此の世では望まなかったことは達成出来るもののようだ:
大学1年のことだったか、苦手とする物理の神父様ではない日本人の教授が「此の世では、若いときには何としても達成したいか、手に入れたい夢のようなことがある。だが、そう心から望んでいるときには達成出来るとか手に入る事は滅多にない。だが、不思議なことに、そんな事をすっかり忘れて「達成しようとも、達成したいとも、達成出来るとも考えなくなったときに、それは思いがけずにアッサリと出来てしまうものだ」と聞かされたことがあった。
実は、何を隠そうこの私は英語が話せるようになるべく、GHQの秘書の方に厳しく教えて頂いた後の高校の頃と、大学1~2年の頃には、アメリカは何とかして出来ることなら行きたい、行ってみたい“land of dream”だった。だが、その希望も夢も叶わずに大学を終えて就職した、しかもその会社では希望通りに英語など全く縁もなく必要もない国内市場を担当する営業職に配属された。アメリカのことなど全く忘れ、何とかなっていた英語力などは「趣味として活かそうか」と考えていた。
ところが、就職後16年目の後半辺りになって、経緯の詳細の説明は長くなるので省略するが「運というか、運命の悪戯か」に偶然の機会が重なって、「アメリカの会社に移ってみないか」との予想もしていなかった条件が提示された。そこで、全く自分のことと家族のことだけを考えて、インタービュー(面接試験)を受けてみれば、その場で採用となった。その為に、17年3ヶ月育てて頂いた大恩ある会社を去って、1972年8月に異文化の世界に飛び込んでいったのだった。
ここで強調することは、最早「行こうとも、行きたいとも、行く事が出来るか」などと全く期待していなかったアメリカに「トレーニング」という名の顔見せと「アメリカの会社とは」を実地に経験して学ぶ25日間の出張の機会を与えられたのだ。「なるほど、望んでいないときには、古い願いか夢は叶うものだ」と実感していた。それから22年ほどの間、全く予想も予期もしていなかった激務の世界を経験して引退して今日に至っている。
私はそもそも人生計画などには鈍い方なので「何歳まで生きて何と何をしよう」などということは考えてもいなかったし、何歳まで生き残ろうかとの目標なども考えてもいなかった。その「のろま」の私をその漢字すら書けなかった「心筋梗塞」に72歳が後6日を残しただけの日に襲われて、救急車に国立国際医療研究センター病院に運んで頂いて、一命を取り留めることが出来た。2006年1月だった。
それから以降は「一病息災」などと聞かされた上に、主治医の言われることを可能な限り守り、あらゆる危険を排して、慎重の上にも慎重に暮らすようになった。食生活でも家内の協力を得て「減塩、脂肪抜き」の食事療法にも耐えた。だが、これは長生きを目指しているのではなく、ただ単に「死にたくない」という切なる願望があるだけのことからだった。自分では確たることは解らなかったが、2006年の8月にはCPAまでも経験していた。
導入部が長すぎたかも知れないが、私には「90歳までは生き残ろう」とか「何歳まで生きていこう」などとぃう目標も願望も無く、ひたすら主治医が言われる「ストイックな生活」を続けて来ただけだった。その流れで、気が付けば願ってもいなかったし、望みでも何でもなかった90歳という記念すべ年齢に達していたのだった。しかしながら、90歳が近付くにつれて「本当に達成出来るのか」との不安感に連日連夜苛まれていた、正直なところを言えば。
では、ここから先に何か新しいことをやってみようかという大それた計画もなく、これまで通りの「日頃の行動範囲を逸脱しない生活」を続け、例えば明日からは朝一番にブログを更新し、これまで通りにジムに行って15~20分間の「ストレッチ」、一周100mのインドアトラックを持続可能な速さで5~6周は歩いてから、マッサージチェアにかかり、大きな浴槽でジェットバスを楽しんでこようと思っている。
矢張り日常生活の計画はこの程度にして、何歳まで活かして頂けるかは「神のみ旨」などと言えば、キリスト教の信者のようになってしまうが、当分「死のうと思う計画など」は夢にも立てていないし、立てようもない。