新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

セコムの創立者・飯田亮氏逝く

2023-01-14 09:27:31 | コラム
飯田亮氏は湘南中学の同期生だった:

セコムの創立者・飯田亮氏が亡くなったと報じられた。先ずはご冥福を祈りたい。一部の報道では飯田氏は湘南高校の第27期の出身で、同期には故石原慎太郎君や故江藤淳氏(本名江頭淳夫で、エガシラと読む)がいて、江藤氏や石原君とは親交があったとなっている。26期生の私としては、少しばかり事実誤認というか混同された報道だと思う。

それは、我々26期生は昭和20年に湘南中学に入学したのだったが、進駐軍による学校制度の改革(私見では改悪以外の何物でもない)で昭和23年に湘南高校にされてしまったので、今で言う中高一貫で同じ学校に6年間通う事になった。だから、私は同期であれば顔も名前も知らない者などないと信じていた。だが、飯田亮氏は知らなかった。

だが、1980年頃だったかに、同期で紙流通業界大手N社の社長だったT君に「飯田は同期だ」と教えられて驚いた。T君に聞けば、飯田氏とは葉山の小学校の同期で、一緒に湘南中学に入ってから彼が休学して1年下にはなった。だが、交友関係を維持していたので、セコム社長の飯田氏とは定期的に会食していたそうだった。それだからかどうか、後に同期会等で尋ねてもこの飯田氏が同期だったと知らない者が多かった。

飯田氏は日本警備保障社に湘南高校出身者を優先して何名か幹部に採用していたようだと聞いていたし、実際に私の1期下でサッカー部のマネージャーだったO君は慶応大学から日本テレビのアナウンサーに採用されていながら、飯田氏の会社に転進していた。

石原慎太郎君は逗子小学校から昭和20年に入学して、高校3年になるときに休学したので、我々の1年後の27期になってしまったのだ。故に、飯田氏とは高校3年の時に同期となったのだが、付き合いがあったか否かまでは知らない。石原君は中学3年まではサッカー部に在籍し、昭和22年の神奈川県中学サッカーの少年部で優勝したときには、右のサイドハーフ(RH)で出場していた。

ややこしいのが江藤純氏だ。彼が高校時代から3年次に同学年になってしまった石原君と親交があったと報じられているが、これはあり得ないと思う。それと言うのも江藤氏は高校3年になるときに、都立日比谷高校に転校していたのだから、石原君に会えるはずがなかったのだ。私は偶然の事で、サッカー部の1年下のK君に「こいつ、エガシラっていうのです」と紹介されて、小柄で赤ら顔の人に紹介されて挨拶した記憶があったが。

これは、その当時に湘南高校の中で実しやかに広まっていた説に「東大に行きたかったら湘南では無理で、天下無敵の日比谷高校に転校せねば」というのがあり、26期からも3年になるときに数名転校していった。1期下の江藤氏もその一人だったようだ。だが、悲しい事に転校組から東大入学に成功した者はいなかったし、江藤氏も東大ではなく慶応大学文学部に進んでいた。

取り留めもない身内の話だったが、超後期高齢者としてはマスコミ報道には少し混乱があるようなので、敢えて採り上げてみた次第。因みに、石原君は我々の「二六会」と称する同期会の名簿にも載っているが、飯田亮氏は掲載されていない。