新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

卒寿に達して思う事

2023-01-22 13:45:11 | コラム
此の世では望まなかったことは達成出来るもののようだ:

大学1年のことだったか、苦手とする物理の神父様ではない日本人の教授が「此の世では、若いときには何としても達成したいか、手に入れたい夢のようなことがある。だが、そう心から望んでいるときには達成出来るとか手に入る事は滅多にない。だが、不思議なことに、そんな事をすっかり忘れて「達成しようとも、達成したいとも、達成出来るとも考えなくなったときに、それは思いがけずにアッサリと出来てしまうものだ」と聞かされたことがあった。

実は、何を隠そうこの私は英語が話せるようになるべく、GHQの秘書の方に厳しく教えて頂いた後の高校の頃と、大学1~2年の頃には、アメリカは何とかして出来ることなら行きたい、行ってみたい“land of dream”だった。だが、その希望も夢も叶わずに大学を終えて就職した、しかもその会社では希望通りに英語など全く縁もなく必要もない国内市場を担当する営業職に配属された。アメリカのことなど全く忘れ、何とかなっていた英語力などは「趣味として活かそうか」と考えていた。

ところが、就職後16年目の後半辺りになって、経緯の詳細の説明は長くなるので省略するが「運というか、運命の悪戯か」に偶然の機会が重なって、「アメリカの会社に移ってみないか」との予想もしていなかった条件が提示された。そこで、全く自分のことと家族のことだけを考えて、インタービュー(面接試験)を受けてみれば、その場で採用となった。その為に、17年3ヶ月育てて頂いた大恩ある会社を去って、1972年8月に異文化の世界に飛び込んでいったのだった。

ここで強調することは、最早「行こうとも、行きたいとも、行く事が出来るか」などと全く期待していなかったアメリカに「トレーニング」という名の顔見せと「アメリカの会社とは」を実地に経験して学ぶ25日間の出張の機会を与えられたのだ。「なるほど、望んでいないときには、古い願いか夢は叶うものだ」と実感していた。それから22年ほどの間、全く予想も予期もしていなかった激務の世界を経験して引退して今日に至っている。

私はそもそも人生計画などには鈍い方なので「何歳まで生きて何と何をしよう」などということは考えてもいなかったし、何歳まで生き残ろうかとの目標なども考えてもいなかった。その「のろま」の私をその漢字すら書けなかった「心筋梗塞」に72歳が後6日を残しただけの日に襲われて、救急車に国立国際医療研究センター病院に運んで頂いて、一命を取り留めることが出来た。2006年1月だった。

それから以降は「一病息災」などと聞かされた上に、主治医の言われることを可能な限り守り、あらゆる危険を排して、慎重の上にも慎重に暮らすようになった。食生活でも家内の協力を得て「減塩、脂肪抜き」の食事療法にも耐えた。だが、これは長生きを目指しているのではなく、ただ単に「死にたくない」という切なる願望があるだけのことからだった。自分では確たることは解らなかったが、2006年の8月にはCPAまでも経験していた。

導入部が長すぎたかも知れないが、私には「90歳までは生き残ろう」とか「何歳まで生きていこう」などとぃう目標も願望も無く、ひたすら主治医が言われる「ストイックな生活」を続けて来ただけだった。その流れで、気が付けば願ってもいなかったし、望みでも何でもなかった90歳という記念すべ年齢に達していたのだった。しかしながら、90歳が近付くにつれて「本当に達成出来るのか」との不安感に連日連夜苛まれていた、正直なところを言えば。

では、ここから先に何か新しいことをやってみようかという大それた計画もなく、これまで通りの「日頃の行動範囲を逸脱しない生活」を続け、例えば明日からは朝一番にブログを更新し、これまで通りにジムに行って15~20分間の「ストレッチ」、一周100mのインドアトラックを持続可能な速さで5~6周は歩いてから、マッサージチェアにかかり、大きな浴槽でジェットバスを楽しんでこようと思っている。

矢張り日常生活の計画はこの程度にして、何歳まで活かして頂けるかは「神のみ旨」などと言えば、キリスト教の信者のようになってしまうが、当分「死のうと思う計画など」は夢にも立てていないし、立てようもない。


卒寿の東京見物

2023-01-22 08:12:11 | コラム
経済は激しく回っているだろうなと痛感:

だが、あれほど超後期高齢者を圧倒していた東京都心の賑わいでは、COVIDの第8波など収束する可能性は限りなく低くなりはしないかと少し怖い思いだった。土曜日で晴天であったことも後押ししたのだろうが、有楽町駅前から豊洲に向かった東京随一の繁華街だと思う町並みの人出は想像以上で、恐らくCOVID以前の活況を見せていたと思う。何処の駐車場に入っても満車の状態で、話は違うが「我が国はもしかするとアメリカ以上の車社会か」と感じていた。

最初に新大久保から山手線で降り立ったのは懐かしき有楽町。満員の山手線の電車内では何とか優先席を確保して座っていた、高齢者らしく。目的地は新国際ビルなのだったが、その前に在職中には「人生の半分は過ごしたのではないか」と冗談を言った新有楽町ビルを通り抜けた。それは、ここに我が社最大にして最重要の取引先の本社があったからだ。このビルも再開発で取り壊しになるそうで、1階の高級洋品店が「閉店セール」の看板を出していた。

12時前の三菱の丸の内街の出口とも言えるだろうこの通りも、多くの人で賑わっていた。新有楽町ビル1階のオリエンタルホテルのレストラン(なのだろう)は満席の状態で、その外の通りには入店を待つ人の長蛇の列。「岸田さん。景気は無事に回復途上にあるようですからご安心を」と、声をかけて上げたい衝動すら感じた活気。「だから、評判が良くない防衛増税などお止めになれば」とでも言うか。

実は一寸した事情があって、思いがけなかったことで、その隣の新国際ビル地下の理髪店に遙々やって来たのだった。散髪を終えて地上に出てみると、長い間のご無沙汰ですっかり方向感覚を失っていて、どちらの方角に向かって歩けば、息子と待ち合わせていた新有楽町ビルに辿り付けるのか解らなくなってしまったのが、何とも悲しかった。「エイヤッ」と歩き出した方角が正解だった。

そこから遅めの昼食になる豊洲の「ららぽーと」に向かったのだが、晴海通りの人出の凄まじさにも仰天はしなかったまでも、驚異的かと感じていた。ららぽーとの駐車場では空きを探すのに愚息は苦労していたが、館内に入ればその賑わいも予想以上で、将に人並みを押し分け掻き分けて目的の焼き肉屋に向かった状態。少なくとも東京都内の景気だけは回復しているのではと感じさせられた。物価高だのエネルギー価格上昇などは「何処吹く風」なのかと思わせられた。

東京都新宿区百人町などのような無駄に無意味に低次元の国際化が進んでしまった界隈に住んでいると、有楽町や豊洲のように時代の先端を行っている街に来ると戸惑うことが多いので困る。この焼き肉屋でも順番待ちは「タッチパネル」方式になっていた。今や、このやり方とタブレットで注文し、自動支払機で決済するのは当たり前になってきた。家内などは「もう一人では迂闊に外食も出来ない時代になった」と嘆息。

偶に本当の都心に出て感じることはといえば「日本人が多いな」と「我が国には白人たちも来ているのだな」なのである。その意味は「新宿区百人町/大久保界隈にいれば、明らかに我々日本人は少数派であり、外国人が多いといっても白人は滅多に見かけない」のである。確かに、昨日は観光客と思しき白人たちも見かけた。だが、私にはやって来る外国人が増えたと喜ぶ前に「どのような種類の人たちが入ってくるのか」を深刻に考え直す必要があると思うのだ。

帰路の恵比寿駅では改札口を通った後にある新潟県十日町市の「コシヒカリ」の握り飯を売っている店で、間違いなく美味であろうお結びを4個買って帰った。それと言うのも、もう15年ほど前のことになったが、十日町市で開催された催し物の講師を依頼された際に、振る舞われた有機栽培のコシヒカリの塩むすびの美味さに圧倒されたからだ。あれ以来「お握りは塩に限る」と信じるようになった。何と、この売店でも自動支払機が据え付けられていた。

東京都内の本当の都心を移動すれば、何処に行っても高層建築のオフィスビルと集合住宅(「マンション」なんていう言葉の誤用は取らない)が林立(乱立?)していて、恰も谷底を走っているかのように感じさせられるし、嘗ての目印だったビルが「森の中に入って木を探す」かのようになって方向感覚を失ってしまうので、自分が何処にいるのかが解らなくなってしまうので困る。

COVIDの襲来以来東京ビッグサイトに行く機会がなくなったので、豊洲周辺の再開発(なのかな)に惑わされて、何時どうやってららぽーとに着いたかも解らなかった。こういう現象は何も豊洲だけのことではない。都内何処に行っても同じように激しく変わっているのだ。

なお、本1月22日で思ってもいなかった90歳に(戸籍上で)という卒寿に達していたのだが、本稿は1日早く卒寿と題していた次第。なお、蛇足かも知れないが、当方は東京市小石川区(現文京区本駒込とか)生まれである。