか。大谷翔平は未だ結果が出ていない段階にあると思うので、ここでは成功者の範疇には入れないことにする。
何が言いたいのかと言えば、体格や身体能力という言わば不利な条件と文化の違いという障害物を乗り越えて実績を残すのは、容易ではないという点である。そこには言語の問題もある。私はMLBが何故か日本の選手たちに通訳を付けるという待遇をしているのには、やや疑問を感じている。そのような条件の下で、どれほど現地人と心が通う間柄になるかと思う。現に、NFLに日本の選手が出てこないのは、ハドルの中などでの短い英語の会話についていけないからだと聞いた。
確認できた情報ではないが、イチロー君がアメリカでテレビ等に登場する場合に日本語でしか語っていないが、日常生活は完全に英語だけで過ごしているとかだ。その反対をNPBに来ている外国人たちは通訳に依存しているせいか、ベンチ内で同僚(チームメイト何て言わないよ)の日本人選手と語り合っている画面など見たことがない。「だから上手く行く者が少ない」とまでは言わないが。
そこで、田中将大である。私は彼が昨年NPBに戻ってきた後の投げっぷりを見て「もう、終わった投手ではないのか」とまで酷評した。そして、昨夜の千賀との投げ合いでは牧原にまでホームランを打たれ、痛打されてしまった。正直に言って「痛々しかった」のだ。問題として指摘したいことは「アメリカのMLB、それも多くの球団に目の敵にされるヤンキースの8年間(?)で持てる力と能力を使い果たして終わってしまったのではないか」なのだ。
彼は、その見返りに十分な年俸を得て経済的には成功者だったのだろう。経済的な成功者にはイチロー、松井秀喜を挙げたいが、松坂大輔、上原浩治、黒田博樹、長谷川滋利等々もその範疇に入れても良いだろう。彼らに共通している点は「選手としてはもう無理はしないで、獲得した資金を活かしてアメリカでの人生を楽しんでいる」のではないか。
だが、田中将大は日本球界復帰を選択した。だが、私の目には遺憾ながら、彼はヤンキース暮らしで持てる力と体力をほぼ使い果たしてしまったとしか見えないのだ。樂天でもう一花咲かして見せようとしたのだろうか。その意図は誠に壮なりで結構だが、昨夜のような無残な有様を見せられては、「壮」だと褒める訳にもいかないと思って見ていた。身の振り方を考えた方が良いかも知れない。アメリカでの暮らしがきつ過ぎたのだろうと見ている。
ここで、自分の話にも触れておく。私はウエアーハウザーの引退までの10年近い間には、年間に6回も7回も日本とアメリカの間を往復していたし、アメリカにいればあの広い国を縦横無尽に飛び舞わざるを得ず、年中無休で時差を経験していた。そういう過ごし方をしていれば「そう言えば、ここまで来れば時差もあったか」という具合で、そんな事に煩わされていることなどなかった。彼らからそういう「時差」の類いの問題を聞かされたことなどなかった。
在職中に屡々聞かされたことに「10時間以上の時差を経験することは、自分から寿命を1年も削っているのと同じだ」だった。だが、お陰様で未だ削れる余地は残っているかと思う。先ほども、テレ朝のアナウンサーが「大谷翔平は長距離移動も時差もものともせずに活躍している」と礼賛していた。繰り返して言うと「アメリカとは、そんな事を気にしていては生き残れない世界」なのだ。
最後にマスコミに向かって指摘しておきたいことは「海外に進出して何らかの実績を残したことを無闇に礼賛するな。時代は貴方たちが騒ぎ立てるように国際化され、グローバル化とやらも進み、交通網も発展したので、国家間の移動は容易いことになっている。その時代にあって、古くさい言葉である『時差ボケ』などという表現を使うな」なのだ。その程度で「ボケ」ていれば、時代には付いていけないと知って欲しいのだ。